丸の内線、十五分の覚悟
実香は電話を切って、すぐに森本に頭を下げた。
今すぐ沙都子を探しに行かなければならない。
実香の脳裏に浮かぶのはそればかりだった。
行くと言ったご飯をすぐに反故にすることに対する、わずかばかりの申し訳なさもある。
勢いよく頭を下げた実香に、森本が目をきょろきょろと動かした。
「ごめんなさい! 必ず埋め合わせはしますから」
周囲の視線が集まり、すぐに消える。
眉を下げながら微苦笑を浮かべる森本に、実香は両手を合わせる。
森本から出てきたのは実香が望んでいた言葉だった。
「いえいえ、急なことですからお気になさらず」
「ありがとうございます。それじゃ!」
森本の手を取ってお礼を言う。ぶんぶんと何度か大きく手を振り、感謝を伝える。
それから実香はくるりと背を向けダッシュをした。
大人らしさ? 知らない。森本にどう思われようとも気にならない。
走らなきゃいけないタイミングで走るのに、大人も子供も関係ないだろう。そんなものに構っていると大切なものは逃げていくばかりなのだ。
とにかく最寄りの駅にダッシュだ。
「沙都ちゃんが行きそうな場所……!」
今いる場所は新宿だった。映画を見るにも、ご飯を食べるにもちょうど良い街。
東京のどこにいくにも行きやすい街でもあった。
足を動かしたまま、千珠からの電話を思い出す。
『今日はボイスレッスンで新宿の日なんだけど、いつも帰ってくる時間になっても帰ってこなくて』
沙都子のお稽古ごとはバレエとボイスレッスン。どちらも新宿や池袋だった。
家庭教師で駅は聞いていたが、さすがに場所までは聞いていない。それに、終わってそのまま蹲るような子でもない。
蹲るような子なら、もうとっくに諦めているだろう。
『昨日、お父さんと願書の話でもめたから、そのせいだとは思うんだけど』
どうやって電話を切ったか、実香は覚えていない。
おそらく「私も探します」というようなことだけを言って切った、はず。
「っ、すみません」
「気をつけろ!」
いつの間にか駅に到着していた。
数えきれない人が吸い込まれて消えていく。
がむしゃらに走っていた実香は誰かの荷物に肩をぶつけ、意識が今に戻る。
「どうしよう」
沙都子はどこにいるのか。
通路の端に寄る。、沙都子の連絡先を引っ張り出し電話をかけてみる。
やはり、出ない。
舌打ちしそうになるのを我慢して、実香は周囲を見回した。
もしかしたら、まだ新宿にいるかも、そんな淡い期待が過ってすぐに消えた。
思い出されたのは、劇場の前でポスターをじっと見つめていた沙都子。実香が沙都子と知る前から印象に焼き付いていた光景だった。
日比谷。その駅名が天啓のように響いた。
「丸の内線!」
JRじゃだめだ。いや、駄目じゃないけど。なるべく早くすぐに着きたいならメトロだ。
実香はすぐに移動を開始する。確信に近い何かが実香の身に降りてきていた。
沙都子は実際に歌劇団を見たことがない。友達から借りて見たと言っていた。そして、お土産にもらったというブロマイドをこっそり見せてくれた。
その時の沙都子の笑顔を覚えている。
とても可愛らしい、子供っぽい顔で笑っていた。あれがきっと、夢を詰め込んだ人の顔だ。
「シャンテか」
チケットがなくても歌劇団を感じる方法はいくつかある。
だからこそ、実香は日比谷という街そのものを避けていた。
久しぶりに口にした名前に、苦いものがこみ上げてくる。
ごくり。それを飲み込んで、実香は気合を入れた。
「急ごう」
メトロへ駆け込む。乗車時間は約十五分。
その間に実香は覚悟を決めなければならなかった。
※
銀座駅で降りて、すぐに日比谷へと足を向ける。迷うことはない。忘れようとしても忘れられなかった道なのだから。
入り混じる外国語をかいくぐり、どことなくお洒落な人が行きかう道を実香は足早に歩いていた。
日比谷には、様々な劇場が点在している。
皆どこか浮かれているように実香には見えた。
上品な匂いさえしそうな界隈に足を踏み入れ、実香はまず劇場を目指す。
あの日のようにポスターを眺めているのではないか。そう思ったが、劇場前にはいなかった。
諦めて、実香はくるりと背後を振り返る。
深呼吸を何度かしてから、実香は中に入った。
「すみません」
小さく頭を下げながら、エスカレーターの右側を歩く。階が上がるにつれ紫の袋を持った人が多くなる。
目的地に着いた時には、照明が一段上がったような気さえした。
大きく息を吸い込む。煌びやかな空間がそこには広がっている。
変わらない――知らず、胸の奥がじんわりとした。
「沙都ちゃん」
店内はそれほど広くない。特に公演中の人が疎らな時間だ。すぐに人探しはできてしまう。
小さく零れた名前は、なぜだったのか。実香にもわからない。
だけど、その小さな呟きにさえ、ぴくりと反応した少女がいた。
売り場の中で一番奥まった場所。講演や宣伝を流している画面の前。そこに沙都子は立っていた。
「……実香さん」
誰よりも目立つ。実香は目を細めた。
やっぱり、それは変わらなかった。ぼんやりと画面を見ていただけなのに、惹きつけられる。
舞台に立つべき人が持つ、オーラなのかもしれない。
実香と視線があうと、沙都子はわかりやすく身を引いた。
「待って、諦めさせに来たわけじゃないから」
ここで逃げられても困るし、騒がれても困る。特に沙都子が音楽学校を受験するとしたらここで騒ぐのは得策ではない。
小声ではっきりとわかりやすく伝える。
電話を貰ってから、十五分間。実香の中で出た答えは「諦めさせて普通の道を歩かせる」ではなかった。
実香自身がいくら傷つくことになったとしても、沙都子に諦めさせるよりは良い。
そんな決意をしてきたのに、当の沙都子はジト目で見て来るだけ。
「どうでしょうね」
「まったく、こんな時まで生意気なんだから」
それでこそ、沙都子とも言える。実香は微笑んだ。
変わらない沙都子が実香の救いなのかもしれなかった。
心配から気が緩んだのか、押し殺したような笑いが止まらなくなる。
「ふっ、ふふ」と笑っている実香を沙都子がいぶかしげに見ていた。と、沙都子のお腹が鳴る。
「ほら、とりあえず、カフェに行こ?」
「……はい」
どうやら本能的欲求には抗えないらしく、沙都子は実香の差し出した手を大人しく握ってきたのだった。
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