温い覚悟
『この間はありがとう! また飲みたいんだけど――』
実香は流れて来たメッセージに当たり障りのない返事をして画面を閉じる。
無事に合コンというタスクを完了させた土曜日、終わってから待っていたのは、怒涛の母からの電話であった。
飲み会はどうだったか聞かれることから始まり、問題の沙都子ちゃんをどうやって諦めさせるかまで一方的に話される。
『とにかく一度、ご挨拶してきなさい。高峰さんも色々お話を聞きたいでしょうから』
ぴしゃりとそう言われて電話を切られた時には、日曜の朝から不幸とはこういうことを言うのではないかと思ったほどだ。
すぐに沙都子ちゃん――正しくは高峰千珠さんのご自宅の住所が送られてきた。
世田谷区成城。
その文字を見ただけで、お嬢様を想像した実香は根っからの庶民な日本人なのだ。
「簡単に言ってくれるよね」
実香は母親の剣幕に押されるまま、訪問を決めた自分に呆れたように頬を掻いた。
成城学園前駅は、日比谷とはまた違う。普段は足を踏み入れることのない駅に周りを見回す。
天気は秋晴れというに相応しい快晴。
行きかう人を避けるように端に寄りながら、実香は自分の格好を見回した。
ある程度、きちっとした格好に見える縞のブラウスとジャケット、黒のタイトなパンツだ。
右手には伊勢丹の紙袋に入ったお土産。左手には筆記用具などが入った肩掛けの鞄。
「大丈夫、だよね?」
これ以上ない訪問スタイルだろう。
忘れ物がないことをもう一度確認してから、実香は目的地である〝沙都子ちゃんの家〟へ歩き始めた。
*
高峰と書かれた表札にさえ、重厚さを感じてしまう。それは実香自身が緊張しているからかもしれなかった。
きちっと門があり、インターホンがついている。世田谷に一軒家――そんな物語みたいな家族が、本当に存在しているのだ。
「大きい家」
実香はその屋根を見上げた。
周りを見回せば同じくらいの家がごろごろしているのだけれど。
高円寺にぼろいマンションを借りている実香からすれば、すべて豪邸だ。
インターホンを押すと、すぐに中へ通される。
「まぁまぁ、わざわざ、ありがとう! 汚い所だけど入って頂戴」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして現れた千珠にほっとする。良かった、変わってない。
最後に会ったのは大学くらいの時だったが、記憶の中にある姿とそう違いはなかった。
少しだけ緊張の糸が緩んだ。その勢いで実香は紙袋を手渡す。
「お久しぶりです。千珠おばさん、これ、お口にあえばいいんですけど」
「あら、ありがとう。気を遣わなくてよかったのよ。本来なら、こちらから窺わなくてはならないのに」
「いえいえ、小さいマンションでの一人暮らしですから」
勧められるままにスリッパを履き、実香は高峰家に足を踏み入れる。
綺麗に磨き上げられたフローリングに、こざっぱりとした廊下。置いてあるゴルフバッグは旦那さんのものだろう。
千珠の後ろをついていくだけで、匂い立つような格調高さに、一度緩んだ緊張が再び戻ってきた。
就活以来とうに忘れた礼儀作法を思い出しながら、実香はソファに座る。
「今は看護師として働いているんだっけ?」
「ええ、大学を出てからそのまま務めています」
「すごいじゃない。大きな病院だったわよね」
「いろんな人が来ますね」
にこりと軽く微笑みながら返事をした。
大学からそのまま就職した方が色々楽だっただけだ。知り合いも多いし、大きな職場ほど福利厚生はしっかりしている。
あらかた近況報告をして、お茶を飲む。
そろそろ話すこともなくなり、本題に入らなければと、実香は勝手に重石を飲み込んだ気持ちになった。
「その……娘さんは歌劇団を目指しているんですよね?」
どう言えばいいのか。どう言葉にするのが、適切か。
実香には皆目見当がつかなかった。
だが、実香の迷子のような問いかけに千珠は深刻そうにため息を吐いた。
「そうなのよ。いきなり『高校は音楽学校に行きたい』なんて言い出して、そんな素振り全く見せなかったのにびっくりしちゃった」
少しばかり早くなった口調で一気呵成に言いきる。
よほど寝耳に水だったようだ。千珠は困惑を絵に描いたように眉を下げて、頬に手を当てた。
実香は首をわずかに傾げる。
「千珠さんが一緒に観劇したとかではないんですか?」
歌劇団を好きになる子は大抵、親の影響だ。
それ以外にも学校の先生や友達の影響ということもあるが、親がまったく知らないことは珍しい。
実香自身も親が貰ってきてくれたチケットで観劇したのだ。
実香の言葉に千珠は大きく手を振った。まさかと言わんばかりの表情だ。
「私は大学卒業してから、ほとんど海外で、帰ってきても仕事ばかりよ。趣味らしい趣味のない生活をしてたから」
実香は小さく頷く。実香が聞いていた千珠のイメージもキャリアウーマンに近い。
千珠は視線を斜め上でさ迷わせると、諦めたように肩を下げた。
「どこで見たのかも、好きなことさえ知らなかったわ」
「そうなんですね」
年頃の女の子なんて秘密のひとつや二つ作りたくなるものだ。
親が興味がないとすれば、言い出しにくいのもあったかもしれない。まだ、沙都子ちゃんのイメージが実香には掴めなかった。
「実香ちゃんが歌劇団を目指してたなんて、初めて知ったわ」
「あはは、昔のことですよ」
自分の方へ向きを変えた話に、実香は慣れた言葉で交わす。
夢は夢だ。現になれば消えてしまう。
「できれば沙都子にも実香ちゃんみたいに、このまま同じ高校に行って欲しいの」
ちくりと実香の胸にとげが刺さる。
実香は諦めただけだ。実香ちゃんみたいに、などど言われることではない。
「ちょっと話してみますね。どういう経緯で好きになったのか知りたいですし……一時的な熱かもしれませんから」
一時的な熱。そう口にした瞬間、実香は自分の白々しさに寒気がした。
受験を言い出す子が一時的な熱なわけがない。
夢を見ていた実香でさえ、受験したいと言えなかった。ましてや成績優秀で、このまま行けば平穏無事な人生がほぼ約束されている子が口にしたのだ。
その可能性はとても低い。
だが、諦めた方がよい夢もきっとある。そう実香は信じたかったのかもしれない。
「よろしくね。今、呼ぶから」
千珠が席を立つ。
実香は目の前に出されたお茶に口をつけた。
温い。まるで自分の覚悟のなさをそのまま表されたようで、実香は苦笑した。




