夜勤明けの電話
夜勤明けの朝は、とにかく眠い。特に家に戻り、寝ついたあとの電話など最低最悪なものだ。
その最悪の電話に、実香は枕元をまさぐった。シーツの滑らかな感触、枕の少し硬い感触……と探し、やっと無機質な振動している箱を手にする。
「誰よ……こんな朝から」
掴んだものの、目はまだ半分しか開かない。時間は12時。寝ついてちょうど2時間くらい。
やっと深い眠りに入れるくらいだったのに、と思いながら画面に目を凝らす。
母親の名前がそこには表示されていた。
このまま切ってしまおうか。スッキリ寝直して、それから電話をすればいい。
画面としばらく睨めっこしてから、実香は深いため息をついた。
「もしもし?」
『もしもし? あんたまだ寝てたの?』
出てすぐにこれだ。世の中的には昼だが、実香には夜中に等しい。
実香は寝起きの低い声で答えた。
「シフトで朝まで働いていたので」
前に下がってくる髪の毛をかき上げる。静かに覚醒へと身体がエンジンをかけ始める。
こうなるともう一度寝るのは難しい。夜まで起きて、普通の時間に寝るのが良いだろう。
寝起きを起こされ、話半分しか聞いていなかった実香の耳に母親の話は通り抜けていく。
適当な相槌を打っていたら、「ちょっと!」と声を強められた。
『沙都子ちゃんの家庭教師、どうなの? 上手くいきそう?』
「上手くって」
実香は顔をしかめる。
上手くって、どうなれば上手くいったと言えるのか。
まだ中学生の少女の夢を諦めさせることが正解だと、実香にはどうしても思えなかった。
たとえ、まっすぐに舞台を見つめる姿が実香にとって痛みを伴ってもだ。
『ちゃんと諦めさせるのよ。その方が絶対いいんだから。あなたもそう思うでしょ?』
電話の向こうからは自分が正しいと思っている声が降り注ぐ。
母親の声が次々と実香の身体に突き刺さり、全身棘まみれになる。
「……私とはまた違うでしょ」
言えたのはそれだけ。
実香は諦めた。夢を見れなくなった。
だけど、あの子は、沙都子はきっとそんなことはしない。粉砕しても夢にぶつかっていく。
実香の呟きに近い反論に、母親は口を酸っぱくして言う。
『何言ってるの、看護師になったから、都内で一人暮らしなんてできているんじゃない』
「はいはい」
こうなっては何を言っても、聞いても無駄。
実香は適当に言葉を聞き流す。少しずつ立ち上がった頭はようやく実香の感情に防御バリアを張れるようになっていた。
夜勤明けの地獄を終え、母親との電話を切る。嘆息まじりに画面を見れば、別のメッセージが届いていた。
この間の合コンのときの男だ。
「気分転換にちょうど良いか」
実香はそのままスマホのスケジュール帳を開く。
予定を確認しているだけなのに、どうしても沙都子の顔がチラついていた。
§
東京の繁華街というものは、ちょっと違う。
一応関東という分類には入るが田舎としか紹介できない場所にいた実香にとって、新宿の飲み屋なんて未知の世界だった。
さすがに都内に住んでいると行く回数は増えたが、馴染めると思ったことはない。
「こんばんは。また一緒にご飯行けるなんて嬉しいです」
「こんばんは。いえ、お誘いいただきありがとうございます」
送られてきた店は駅の近くだった。店の前に三人、この間の男――森本浩一と同僚カップルの姿が。
なんと結婚すると意気込んでいた同僚はあの合コンで素早く恋人をゲットしていた。この分では結婚式で集金される日も近い。
同僚は浮かれた笑顔で実香の肩に手を回す。
「二人とも堅いぞー! せっかくのご飯なんだから」
もはや酔っているのではないか。
そう思える雰囲気に実香は眉を上げた。恋人になった二人とは違い、こちらは森本と二回目のご飯である。
そこまで砕けた態度にはなりづらい。
「ちゃんとした大人ってだけよ。ね、森本さん」
「そ、そうですね」
森本も苦笑いを浮かべる。
でも、その頬は少し赤い。緊張なのか、照れなのか。
もはやカップルになっている同僚と、森本、実香の4人でのご飯。これは仕組まれた匂いがした。
とはいえ、バッサリ切るほどの嫌悪感も気力もなく実香は同僚の隣で店へと足を進める。
先頭は森本が歩いていた。どうやらこの店を予約したのは彼らしい。
「今日はこの間より人数少ないし、楽しもう。ね?」
「そうだね、森本も張り切ってるし」
肩をポンポンと叩く同僚に実香は軽く頷く。
同僚の恋人はどうやら森本の友人らしい。微笑ましく森本を見守る姿に、実香は目を細めた。
店の中は空席を探すのが難しいほどの人混みだった。
店員が次々に案内してくれるが、それでも、2組待ちの状態。
ぶるり。
実香のスマホが振動する。なんの気なしに実香は画面を明るくした。
沙都子(沙都ちゃん)。そう名前が表示されている。画面の上部に途切れたメッセージが見えた。
願書――その文字が実香の目に飛び込んでくる。
音が消えた。耳鳴りのような静かな世界で、実香の耳には速くなる心臓の音だけが聞こえていた。
「実香?」
「あ、ごめんごめん!」
同僚に呼ばれ、慌てて足を進める。画面を消してポケットに入れる。
とにかく、今は飲み会だ。
実香はそう自分に言い聞かせるが、上手くいくはずもない。
『願書、出すって今日先生に言ってきました。止めますか?』
一体、沙都子はどんな表情でこのメッセージを打ったのか。
どことなく、気の強い笑みを浮かべる沙都子が思い浮かび、実香は頬が緩みそうになるのを我慢した。
結局、実香の頭に残ったのは森本が色々聞いてきたことより、沙都子のメッセージだけだった。




