地味な、夢の入り口
実香は沙都子の手を引いたまま、ふたつ下の階に降りた。
沙都子の手はまだ柔らかく、少しだけひんやりしている。子供の手だった。
何も言わない沙都子は俯いたまま実香についてくる。その静けさが沙都子の内面の憤りを表しているようで、表現できない圧力があった。
シャンテ二階のカフェからは、歌劇団の関係者出入り口が良く見える。
たまたま通された窓側から見えた出入り口に実香は目を細めた。
「このカフェ、来るの初めて?」
「はい。いつもは、上で、眺めて終わりなので」
「そっか」
沙都子からメニューを受け取る。
あまり悩みもせず、沙都子はメニューを決めた。こちらを窺う視線に「何でも好きなの食べて」と伝える。
さすがに一回の注文で破産するような経済状況ではない。
相変わらず気が付く子だ。
軽く手を上げれば、店員はすぐに来た。実香は沙都子の分もまとめて注文し、視線を合わせない沙都子から窓の外へと視線を向ける。
「ここさ、関係者入り口がよく見えるんだよ。知ってた?」
「聞いたことはあります」
実香が振った話題に、沙都子は喰いついた。
前髪に隠れていた強気な瞳が、窓の外にくぎ付けになる。
柔らかな光が宿る瞳になぜか実香がほっとした。分かっていた。
反対くらいで、諦める子ではない。それがはっきりしたからだ。
実香はふっと口角を上げると、窓にかじりつく沙都子に肩を寄せ、関係者入り口を指さす。
「あれだよ。思ったより小さいと思わない?」
正面入り口から十メートルほど離れた場所に味気ない両手開きの扉がある。
模様も何もない金属のシンプルな扉は、隣に小さく【関係者入り口】と書かれていなければ注目されることもないだろう。
たまに人が入っては、すぐに出て来る。差し入れか手紙を持っていっているのだ。
実香の言葉に沙都子は目を丸くした。
「気づきませんでした」
「結構、言われなきゃわからないよね」
今までで一番素直な反応だった。
実香も微笑みながら頷く。実香自身、本当にここが関係者入り口であっているのか悩んで、扉の前で右往左往した人間だからだ。
沙都子はまるでそこでショーが行われているかのように視線を離さない。
横目で見守っていたらスマホが光り、千珠からの着信を知らせた。
「ちょっと、お花摘みに行ってくる」
スマホだけを持って、席を立つ。
このまま逃げられる可能性もあるが、沙都子はしないだろう。そうすることが悪手だと彼女は判断できる。
実香が今すべき場所は、沙都子が安心して帰れる場所の確保だった。
と、じっと沙都子に見られていることに気づく。「なに?」と首を傾げたら、沙都子が頬を緩めた。
「……実香さんでも、そう言うんですね」
「場の雰囲気を読むのは大人の常識なんです」
もう、と小さく唇を尖らせながら実香は沙都子の頭を小突く。
実香にだって場所にあわせて上品な言葉を使う時くらいあるというのに。
小突かれた沙都子は家出してきた人間とは思えない笑顔でひらひらと手を振っている。
実香は小さく肩を竦めるトイレに向かう振りをして、店を出てすぐに電話をかけた。
「もしもし」
ワンコールもいらなかった。
すぐに電話に出た千珠の焦った声が響く。
『もしもし! 沙都子いた?』
「はい、どうにか見つけました。近くにいたのでよかったです」
壁に寄りかかる。
沙都子の待つカフェに動きはない。
今もあの中で関係者入り口をじっと見つめているのかと思うと微笑ましさがこみ上げる。
実香の言葉に千珠は大きく息を吐くと、すぐに仕事のできるのがわかる、きりっとした声で答えた。
『ありがとう。すぐに迎えに行くわ』
まぁ、そうだよなと実香は唇を引き結ぶ。自分の家の子供が見つかったなら、普通の親はそうする。
だが、実香には考えがあった。
「いえ、それなんですけど……一旦うちに泊まらせても良いですか?」
願書の話は知っていた。だが、急に家を出て来た理由までは知らない。
実香の家に泊まらせることで、少しでも沙都子の想いを知りたかった。
沙都子を応援していいか。実香自身が覚悟を決めたかったの方が近い。
電話口の向こうで困惑している千珠の雰囲気が伝わってくる。
数秒の沈黙が店内の明るいBGMと対照的だった。
『それは構わないけど……いいの?』
「はい」と実香はすぐに頷いた。
「一人暮らしですし、今の状態で帰しても、同じことの繰り返しになるかもしれませんから」
沙都子がいなくなってしまうのが一番怖い。
子供としても、将来舞台に立つ気がある人間だとしても。ここで沙都子をひとりにしたくなかった。
千珠は実香の言葉に静かに聞き返してくる。
『実香ちゃんは、どう思う?』
来た。
聞かれると思っていたのに、実香の言葉は止まった。喉に舞台関係の話を話させないよう棘でもあるように、言葉が引っかかった。
「私は受験してもよいかと思っています。受かるかは分かりませんが、音楽学校は限られた夢ですから」
そう答えながら、実香の脳裏には受かる沙都子しか見えていない。ある意味、千珠を騙している形になる。
合格さえしてしまえば、後は引き返せない。引き返しても、残るものは何もない道なのだから。
同時に、諦めた人間が何を偉そうにと、過去の自分が頭の上から居丈高に実香を責める。それに「うるさい」と実香は頭を振る。
千珠は実香の言葉に、深い溜息を吐いた。
『そう、うちの人が聞いたら、また怒りそうね』
「すみません」
『沙都子のこと、よろしくね』
「はい」
電話を切ってから、電話の向こうにいた千珠に頭を下げる。
沙都子を説得して欲しいのだろうけれど、実香にその役割はできそうにない。
やっぱり、受けた時からこうなるような予感はしていた。
「さてと」
電話は思ったよりすんなり済んだ。
まだ、注文したものは来ていないだろう。この間に実香はしたいことがあった。
さっき沙都子を探しに入った時、目に入ったものだった。
自分の有罪証明書を受け取りに行くような気持で、実香は足を階上に向けた。




