【沙都子】傷のある大人
桐原実香という人は、美人なのにとてもつまらなそうな顔をしていた。
歌劇団に入るために音楽学校を受験したい。初めて両親にそれを打ち明けたとき、二人とも見たことがない顔をしていた。
そう言ったあとに、いきなり家庭教師の話が出て、とんとん拍子に我が家に来た。今まで一度も家庭教師をつける話なんて出たことがなかったのにだ。
誰でもその目的は推測できるだろう。
沙都子は張り付けたような笑顔で笑う実香を目の前に、受験の話をした時のことを思い出していた。
「音楽学校なんて止めなさい!」
父親の眉間には深い皴が刻まれていた。
その一言にカチンときた。何も知らないくせに、止めないで欲しい。
「沙都子の好きな道に進んだらいい」なんて甘いことを言っていたくせに。
沙都子は眦を鋭くして父親を見返す。
「どうして? 挑戦くらいしてもいいじゃない」
「たとえ受かったとしても将来的に舞台で食っていくのは難しい。沙都子だったら、もっと確実に生きていく方法がある」
そんなこと百も承知だ。その上で舞台に立ちたい。立つための権利を得たいと思っていた。
その前の段階でつまずくことは、さすがに予想していなかったけれど。もう沙都子の想いは夢になってしまったのだ。
沙都子は一気呵成に言い返す。
「確実に生きていくって何? 舞台にだっていろんな仕事があるわ」
「お前はまだ子供なんだ。親の言うことを聞きなさい」
舞台以外の仕事は、舞台に立ってからでも歩める。だけれど、歌劇団の舞台は期間限定の夢なのだ。
頭ごなしに丸め込もうとする父親と睨み合う。そんな言い方をされて納得できるわけがない。
母親はおろおろするばかりで、途方に暮れていた。絶対に譲る気はない。
沙都子の性格を母親はよくわかっていたのだろう。そのあとに来たのが実香だった。
親戚ということだったが、歌劇団を目指していた人がこんな近くにいたなんて初耳だ。
「沙都子ちゃんは、なんで歌劇団を好きになったの?」
沙都子の部屋で実香はペンをふらふらさせながら尋ねる。
視線は沙都子が解いていた問題に向いていた。どうやら、内側から攻める作戦のようだ。
沙都子はその手には乗らないと、実香を半眼で睨む。
「諦めさせたい人が聞く必要あります?」
「世間話よ。世間話」
困ったように眉を下げながら実香は笑った。軽い風を装ってはいるが、実香の顔には傷ついたような色が見える。
まただ。
自分から振ってきたくせに、舞台の話をするときにだけ実香は表情を取り繕えない。他は女優さながらの表情の作り方なのに。
一番隠したい部分が、一番さらけ出されてしまう人。
面白い人だ。
沙都子がそう思うのに時間はかからなかった。
実香の問いに答えるため、沙都子は少しだけ宙を見上げる。思い出すまでもない、常にそばにある記憶だ。
「小学校のときに、友達がDVD貸してくれたんです」
「好きって言ったの?」
「ううん、特には。ただ歌うのは好きで、その子も凄くあたしの歌褒めてくれて」
音楽の時間だった。沙都子は昔から合唱さえ気合が入るタイプで、好きな歌を好きなように歌える時間を楽しんでいた。
ただ好きに歌っただけ。それなのに隣にいた友達がキラキラした顔で、「沙都子ちゃん、スゴイね!エトワールみたいだった」と言いだした。
エトワールという聞きなれない単語にハテナを浮かべていたら、友達が一気に話し出し――それが沙都子と歌劇団の出会いだ。
「ベルサイユのばら、フェンゼル編。マリー・アントワネットをしている娘役さんが、ほんと凄くて」
これ見て!と貸してもらった作品。それは衝撃的で、新しい世界で、好きな歌の続きにこの世界があるかと思うと憧れた。
それから親子で好きだと言う友達にDVDを借りたりしたが、まだ実際に見たことはない。
実香は沙都子の言葉に、うんうんと頷きながらうっすらとした笑顔を浮かべる。
「一番最近のやつ? 見てないなぁ。ベルばらなら、私はオスカル編が好きでさ」
「見てないの損ですよ。断頭台に登るマリー、本当に凄いんですから」
沙都子は唇を尖らせた。あれを見ないのは損している。もっとも、同じ作品でも見る場所が違うのが舞台だ。
実香は沙都子の強気な言葉にも柔らかく微笑むだけ。
あ、と思った。この人、本当に歌劇団が好きなんだ。
胸に落ちてきた想いは確信をもって沙都子に定着した。
「今度、見てみるね」
「ええ、是非そうしてください」
そう言いながら、きっとこの人は見ないんだろうなと沙都子は思った。
だって見るにはあまりに傷ついた顔をしているから。
沙都子に受験を諦めさせに来たくせに、沙都子よりも傷ついているなんで、やっぱり変な人だ。
実香を見送り、沙都子はリビングに飲み物を取りに入る。
すると目ざとく見つけた母親が近づいてくる。気づかないふりで牛乳をコップに注ぐ。
「沙都子、実香ちゃんとの家庭教師はどう?」
「うーん、普通。分かんないとこは教えてくれるし、実香さんって大学病院に勤めてるんだって?」
実香は自分のことをよく話した。
舞台の話はほぼしないのに、今の仕事や日常について、休憩のたびに口にする。
それはきっと沙都子に普通というものを知らせようとしているのだ。
話を誤魔化すための質問に、母は真面目な顔で頷いた。
「結構大きな病院でね。大学もストレートだし、看護師さんとしても順調に出世してるみたいよ」
「凄いじゃん」
「ね、大学病院の看護師さんって激務って聞くけど、しっかり熟してるわ」
実香は仕事ができるだろう。普段の様子からもそれはわかる。
目端が利くから、自然に、いろんなことをしてしまうのだ。
顔も美人で薄化粧しかしていなくても目を引く。背だって沙都子より高いから170はある。
自然に浮かんだ疑問を沙都子は母にぶつけた。実香には怖くてぶつけられない質問だった。
「なんで音楽学校、受けなかったの?」
「なんでかしらね。実香ちゃんとこは公務員とか医療系の人が多いからかしらね」
そんなことで?と言いそうになった言葉を沙都子は飲み込む。
舞台に立つ度胸がなかった。そう言った実香の言葉を思い出す。
きっと、実香は舞台に立つ度胸がなかったんじゃない。
沙都子はコップに入った牛乳を飲み干すと部屋に戻る。一人で階段上ってから、沙都子は溢れて来た気持ちを口に出す。
「あたしは、立ってみせる」
たとえ実香が止めようとして、沙都子は立つと決めた。
止めるなら、本気で止めればいい。だけど、実香はきっと止めない。実香は舞台を好きすぎる。
それなら、沙都子が立つ。あの人が立てなかった舞台。
そうなったら、いい。
あのつまらなそうな顔を見つめているより、舞台で傷つく実香の方がよほど見てられた。
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