好きだと言えない理由
朝になっても、私の耳の奥には、十年前の無音が残っていた。
工房へ戻る道で、エルドさんは一度も手を離さなかった。けれど、指を絡めることもしなかった。つないだ手の間には、薄い紙一枚分の距離がある。
その距離が、昨夜より遠く感じられた。
仮の工房では、イネスが炉の前で待っていた。私たちの姿を見ると、ほっと息を吐き、すぐにエルドさんの外套についた泥へ目を向ける。
「無事ならいい。追手は?」
エルドさんが首を横に振り、私は鐘楼で見たことを話した。母の名前が記された黒い欠片のことも、七本線の章を持つ誰かが、十年前から王子の声の封印を知っていたことも。
イネスは黙って聞き終えると、炉の脇から小さな木箱を持ってきた。
「これ、昨日の夜に裏口へ置かれてた。あんたの名前が書いてある」
蓋の上には、見慣れた母の筆跡があった。
指先が震えた。中に入っていたのは、切り取られた譜面と、薄い青紙だった。
――音を取り戻すには、正しい旋律だけでは足りない。誰の命令でもない言葉を、鐘の前で選びなさい。
それだけだった。
私は紙を持ったまま、隣のエルドさんを見た。彼は青紙を読み、しばらく目を伏せていた。それから筆談板に、短く書く。
『君は、僕の声を戻したい?』
「はい」
迷う理由はなかった。母のためでもある。改ざんを正すためでもある。そして、エルドさんが自分の声で、自分の望みを言えるようになってほしかった。
彼は少しだけ眉を寄せ、次の文字を書いた。
『声が戻ったら、君は僕のそばにいる理由を失う』
「そんなこと……」
言いかけて、言葉が止まった。
私は何のために彼のそばにいるのだろう。音律師として依頼を受けたから。母の失踪の真相を追うため。王都の雨を取り戻すため。どれも本当だった。
けれど、それだけなら、昨夜あんなふうに手を握り返されたとき、胸が痛むはずはない。
エルドさんは板を伏せた。代わりに、指先で机を二度叩く。問いかけの合図だった。
「どうして、そんなことを聞くんですか」
彼は答えを書かなかった。
王子と音律師。身分の差は、雨雲よりも厚い。私は家の工房で名もない修理役だった。婚約を解かれたばかりで、ようやく自分の仕事を始めたところだ。彼の隣に立てば、今度は誰かの所有物として見られるかもしれない。
エルドさんにも、理由がある。
声を失った第三王子は、王位争いから外された存在だ。彼が私を必要とするのは、私が音を聞き分けられるから。もし声が戻れば、彼は王子として扱われ、私との間にあるものは、仕事ではなく政略に変わる。
彼は王子だから、私を選べない。
私は音律師だから、彼に選ばれることを望んではいけない。
そう考えた瞬間、胸の奥に別の音が落ちた。低く、鈍い音。自分で自分の気持ちを押しつぶした音だった。
「……私たちは、好きだと言えないんですね」
口にしてから、しまったと思った。エルドさんの目が大きく見開かれる。
私は慌てて首を振った。
「いえ、今のは、その……母の青紙に、誰の命令でもない言葉とあったので。王子と音律師の間に、命令ではないものがあるとしたら、何なのかと」
苦しい言い訳だった。
エルドさんは筆談板を引き寄せ、何度も書き始めては消した。最後に残ったのは、たった三文字だった。
『僕は――』
その先を、彼は書かなかった。
書けないのではなく、書かないのだと思った。声を奪われたから言えないのではない。言えば、私を危険に巻き込み、王子としての立場を利用し、私の選択を奪ってしまうから。
私はその手に、自分の手を重ねた。
「言わなくていいです」
彼の指がこわばる。
「今は、言葉にしなくていい。私も、言えません。エルドさんの隣にいるのが仕事のためだけじゃないと、認めたら……もう、戻れなくなりそうだから」
彼はゆっくりと顔を上げた。声のない瞳が、まっすぐ私を見る。
しばらくして、彼は私の手のひらへ指で文字をなぞった。
す、き。
途中で止まり、彼は指を離した。
それだけで十分だった。胸の内側に、かすかな音が生まれる。まだ鐘には届かない、小さな震え。
そのとき、王都の遠くで星鐘が鳴った。
一つ、二つ。三つめの音が抜け落ち、続く鐘も次々に沈黙していく。
イネスが窓を開ける。貴族街の空から落ちていた雨が、途中で途切れた。雲はあるのに、王都のどこにも雨音がない。
エルドさんは筆談板に、震える字を書いた。
『全域で、空白が始まった』
私は母の譜面を握りしめた。
「行きましょう。言えないことを抱えたままでも、聞き届けられる音はあります」
彼はうなずき、今度は紙一枚分の距離も残さず、私の手を握った。
好きだと言えない理由は、なくならなかった。
それでも私たちは、沈黙の中で同じ方角を選んだ。




