ダイヤの原石
リビングに入ってきた女の子は、女の子というには強すぎた。
ハーフアップになった髪の毛は黒ではなく、こげ茶色をしている。切りそろえられた前髪の下からは、ぱっちりとした二重瞼に宝玉が埋め込まれているようだった。
舞台の上にいる子というより、元服前の武士のような雰囲気さえ感じる。
つまり清廉で潔白で、この世の綺麗なところばかりを煮詰めたように見えた。
これは大変なことになりそうだと、すぐに予感した。
「初めまして。高峰沙都子です」
中学生にしては、きちんとした挨拶だ。
曲げられた腰は四五度くらいで、ぴしりと止まる。背筋はまっすぐで、指の先まで伸びていた。
日本舞踊か、バレエか。とにかく礼儀作法を身に着けるものを習っているのは確定だろう。
聞き取りやすい声は、姿から想像されるよりも低く、硬い。
ここまでは冷静に実香は沙都子を分析していた。
――どこかで見た気がする。
向かいに立つ沙都子に記憶の奥がざわめいた。
会ったことは無い、はず。だが沙都子の持つ雰囲気を実香は確かに見たことがあった。
「初めまして。桐原 実香です。昔は歌劇団を目指していたの」
もどかしさを抱えたまま、当たり障りのない自己紹介を口に出す。
にっこりと笑顔も添えたはずなのに、沙都子の表情は変わらない。硬い表情でこちらを見ている。
どうやら実香の目的はすでに見抜かれているらしい。
言葉が続かない。時計の秒針の音が、妙に大きく響いた。
「へぇ」
沙都子から出て来た短い相槌は、まるで乾いた石のように転がる。
興味ないのが丸わかりだ。ここまで態度に出されると逆に面白い。
ふいに沙都子が顔を横に向けた。その瞬間に記憶の扉が開かれる。
あ、と声を出さなかった自分を褒めたい。
沙都子の横顔が、前の土曜日、日比谷でポスターを見つめていた少女と重なる。あのとき、実香の心を奪った少女だった。
記憶の狭間に落ちかけた実香の耳に、尖った声が聞こえて来た。
「沙都子、せっかく実香さんが来てくれたのに、その態度はなに?」
「お母さんが、歌劇団を諦めさせるために、呼んだ人でしょ?」
千珠の声に間髪入れることなく沙都子が言い返す。
出されたお茶の表面が揺れた。
親子らしいぶつかり合いに、実香は肩を小さくするしかない。沙都子の視線は、まっすぐ母親に突き刺さり、真っ向勝負をしていた。
「だからと言って、初対面の人にその態度は失礼よ」
それもそう。だけど、事情を知っている実香としては、丁寧な挨拶を貰った方だと思っていた。
沙都子と千珠の間で視線がぶつかり合い、張りつめた沈黙が部屋に満ちる。
我慢しきれなくなったのは、この部屋で一番温い覚悟しか決めていなかった実香だ。
「ま、まぁまぁ。千珠さん、沙都子ちゃんとはゆっくり話してみますから」
けんかの仲裁なんて柄でもない。二人の間に入りながら、ぎこちなさを実香自身が感じていた。
二人の視線が実香に移動してくるのを感じてから、実香は眉を下げる。千珠は大人らしく、一度大きく息を吐くと、にっこりと笑顔に切り替えた。
「そうね。せっかく実香ちゃんがお菓子を持ってきてくれたんだし、出しちゃうわね」
千珠が立ち上がると、ソファに座っているのは実香だけになった。沙都子は微動だにしない。座るほど気を許してもないし、かといって部屋に戻るほど怒っているわけでもないのだろう。
静寂。お互いに緊張しているため動けないだけ。
それは今の実香と沙都子の間にあるのに、もっともぴったりなものだった。
「座ったら?」
「はい」
間が持たず、席を勧めたのは、またしても実香だった。
ひとり立っているだけで、存在感がある。横目で気にするくらいなら、目の前に座ってもらった方がよほど安心だ。
素直に座った沙都子に、実香は少しだけほっとした。目の前のお茶に再び手を伸ばすと、温度はすでに冷めていた。
「……なんで、諦めたんですか?」
そんな冷めたお茶でさえ、心を落ち着けるには十分だった。だが、沙都子は実香の心の動揺など気にすることなく突っ込んでくる。
真正面からの問い。綺麗すぎる視線が刺さる。
この時、実香の胸に湧いたのは二つの相反する感情だった。
ひとつは、素直に不快感。ここまで直接的に実香の傷をえぐってくる人はいなかった。
もうひとつは――感心。化粧さえしていないのに、沙都子の目には力があった。思わず引き込まれる力。それは舞台の上でこそ映えるものだろう。
「大した理由じゃないよ。私に舞台に立つ度胸がなかっただけ」
なんて答えようか。過った疑問はすぐに霧散した。
迷うほど、大したものじゃない。
実香は自嘲するように肩をすくめる。指先が無意識に膝の上で絡み、網のように心を覆う。
「それだけですか?」
「それだけ」
この子の前で、それ以上、一体、何が言えるだろうか。
実香は受験さえせずに逃げた人間だ。そして、同じように沙都子に夢を諦めさせようとしている悪い大人。
沙都子の冷静な声に、実香は静かに頷き、唇を結ぶ。短い返答が二人の間に浮かんでいた。
一瞬の逡巡。その後に、沙都子は言い放つ。
「じゃ、あたしは舞台に立ってみせます。必ず」
実香の言葉を切って返すような宣言。
これ以上ないほど度胸の据わった返事だ。
この時点で、実香は沙都子が受験を諦めることは無いだろうなと悟った。
窓から差し込んだ光が、沙都子の横顔を強く縁取る。
ああ、きっと、彼女にはスポットライトが似合う。彼女以外見えないくらいの強い光だ。
実香は、その光景を幻視したように目を細めた。
「それは……スゴイね」
口から言葉がこぼれ落ちていく。
実香は小さく笑う。この時、実香はステージの上、銀の橋を渡る沙都子の姿さえ見えた気がした。
世田谷区成城。午後の居間で、実香は自分の人生を変えてしまうくらい強い光と出会った。




