ダイヤの見る夢
リビングでお茶菓子を食べている間も雰囲気は変わりなかった。
しゃべるのは千珠と実香ばかりで、沙都子の口数は増えない。
世間話も尽きたあたりで、後は二人で、とまるでお見合いのようにリビングから押し出された。
「どうする?」
「部屋にいきますか? 一応、家庭教師なんだし」
「そうだね」
実香は沙都子の提案に素直に頷いた。
一応、家庭教師。その言葉に間違いはない。何を教えればいいのか、皆目見当がつかなかったが。
沙都子の後ろを大人しく着いていく。二階へと昇る階段は、白い壁と綺麗な木材でできていた。木目の美しさに丁寧な暮らしを見る。
無機質な壁紙とフローリングの我が家とは、こんなところまで違っていた。
沙都子の部屋はこざっぱりとしていた。本棚にも壁にもポスターや写真などは見られない。本棚の中に数冊舞台関係の本があるくらいだった。
「あたしを諦めさせようとしても無駄ですよ」
「普通の生活も良いと思うけど?」
開口一番、言いきった沙都子に実香は肩を上げてみせる。
沙都子は座りなれた勉強机の椅子に、実香はベッドに腰掛けていた。
普通の生活――働いて、お金を稼いで、たまに舞台でも見る。そういう生活が歌劇団を好きな人間の大部分だ。今も歌劇団を見れていない人間が言うことでもないが。
実香の言葉に沙都子の眉尻が寄った。
「あたしが欲しいのは、舞台だけなんです」
「見るだけなら、安定した職業についた方がいいし……歌劇団ならそういう応援の仕方もあるよ」
何と言っても、舞台はお金がかかる。
チケット一枚が一万を超える。もちろん、もっと安い席もあるが、一階に座りたいならそうするしかない。
その上、歌劇団は公演回数も多い。組ごとに見に行ったとしても、年に少なくとも七回。ツアーも見ようと思ったら、もっとだ。
看護師として給料をもらっている実香でも中々厳しいだろう。
現実的に計算して顔をしかめた。しばらく見ていないというのに、すらすらと計算できてしまう自分に未練を見た。
言葉を続けることもできない実香に、沙都子の鋭い視線が突き刺さる。
「実香さんは?」
「え?」
何を聞かれているのか、一瞬分からなかった。
その隙を見逃さず、沙都子は実香の弱い所に踏み込む。
「実香さんは、そういう応援の仕方をしてるんですか?」
息が詰まる。
これだから、歌劇団に入りたい女の子の側になんて寄りたくなかったのだ。
その質問は実香の息の根を止めに来ていた。
ゆっくり肺の奥から息を絞り出し、それから吸った。
「私は、もう……観劇自体しないから」
「だから、そんな顔してるんですね?」
「え?」
さっきから、それしか返していない。沙都子の投げてくる言葉は、実香の急所を容赦なく当てて来る。
一回りも下の女の子に翻弄されていることに、情けなさが込みあがる。
否定できなかった実香に、ふっと沙都子は口の端をわずかに吊り上げた。
「だって、凄く楽しくなさそう」
言い放たれた言葉に、さすがにカチンときた。
楽しくなくても人生は続くし、生きていくしかない。
誰もが夢を追いかけれらる人間ではないのだ。
「こらっ、生意気ー!」
怒りを笑いに変えて言った言葉は、きっと実香の本心だった。
ふわりと花の香が実香を包む。こんなところまで、この少女は実香に舞台を呼び起こす。
沙都子は実香の弱い所をちくちくと刺激してやまない。
だが――羽交い絞めにした実香に沙都子が初めて笑った。中学生らしい笑顔に、沙都子が子供ということを思い出す。
今からこの子の夢を諦めさせると思うと、良い気はしなかった。
※
良いとは言えない出会いから始まった家庭教師だったが、殊のほか順調だった。
まず沙都子は本当に優秀で、実香に教えられること、というより教える必要があることは、ほぼなかった。
「驚いた。全部一桁台じゃない」
とりあえず、家庭教師らしく現状の成績をチェックと渡された紙に目を通す。
実香が見たことがない数字がたくさん並んでいた。
驚きのまま素直に褒めた実香に、沙都子はなんてことないと首を傾ける。
「一位はないですけどね」
「いやいやいや」
そういう問題じゃない。
今手元にあるのは学校の結果じゃない。いや、学校のテスト結果でも驚くけれど。
実香の手元にあるのは、全国模試の結果なのだ。
そりゃ、千珠おばさんも止めたくなる。こんなの、進路を選びたい放題だ。
「お稽古は、バレエとボイスレッスン?」
一度紙を置いて、沙都子に尋ねる。
これは家庭教師をして仲を深めるよりも沙都子の舞台への情熱を知った方が良さそうだ。
実香はあっさりと勉強を頭の外に放り出す。
曲がりなりにも、音楽学校を受験したいのだから、お稽古はしているはずと、沙都子に話を振った。
「はい。個人的にはバレエより歌うのが好きなんです」
「意外。歌うの好きなんだ」
沙都子が実香の言葉にはにかんだ。舞台の話をするとき、沙都子の雰囲気は丸くなる。
いつもが誇りで肩を切っている人間だとしたら、好きが目から溢れて来るのだ。その姿はとても可愛らしい女の子だ。
視線を落とした沙都子が指の先に目を落とし、指先を回しながら答えた。
「エトワールに成りたいんです」
「エトワール」
歌劇団に入った者が憧れるポジションのひとつ。
フィナーレの最初を彩る、歌が上手い人間にしか認められないポジション。パレードの雰囲気を決めると言われる重要な人物だ。
実香は目を瞬かせた。
「娘役なんだ?」
「そうですね。身長的にもそう考えてます」
今の沙都子の身長は実香の肩くらいだ。大体、160くらいだろう。もう少し伸びたとしても160半ば。
男役には少し厳しい。だが、なんとなく沙都子は男役を選ぶのではないかと思っていた。
沙都子ははにかんだと思ったら、すぐに強気に口角を上げる。
「最終的には羽根を背負いたいですけどね」
「はは、さすが」
もうそれしか言えない。
羽を背負い。娘役で羽を背負えるのは、トップだけ。
つまり、沙都子はエトワールをしてから、トップに立つと言っていた。
歌劇団を知る者なら、尊大な夢だと思うに違いない。だが、実香は沙都子ならそうしてしまうのではないかと思った。
「バレエは何で始めたの?」
バレエは必須科目に近い。あの伝説の女優でさえ、受験を決めてからバレエを習ったと言われる。
もっとも沙都子の姿から、そうでないことは予想できたが。実香の言葉に沙都子は唇を尖らせた。
「母が姿勢が良くなるし、身体を動かすことも必要だと」
「なるほど。海外じゃ、バレエが舞台の中心だろうしね」
海外が長かった千珠らしい考えだ。実香は納得した。
だが、沙都子は唇を尖らせたまま、つんと顔を逸らした。
「母は舞台を見るような人間じゃありませんけど」
沙都子の言葉がまた尖った。
そこには自分の好きなものを認めてくれない母親への反抗心が見え隠れする。
実香は沙都子の子供らしさに目を細め、そして、自分の役割に心が重くなるのだった。




