夢の途中
約束の土曜日は思ったよりも早く来た。
とはいえ、気合が入ることもない。実香が合コンに出る理由は客寄せパンダ以外の意味はなく、そのために頑張ろうと思うほど現実に夢を見れる時期はとうに過ぎ去っていた。
誰かと出会うための飲み会に時間を使うくらいなら、手の中にある暇つぶしのゲームの方がよほど有意義に思えるほどだ。
「とっ……中々出ないなぁ」
画面を叩く。
出てきたのは目当てじゃないキャラクターだった。さすが、排出率0.01%は伊達じゃない。
ため息を飲み込んだ実香の険しい顔が画面に反射していたが、突如、その画面が切り替わる。
「げ、母さん」
焦りそのまま、スマホが手の中で踊った。横持ちをしていた画面を縦にしてスライドするだけなのに、それさえ上手くいかない。
どうにか耳に当てた時に、ふーっと長いため息になったほどだ。
「はい、もしもし」
『もしもし、実香?』
「久しぶり、どうしたの?」
母の口調に変わりはない。どうやら悪い知らせではなさそう。病院でよく聞く深刻さは微塵もない。
実香は視線をカレンダーに走らせた。
前に電話があってから、まだ半月。断ったお見合いの話を掘り返されることは無いだろう。
何を言われるのか、ドキドキした。深刻な話じゃなくても、耳に痛い話には違いない。
『あなた、土日は結構、暇してたわよね?』
「いや、仕事で埋まる日も多いけど?」
『今は電話に出てるじゃない』
「そりゃ、シフトがない日もあるから」
実香は眉をひそめた。
土日は仕事が少ないとはいえ、入院している患者の数はそう多く変化するものでもない。特に結婚しておらず、子供もいない実香のような人間は土日に入る確率は割と多めだった。
まぁ、それでも平日よりは、母の言う暇をしている時間は多いだろう。
母親は実香の言葉を半分以上聞いていないような口調で切り出した。
『親戚の沙都子ちゃん、覚えてる?』
「誰?」
実香は首を傾げた。
親戚の沙都子ちゃん。
そう言われてすぐに思い出せるほど、親戚づきあいを頑張っているわけではない。
むしろ家にいたくなくて、一人暮らしをしている部分さえあった。今、勤めている病院は頑張れば実家からでも通える。都内は家賃が高いため、きつくても長い時間かけて通勤している人間はいた。
『達子おばさんのお孫さんよ!』
「えーっと……千珠さんの娘さん?」
『そう!』
達子おばさんは、母方の祖母の妹で。その達子おばさんには確か子供が三人。全員優秀で、その中で結婚しているとなると――と、実香は家系図を紐解くような気分で、頭の中に人物を思い浮かべた。
母方の祖母は八人兄弟姉妹だ。その名前をきちんと全部覚えたのさえ、成人近くになってから。その娘となるとあやふやで、孫なんて言われたら顔を見ても分からない気がした。むしろ会ったことさえないかもしれない。
「その沙都子ちゃんがどうしたの?」
実香はにじり寄る悪い予感に声を低くした。
会ったこともない子の話で電話をしてくるなんて、ものすごく良いか、ものすごく悪いか。そのどちらかの内容しかない。
その予想のど真ん中を射抜くように、母親は電話口の向こうで言い放った。
『あなたと同じ夢を見ているらしいのよ』
同じ夢。そう言われただけで心臓が痛くなる。
実香の夢だったもの――ちょっとした衝撃で、すぐにあふれ出てきてしまう。埋めた夢の残渣が、目の前に姿を現していた。
実香は爆発物を処理するように慎重に母親に聞き返す。
「同じ夢って……歌劇団?」
『そう。沙都子ちゃんは小中高一貫の私立に通っていて、成績優秀。このままいけば良い大学も難しくないって』
それは絵に描いたような優秀な人生だ。勝ち組と言われるレールに乗っている。
そんな子が歌劇団に入りたいと言い始めたら、そりゃ、大ごとだろう。
実香は少しでも自分の予想からずれた方向に話が進むことを祈りつつ、千珠さんのことを口に出す。
「へぇ、さすが。千珠さんも海外に行ってたものね」
『海外青年協力隊でね。だから、そっちに進む分には問題ないんだけど』
ため息の隠れた母親の言葉に「舞台だと、問題がある?」と言いそうになるのを実香は飲み込んだ。
舞台や芸術関係に進もうとするだけで、そういう扱いをされるのは理不尽だ。怒りの炎がくすぶるも、実香自身はその圧力に負けて夢を埋めた人間である。わざわざ見も知らぬ子のために、喧嘩する気はなかった。
「何歳の子なの?」
『十五歳よ』
十五歳。歌劇団の音楽学校を受験できる年齢は限られている。十五から十八まで。
沙都子ちゃんに出会ったことは無いけれど、ある程度の覚悟は決まっている気がした。
「受験したいんだね」
『受験って、私立だからこのままエスカレーターで上がればいいのよ? それなのに、わざわざ音楽学校を受ける意味なんて……』
ない。そう言いたいのがわかった。
相変わらず、視野が狭いと言うか、常識的に考えればそうなるのだろうけれど。母親がとんでもないことのように早口でまくし立てるのを実香は黙って聞いていた。
舞台で生きるのは難しい。それは目指す本人だってよく分かっている。その上で追いかけたいのが夢で、母親の言う現実を知らないと言うことだ。
「沙都子ちゃんが言い出したんだ」
『そうみたいなの。千珠さんはそっちの方は丸っきり知らないから、誰か知ってる人はいないかって』
「それで、私?」
『ぴったりでしょ。歌劇の世界は甘くないって教えてあげなさい』
甘くない。ええ、よく分かっている。
実香は内心、深く頷いた。
甘くないと思って、自分には無理だと思って、受験を諦めた。そのまま、親の言う通りに受験をして、親の言う通り手に職をつけた。
(甘くなくても、よかったのに)
そう言えるなら、実香はここにはいない。
親のおかげで暮らすには困らない生活ができている。ただ、あの夢が側にあった頃と人生はまるきり表情を変えていた。
実香にとって舞台を遠ざけてからの日々は、白黒映画の様だ。暮らす分には困らないけれど、ずっと眺めるには味気ない。
これ以上話を聞いていると、いらない傷まで負いそうで実香は用事を口に出す。
「母さん、私、今から出かけないといけないから。その……沙都子ちゃんの話? 後にしない?」
『何、彼氏? いい加減、結婚も視野に――』
「はいはい。わかったから。切るね」
夢を諦めた。看護師になった。そして、今度は結婚。
人間、誰しもそんなに順調な人生を描けたら苦労しない。いや、違う。順調な人生を望めたら苦労しない。
望んでないのだから、やれるわけがないのだ。
スマホの画面が消える。真っ黒になった画面を見つめて、実香は呟いだ。
「めんどくさ」
合コンに行く理由に、ストレス解消がひっそり追加された。これも逃避。
大人になってから逃げてばかりだなと思った。
合コンの開催される場所こそ、実香にとって鬼門に他ならないのに。




