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沈黙の王子と、星を鳴らす音律師  作者: 銀細工ナギ


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9/20

星鐘の底に眠る名前

 出頭命令を受け取った翌朝、王都には薄い霧が降りていた。


 雨ではない。空気に水の気配だけが混じり、石畳を濡らすほどにはならない。貴族街の屋根には昨夜の雨粒が残っているのに、下町の路地は乾いたままだった。


 私は工房の戸に鍵をかけ、封筒を胸元へしまった。三日後、音律局へ出頭する。誓約を疑う者は、誓約に背く者。あの文を書いた人間は、私たちが怯えて黙ると思っている。


「先に、こっちを見たほうがいい」


 エルドさんが地図を広げた。王都の北側、古い水路のそばに、小さな星印がついている。


『旧鐘楼。今は使われていない』


「星鐘があるんですか?」


『正確には、廃棄待ちの星鐘が一基。記録上は空鐘になっている』


 イネスが眉をひそめた。


「空鐘って、音を失った鐘のこと?」


『そう。十年前の事故のあと、鳴らせなくなった』


 十年前。その数字に、指先が止まった。


 エルドさんはすぐに紙を裏返した。けれど、書き直した文字は短かった。


『今は、そこに行く理由がある』


 私も同じ気持ちだった。昨日、星皿の裏で聞いた承認音は、ひとつの場所を指していた。低く沈んだ音のあとに、遠くから返る三つの音。譜面の記号ではなく、鐘の内部で反響する音だった。


 旧鐘楼は、下町のはずれにある穀物倉庫の裏に立っていた。壁は蔦に覆われ、扉には立入禁止の札が下がっている。エルドさんが王家の印章を見せると、見張りの兵は驚いた顔をしたが、何も言わずに道を開けた。


 階段を上るたび、空気が冷たくなる。


 鐘楼の最上階には、青黒い星鐘が吊られていた。表面には星の粒が浮かび、薄い光を閉じ込めている。けれど、舌にあたるはずの音核は折れ、鎖の先で眠っていた。


 私は工具箱を開いた。調律針で鐘の縁を軽く叩く。


 高い音。低い音。どちらも濁っている。


 さらに一度叩くと、鐘の底から、かすかな震えが返ってきた。


「下です」


 エルドさんが腰をかがめ、鐘の下へ手を差し入れようとする。私は首を振った。触れなくても聞こえる。音は金属の表面ではなく、その内側に沈んでいた。


 床へ膝をつき、鐘の底を見上げる。星型の鋲が十二個、円を描いて並んでいる。そのうち一つだけ、他の鋲よりわずかに暗かった。


「これ、外せます」


 調律針の細い先を隙間に入れ、ねじる。鋲は抵抗したが、完全には固着していなかった。外れた穴から、紙片ではなく、薄い金属板が滑り落ちる。


 表には何もない。


 裏返した瞬間、耳の奥で三つの音が鳴った。


 ひとつめは、雨が空から降りる音。


 ふたつめは、乾いた土地がそれを受け取る音。


 三つめは、人が自分の名を名乗るときの、まっすぐな音。


 私は金属板を指で押さえた。刻まれていた文字が、霧の向こうから現れるように浮かび上がる。


 ――ミレア・ノート。


 息が止まった。


「母の名前……」


 声にした途端、鐘の底で眠っていた音が震えた。私の名前と同じ姓。幼いころ、工房の奥で聞いた母の声。調律針を持つ手を包み、「音は命令されて鳴るものじゃない」と教えてくれた人。


 母は、いつも自分の仕事について語らなかった。どの鐘を直したのかも、なぜ工房を離れたのかも。


 エルドさんが紙を差し出す。筆は少し乱れていた。


『この名前を知っているのか』


「母です。私が音律師になったのは、母の針を見ていたからです。でも、星鐘に名前が残っているなんて……」


 金属板の下には、もう一行あった。


 ――誓約譜、欠落音の確認者。


 その文字の最後だけ、何度も削られた跡がある。削って、上から黒い塗料を流し、それでも消えなかったから鋲で隠したのだろう。


 イネスが小さく息をのんだ。


「ミレアさんが、書き換えを見つけたってこと?」


「たぶん。母は、誓約譜から抜け落ちた音を確認した。だから名前を消された」


 エルドさんは金属板を見つめたまま、ゆっくり筆を動かした。


『僕の事故の日付と近い』


 板の端に、日付が刻まれている。十年前の、星鐘が一斉に沈黙した夜。その前日だった。


 胸の中で、いくつもの音がつながった。


 母が残した譜面。エルドさんの封じられた声。下町から消えた雨。そして、誰かが責任の名前を消した星鐘。


 けれど、答えの代わりに、鐘の内部からひどく細い音が漏れた。


 誰かが遠くで、私たちの見つけた音を聞いている。


 階下で扉が閉まる音がした。見張りの兵ではない。七本線の金属章が、階段の手すりに触れている。


 エルドさんが私の前に立った。私は金属板を握り、彼の袖をつかむ。


 逃げるなら、二人で。


 彼は驚いたように目を見開き、それから指先で私の手の甲に文字を綴った。


 ――約束。


 鐘の底から、眠っていた名前がもう一度鳴った。


 その音は、十年前の無音へ続く扉のようだった。

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