橋を渡る
沙都子の待つカフェに戻る。
変わらず外を眺める後ろ姿が、すぐに目に入った。
ちょっと前までは見たことがなかった制服。結い上げられた後頭部。そこから覗く意志の強そうな横顔。
いつの間にか見慣れたそれらに、実香はほっとしている自分に気づく。
「お待たせ」
食事はまだ来ていなかった。
時計を見れば、離れていたのは十分ほど。大体、予想通りに動けていると言えるだろう。
沙都子は実香が席に戻ってきたのを見ると、顔をこちらに向けた。
「いえ、そんなに待ってませんから」
そう言いながら横目で外を確認しようとする。
実香は微笑を洩らした。
「窓の外、そんな楽しい?」
沙都子がもごもごと何度か口元を動かす。
答えあぐねているのは見て取れた。素直に言っていいのか、迷っているといったところだろう。
「入るの初めてなので」
「そっか」
素っ気ない一言。だが、そこに込められた喜びは隠しきれていない。
憧れていた場所を見れるのは嬉しい。実香にもその気持ちはよくわかった。
何とはなしに見つめていたつもりなのに「なんでニヤニヤしてるんですか」と突っ込まれ、実香は「ごめんごめん」と軽く謝る。
運ばれてきた食事は表に飾ってある写真に見劣りしないものだった。
さすが日比谷界隈のお店は雰囲気を大切にしている。噛みそうなカタカナの長文をメニューにつけるだけはある。
沙都子の前にはクリームパスタとサラダ、スープ。実香はエビグラタンとパン、スープ、サラダが並んでいた。
食事をとりながら、実香はなるべく軽く聞こえるように尋ねた。
「どうして家に帰らなかったの?」
一瞬、沙都子の手が止まった。表情は変わらない。
いや、わずかに唇が尖っているから、燻っているものはあるのだろう。
「……父から願書を出すのは認めないって言われまして。理由も意味が分からなくて、喧嘩になりました」
「はは、冷静」
「お稽古に通えるのは両親のおかげですから」
気に食わなくても、してもらっていることは理解している。
こういう所が優秀と言われるのだろう。実香は目を細めた。
理解しているのに家に帰らなかったのは、きっと沙都子の中でプライドが勝ったから。驚くほど負けん気が強い子だ。
上品にパスタを巻き取る沙都子を見ながら、実香はスープを一口飲んだ。
にっこりと笑って沙都子に尋ねる。
「だけど、譲れないから、帰らなかった?」
「帰るつもりでした。もう少ししたら」
「そう?」
ぷいと顔を横にそむける沙都子に、帰る気があったとは思えない。
きっと、野宿までは行かなくても、カラオケやネカフェにくらいいたかもしれない。
あらためて沙都子を見つけられてよかった。
実香は初めて見る子供らしい沙都子の我がままにグラタンを口に運びながら尋ねる。
「幸い今日は土曜日だし? 明日は休みでしょ?」
「そうですけど」
「うちに泊まっていけば? 家、帰りづらいなら」
グラタンに視線を落としながら、さり気なさを装う。
沙都子の表情を見たい。だが、そうするとあまりにあからさまになってしまう。
葛藤がグラタンを乗り越えてやってくる。ひとり悩んでいた実香に沙都子はすっぱりと言った。
「諦めませんよ?」
知ってる。だからこそ、実香の家で少し気を抜いたほうがいいと思った。
実香はまだ自分を味方に思ってくれない沙都子に大きく息を吐く。
「それはもういいから。うちには昔ので良ければDVDとか、パンフレットもあるし」
「ほんとですか?」
実香の言葉に沙都子の顔が輝いた。
気分は完全にナンパだった。諦めた夢まで引っ張り出して誘うなんてと恥ずかしがる自分と、沙都子を危険にさらさないためなら仕方ないという自分が頭の中で争う。
「ほんと。ま、気分転換だと思って」
頬を掻く。どうにも気恥ずかしさが実香の内側に燻っていた。
それを誤魔化すように、カバンから紫の袋を取り出す。
電話の後に足を向けた場所で購入した者だった。
沙都子もその袋を取り出した時点で、中身は察しているだろう。
「あと、これ。あげる」
袋を開けて一つを紗都子に手渡す。
誰かに何かをあげるなど学生のとき以来ではないか。その感覚に胸の奥がムズムズしてくる。
沙都子は実香の取り出したものに、ただでさえ大きな瞳を丸くする。
「これ……!」
「ブロマイドは好みが分からなかったから。これなら付けやすいでしょ?」
歌劇団のマスコットキャラクターが刺繍されたキーホルダーだ。
わかる人にはわかるし、わからない人でも可愛いと思ってもらえるデザイン。
紫の袋の中にはもうひとる対になるキャラクターのものが入っていた。お揃いで買ってしまったとは言えなかった。あとでこっそり鞄につけようと決める。
「ありがとうございます」
沙都子は小さな袋を抱え込むようにして胸に当てた。
よほど嬉しかったらしい。はにかむ表情に実香はどうにか笑い返す。
沙都子は歌劇団のグッズをほとんど持っていなかった。盛っているのは、昔憧れた娘役さんのブロマイドくらいだと聞いた。
だから、自分の決意表明のように買った。買ってしまったのだ。
「応援、するから」
実香の言葉に沙都子は一度動きを止めた。
それから、窺うようにこちらを見て来る。
前髪に見え隠れする意志の強い瞳がきらきらと光を反射していた。
「……本当ですか?」
「うん」
覚悟は決めた。そのために、わざわざお揃いでなんて買ったのだから。
実香が静かに頷くと、沙都子の顔がほころぶ。
「嬉しいっ。絶対、最後まで応援してくださいよ?」
「うん」
最後まで、応援する。
自分の諦めた夢を追う子の隣を歩く。それで自分が傷ついても仕方ない。
橋はもう渡った。
もう、実香は舞台を避けては通れない場所へ立っていた。
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