夢と現実
【日比谷、日比谷。お出口は右側です】
東京メトロ日比谷駅を出たら、しっとりとした雨が地面を濡らしていた。
半透明のビニール傘の山の中に上品な刺繍の施されたものや、前衛的なデザインのものが混じる。どれも素敵で、オシャレな街並みに調和している。
実香は溜息を飲み込んだ。
これだから、この界隈は嫌なのだ。何もかも自分の諦めた夢を思い出させるから。
周りを見ないように目を細めながら、自分の折り畳み傘を広げる。地味な傘だ。軽さと丈夫さだけで選んだ。他の人の持つ麗しさに実香は手が出ないようになっていた。
「次の公演の――」
一歩踏み出し、人の波の合間を漂う。
どうやら、どこかの劇場の終演後のようで聞きたくない単語が次々に耳に飛び込んでくる。
実香は足を速めた。
「この間、帝劇で見た――」
上品なワンピースにコートを身に着けた女性たちが肩を並べて歩いていく。
雨に反射する車のライトに照らされた横顔はほころんでいた。
さぞ良いものを見てきたのだろう。実香も覚えのある表情だ。だが、今の実香にとっては痛みにしかならない。
「――終わってからアフタヌーンティー行かない?」
観劇、終演、お茶会……どれもこれも、実香の胸を刺激する。
聞こえる有象無象に蓋をして、実香はひたすら足を進めていた。
なるべく早く、足早にこの場を通り抜ける。そのはずだった。
よりによって一番見たくないポスターの前に、とても目を引く後ろ姿を見つけるまでは。
(うわ、美人な子)
見つけた瞬間、足が止まった。実香の両脇を人が通り過ぎていく。
歌劇団のポスターが並べて貼られたビルの一角。その前は、常に写真撮影をする人や観光客がごった返している。
だから、スマホも持たず、ただポスターを見つめるその子は、珍しい存在だった。
ピンと伸びた背筋。きっちりと纏められた髪の毛はバレエの帰りだろうか。片手には通学鞄ともうひとつ、荷物の入った鞄があった。
思わず見惚れて、それから慌てて視線を切る。今更、合コンの場所を確認するために端によってスマホを開いた。
「銀座って言ってたのに、結局、日比谷じゃん」
何かを誤魔化すようにそう口に出す。
同僚から送られてきていた店の場所を地図アプリで開く。
飲み会の場所はスペイン料理屋だった。行ったことはない店だったが、口コミの評価は高い。スペイン料理でそう外れることもないだろう。
実香はこれから食べるだろうパエリア、アヒージョ、ワインを思い浮かべる。
楽しみ、楽しいはず、楽しくあってくれ!
そう自分の脳裏に染み込ませる。
「行くか」
どこへ?と聞こえた声に、実香は気づかない振りをした。
目を引いた子は、まだポスターを睨むように立っている。その後姿が、実香の目に焼き付けていた。
※
店はちょうどよい喧騒に満ちていた。
少なすぎず、多すぎず、当たりの匂いがする。
「実香! こっち、こっち!」
「ごめん、このあまり辺来ないから迷っちゃって」
店に入ると、すぐに同僚が気づいて呼んでくれた。
案内してくれようとした店員に頭を下げつつ、席に着く。
最後に来たらしい実香は一番端の席だった。向かいに三人。こちらに三人。
同僚たちは仕事中とは質の違う笑みを顔に貼り付けている。本気具合が伺えた。
席に着いた実香に明るい声が飛ぶ。
「このあたり、お店、多いからね。何飲む?」
「皆は?」
「好きなの頼んでるよ」
ちらりとテーブルの上を見る。確かに置かれているものに統一感はない。ビール、カクテルと様々だ。
料理はまだ来ていない。注文はしてありそうな気配。下手なワインを頼むと料理と合わないかもしれない。
男の顔を見るより先に、実香の頭の中を巡ったのはそんなことだった。
「じゃ、私はハイボールで」
ビールはちょっと重たい。どうせ後でワインを飲みなら、最初はさっぱり行きたかった。
メニューをあまり見もせず、そう口にした実香に男たちが笑う。
「お、結構飲める口ですか?」
「お酒は好きな方で……スペイン料理も好きなので、楽しみにしてきました」
すかさず飛んできた質問を笑顔で交わす。
どうやら話し下手ではなさそう。それだけで、当たりだろう。
美味しい料理を楽しむためには、ある程度の明るい雰囲気が大切だ。
それからすぐに実香の飲み物が運ばれてきた。
「じゃ、今日は楽しみましょう!」
同僚の向かいに座る男が、ビールのジョッキを掲げる。
それに合わせて乾杯をしつつ、並べられた料理を取り分けた。
実香は質問された時だけ答える。下手に自分からは話さない。話すくらいなら食べて飲んでいたかった。
(あの子、あの公演見るのかな?)
考えないで済む受け答えをしながらも、脳裏を過るのは先ほどの後姿だった。
制服を着ていた。スカートなども短くせず、ひざ下まで会った。綺麗な立ち姿はまるで筋が通っているようだった。
彼女が見つめていたポスターは、恐らくロミオとジュリエット。ミュージカルとしても物語としても、有名なタイトルだ。
あの子がジュリエットをするなら――ほぼ見えていない顔を横顔を思い出す。似合わないことは無いだろう。それでも。
(ジュリエットよりは、カルメンとかバレンシアが似合いそう)
そんな感想が実香の胸を過った。
好きな人のために死ぬジュリエットより、好きな人を破滅させるくらい強い女か、好きな人のために潔く身を引きながら、心に残る女。
どれも悲恋には違いないだろうが、あの子が演じるなら。
と、ぼんやりと意識を飛ばしていたら、肩を揺らされる。
「実香?」
「あ、ごめんごめん。お腹空いてぼーっとしてたわ」
はっとして、実香はすぐに笑顔を浮かべた。
駄目だ。これだからあそこを通るのは嫌だったのだ。
実香は頭を切り替えようと、なるべく会話に参加することにした。
結局、その日のうちに、顔もろくに覚えていな男たちと連絡先を交換した。
画面を見つめながら、あのポスターの前に立っていた子の横顔が見え隠れする。あの子の方が、余程、実香の印象に残っていた。




