願書と、無難な願い
実香は地上へと繋がる階段をのぼりながら、小さくため息をついた。
音楽学校の願書提出は、10月末から1月中旬までだ。今はすでに11月に足を踏み入れている。
受験を望む学生であれば、教師にそのことを言うのは何もおかしくない。
むしろ――沙都子にしては待った方ではないか。あのまっすぐに夢しか見ていない子にとっては。
そんな意識がちらちらと頭を過って仕方ない。
ご飯を食べていても、本を読んでいても、仕事をしているときでさえ、頭を過ってしまう。
「森本さん、こんにちは」
「こんにちは。映画見るにはちょうど良い日ですね」
その状態が嫌で、実香は森本の誘いに乗ることにした。
沙都子からのメッセージで、心あらず状態の食事会になった。失敗したと思った。気分転換が藪蛇になった。
『今度、映画でも見に行きませんか』
そんなメッセージが森本から入った時は、ふたつの意味で信じられなかった。
ひとつは、あんなに心あらずでも気にかけて来る人がいるのか。
もうひとつは、こんなにもちょうど良い人がいるのか。
曲がりなりにも二十も半ばを超えると世間の声というものがうるさく、隠れ蓑が欲しくなる。
「少し早いですけど、中に入りますか」
「ええ」
森本は柄物のシャツにシンプルなスラックス、その上に上着を羽織っていた。
無難。その無難さに今の実香はほっとした。
実香は森本の言葉に微笑み返す。
森本はあの夜見たのと、同じ赤い顔で笑っていた。
照れているのか。ここで可愛いと思えれば、少しは良かったのだろうが、まったく実香の心は乾いたままだった。
「普段は休みの日って何してるんですか?」
「映画見たりとか、友人とご飯が多いですかね。仕事柄休みが不規則なので、家で過ごすのも多いですよ」
「そうなんですね。今日は休みがあって良かったです」
振られる会話も当たり障りないものだ。
実香としても答えやすい。受け答えも丁寧すぎる部分はあるが、問題ない。
真面目そうな男だと、会って三回目にして、初めて森本に印象を持った。
映画館の中は土曜日らしく混んでいた。売店の前には短いながら列ができ、券売機の前では何の映画を見ようか悩む人たちがいる。
その列に実香たちも加わった。暇つぶしにモニターを見ていると今話題の映画が次々に流れて来る。
「今日の映画ってCMでよく流れるやつですよね?」
「ミュージカル仕立ての映画らしいですよ。僕も見るの初めてで」
「楽しみですね」
ミュージカルか。久しぶりに見る。
モニターでは色鮮やかな俳優たちが軽快なステップを踏んでいた。
どうやらブロードウェイのものを映画化したようだ。
実香たちはチケットを買うとそのまま売店に並びポップコーンと飲み物を買った。
シアターの照明が落ちる瞬間、久しぶりに沙都子のことが遠くなる。
「いやー、面白かった」
「そうですね」
映画は可もなく不可もなく。
字幕だったが話の筋は分かりやすく、歌っている俳優の声が良かった。
沙都子との話のタネにしても良いかもしれない。ミュージカルは好きだろうから。
そんなことを思いながら、スマホを再起動させる。
時間は夕方の5時を回っていた。ご飯に誘うにはちょうどよい時間だろう。実香は森本を窺う。
「あの……もしよければ、このまま夕飯に行きませんか?」
「そうですね」
森本は腕時計をちらりと見たあと、小さく拳を握ると実香をまっすぐに見た。
予想通りの言葉に頷く。と、さらに顔を赤くした森本が意気込んで口にした。
「それで、実香さんが良ければなんですけど! これからも会ってもらえませんか?」
「え?」
さすがに、それは予想していなかった。
実香は目を瞬かせる。立ち止まった二人を追い越して何人もの人が過ぎていった。
せめて食事の場所に移動してからかと思ったが、真面目な森本にすれば、勢いのまま言ってしまった方が楽だったのだろう。
「ちゃんと、真面目にお付き合いできたら嬉しいです」
誠実そう。話は続く。見た目も悪くない。
断る理由がない。そのうえ、実香は今、なるべく気がまぎれることがしたかった。
誰かを好きになることは、もしかしたら、こんなひょんなことから始まるのかもしれない。
実香は少し間を置いて答えた。
「……はい」
「本当ですか! ありがとうございます。嬉しいです」
口早な言葉が本気さを表している。
実香も微笑み返すと、再起動したばかりの電話が音を立てた。
メッセージではない。珍しい着信だ。
画面を確認しないまま森本に小さく頭を下げる。
「すみません、ちょっと電話が」
「はい、どうぞ。気にしないでください。店探しておきますね!」
森本は満面の笑みだった。
ぶんぶんと大きく手を振っている。まるで中学生のような反応に実香は口端を緩める。
それから少し離れてスマホを確認する。千珠さんと表示されていた。
「もしもし?」
『あ、実香ちゃん? ごめんね、突然』
「どうしました? 沙都ちゃんのことですか?」
願書のことか。さっきまでとはまるで違う種類のドキドキがこみ上げてくる。
沙都子が願書を出す話を両親にしたなら、実香はどうなる。
受験するにしろ、しないにしろ、お役御免になる可能性が高い。そうなったら、沙都子と会える生活は終わってしまう。
そう考えただけで、なぜか心臓が嫌な音を立てた。
『沙都子が……帰ってこないの』
「え?」
だが、千珠が発したのは実香も予想していなかった言葉。
沙都子がいない。
その言葉に実香の世界が冷えていく気がした。
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