普通の佐藤
ランチの時間を休みとして楽しめるのは、看護師の良い所かもしれない。
実香は窓の外を眺めながら店内を見回す。
今は仕事を離れている同期とのランチは、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。イタリアンを中心にしているらしく、ピザからパスタまで手広く、デザートも数があった。
初めての来店だったが、実香は入った瞬間に、あ、沙都ちゃんが好きそうなお店と思った。
家庭教師として週に一回二時間。名目の勉強と、その合間に舞台の話を積み重ね、沙都子を沙都ちゃんと呼ぶようになった。同時にあの前しか見ない女の子の好みも何となく理解し始めている。
「実香、お待たせー」
「彩花、久しぶり。仕事辞めても変わらないわね」
「まぁね」
とりとめのない思考のまま店内を見ていたら、やっと約束の相手が来た。
佐藤彩花。シンプルな服におしゃれな鞄。全体としては目立たないが、普通の幸せを絵に描いたような人だ。
もとは同じ職場で働いていたが、結婚を機に辞めている。今は専業主婦なのか、バイトだけの生活か。
彩花は鞄を椅子に置きながら、にっこりとほほ笑んだ。
すぐに近況報告が始まり、ランチという名の女子会は進んでいく。
「へぇ、家庭教師ね。よくやるわぁ」
「親から頼まれたから! 他に選択肢がなかったの」
沙都子のことを口に出せば、彩花は目を大きくして感心したように首を傾げた。
近況として沙都子のことを口に出す必要はなかった。ただ、どうしても沙都子に会うたびに、実香の胸の中で何かが雪だるま式に増えていく。
それを吐き出す糸口が欲しくて言葉にしたのだ。
実香の必死さが滲む声に、彩花はランチと一緒についてきたレモンティーに口をつけながら笑う。
「実香ってそういうとこ面倒見がいいよねぇ。わたしだったら、断ってるもん」
ばっさり。実香もそう断れたらどれほど楽だったろう。
働いているときから、彩花は変わっていない。
実香は彩花がやりあった先輩や交代したシフトについて思い出す。口から出てきたのは苦笑いだった。
「あんたは自由人だから」
「人並みよ、人並み。実香は気づいてないだけでしょ」
ぱたぱたと手を振って、やぁねと言う。
そうだろうか。首を傾げた。実香は仕事についてさほど不満はない。
気に食わない人やらはどこにでもいるものだろうし、余裕があれば周りの面倒くらいみる。回りまわって、実香が楽になるのだから。
だが、彩花は実香をまじまじと見つめて口端を吊り上げる。
「じゃなきゃ、大学病院なんて長く勤めてらんないもの」
「ある程度、決まってるほうが楽でしょ」
「それが息苦しい人間もいるってことよ」
彩花は息苦しかったのだろうか。そうとはとても見えなかったが。
ふーんと相槌を打ちながら、実香は自分の手元にあるルイボスティーをかき混ぜる。ストローで動かされた氷が涼やかな音を立てた。
「で、家庭教師どうなの? イケメン?」
話を切り替えて、彩花がそう切り込んでくる。
イケメン。思ってもいなかった言葉に、実香は目を瞬かせた。
「イケメンって……女の子だし。成績も優秀よ」
「へぇ、家庭教師なんていらないじゃん」
実香は彩花の言葉に頷く。
そう、沙都子には家庭教師は必要ない。だからこそ、実香が呼ばれたのだ。
なんと説明して良いか分からず、実香は「んー」と言葉を伸ばした。
「このまま普通の道に進むようにって」
言えたのはそれだけ。彩花は眉をピクリと吊り上げる。
「普通の道?」
「ある程度の学校行って、手に職つけて、女の子でも生きられるように」
実香は自分を指差しながら口早に告げた。
そう、実香の親はそう言っていた。沙都子の親も気持ちは同じだろう。
もっとも実香と沙都子では当時の成績に大きな違いがある。
実香はこみ上げてきそうな記憶に蓋をして、ルイボスティーとともに飲み込んだ。
「まぁ、あの子なら、もっと上も目指せるしね」
「ふーん、じゃ、その普通以外に行きたいと」
実香は肩を竦めた。
普通。普通の進路が何なのか実香が一番聞きたいと思っていた。
綾香はケーキを切り取り、口に運ぶ。
甘ったるいチョコケーキ。実香だったら顔をしかめていただろう。
「音楽学校に行きたいんだって」
「へぇ、お嬢様な夢」
実香は小さく頷いた。
沙都子は確かにお嬢様だけど、それだけとは言い切れない。
ただのお嬢様が持つには強すぎる意思を、夢に全部注ぎ込んでいる。
止まらないトロッコを必死に止めようとしている気分にだった。止めるくらいなら、一緒に乗ってしまった方がいっそ楽だとさえ思う。
「夢見る夢子ちゃんってこと?」
彩花の言葉は妙に的確だ。夢見る夢子ちゃんで済ませられるなら、ここまで苦労しない。
実香は大きくため息を吐いた。
「それだけなら、良かったんだけど」
「何、しっかりした子なの?」
「私よりね」
私より成績が良い。私より舞台の才能もある。
実香の目から見てもそれは明らかで――実際問題、沙都子を止める理由が実香にはなかった。
沙都子の側にいると忘れていた夢を思い出す。それは幸せでいて、とても苦しいことでもあった。
彩花がニヤリと面倒な笑顔を浮かべた。
「羨ましいの?」
「何言ってんの、そんなわけないじゃん」
反射的に否定した。
実香の弱さに、彩花はそのまま突っ込んでくる。
「夢見てて、諦めなくて、しかも、実香から見てもただの夢じゃない」
実香は目を逸らす。彩花だけが、ケーキの上で指揮棒のようにフォークを振っている。
ゆらりふらりと揺れたフォークはやがて、実香を突き刺した。
「だから、羨ましい。違う?」
ぐうの音も出ない。
実香の見たくなかった本音を、彩花は白日の下にさらしだす。
羨ましい。そんな綺麗な感情ならどれだけ良かったか。
実香は嘆息した。
「……腹立つのよ」
「何が?」
「まっすぐで。自分ができるって疑ってないこと」
ルイボスティーの氷が解けて、崩れる。
紅茶の赤茶色に波紋が立った。それは沙都子と出会ってから、常に実香の中を揺らしているものに似ている。
「じゃあさ」
胸が詰まって何も言えなくなった実香に、彩花は一拍置いて王手をかける。
「その子が諦めたら、スッとする?」
沙都子が夢を諦めたら。実香と同じになったら。
その想像は胸の中に広がると同時に、実香の世界を冷やしていく。
「……」
「なんかさ」
答えをなくした実香に、彩花はふっと笑顔を落とす。
「実香はその子の話するときだけ、ちょっと生きてる顔してるよ」
生きている顔。今がそうなら、普段はどうなのか。
きっと実香は、舞台を諦めた時に一度死んだのだ。
実香は思わぬ方から突きつけられたものを胸の奥にしうしかできなかった。
この帰り、実香は久しぶりに歌劇団のポスターの前で足を止めることになる。
実に10年ぶりのことだった。
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