夢を埋めた場所
病院という場所は、喧騒に満ちている。
人同士のコミュニケーションが活発なのもあるが、患者を診るためのモニターの音や呼び出し音、時には怒号さえ響く。
このように。
「だから、その日は入院できないんだって!」
「そう言われましても……」
顔を赤くした患者が口をへの字に曲げて言い放つ。対するドクターは眉を下げた。
患者の都合と病院側の都合が上手く折り合うことは、ほとんどない。
説明を続けているドクターの隣で、メモを取りながら、桐原 実香は窓の外を見つめた。
ガラスの向こうは灰色の雲が厚く垂れ込めている。そこから降り注ぐ大きめの雨粒は、透明なガラスに当たって滑っていく。
もっと音が聞こえてもいいはずなのに。
分厚すぎる壁は外の音を何も聞こえなくさせる。雨の音でも聞こえたら、まだ気分を変えられるかもしれない。
そう思って、無理だと気づく。なにせ、実香は秋の雨が嫌いなのだから。
「実香! 今度の土曜日、暇?」
更衣室で話しかけてきた同僚の顔は、仕事終わりとは思えない明るさに満ちていた。
患者への入院説明、内服薬について、さらには明日の時間割と一通りのことをして、気づけば勤務時間は終わっていた。
夜勤への申し送りまでミスなくこなせたのだから、上々の日だ。急患やトラブルで定時に帰れないことが日常な中では。
実香はロッカーを閉めながら答えた。
「シフトは空いてる」
キィ、バタン。金属の軋む音が、女ばかりの姦しさに消されていく。
鞄の中には、お昼に食べた弁当と水筒。あとは財布にイヤホンが入っているくらいだった。
忘れ物がないかをチェックして、顔を上げる。目の前で同僚が立っていた。
「空いてるなら、飲み会いかない?」
「飲み会?」
まだ着替えてもいない同僚は、それを気にした様子もなく拳を握っていた。
このテンションで誘われる飲み会などひとつしかない。
頭の中に面倒という文字が腰を上げ始めるも、実香は努めて顔に出さないようにした。
「実香も恋人いないんでしょ? そろそろ結婚する人も増えてきたしさ」
「ああ、確かにね……お金は出ていくばかり」
同僚の口調に合わせるように、実香は嘆いてみせた。
クリスマスまでに結婚しないと売れ残り、と言われた時代は流石に過ぎた。だが、それでも三十路までの間で一番結婚式が増えるのは間違いない。
結婚の予定も、相手もいない。さらに言えば、作る予定もない実香にすれば、結婚式は回収できる予定のないお金が出ていくだけのイベントだ。もちろん、お祝いの気持ちはあるので出席はする。
実香の言葉に同僚は我が意を得たとばかりに、実香の背中に手を回してくる。
「でしょ? 取り戻さなきゃ!」
「結婚は、お金を取り戻すためにするのものじゃないでしょ」
あまりに力が入っている姿に、実香は笑いをかみ殺しながら答える。まるで喜劇役者だ。舞台の上にいれば、良い役者になる。
同僚は実香の言葉に、ころりと表情を変えた。こういう切り替えの上手さも女優さながらだ。
「ダメかな? 実香がいると誘いやすいんだけど」
上目遣いで上手に見てくる。
実香の容姿は上々で、美人と言われることも間々あった。だが、女性にしてはキツめに見えるのか告白などはされたことはない。
大体にして、飲み会で良い男を連れていくのは、この同僚のようなタイプなのだ。つまり、ノリが良くて人を乗せるのが上手い人間。
ここで断れば面倒なことになるだろう。その予感に実香はため息を飲み込んだ。
たまの飲み会くらい付き合うのが、社会人としての正解。せめて美味しいお店だといいなと実香は願った。
「えー、仕方ないなぁ。いい人集めてよ?」
「任せて!」
渋々乗ったように言葉をコントロールしながら、同僚に念を押す。
この渋々に見せつつ、嫌ではない塩梅を出すのが難しいのだ。喜んでいくように見られると、今後も誘いが続いてしまう。
まるで重責を一身に背負ったように胸を張る同僚に、実香は何とはなしに尋ねた。
「どこら辺でするの?」
「銀座」
銀座。その言葉にどきりとした。
実香の住むアパートから銀座に行くとなると日比谷か有楽町が最寄り駅になるときが多い。
それは実香にとって嬉しくないことだった。
「……頑張るねー」
苦笑いを張り付けて、同僚に答える。
銀座で飲み会をするなど、よほど良い相手を集めたいと思っているのだろう。
今も昔も、女性看護師は合コン相手に事欠かない。女性がつく職業の中では、安定していて給料も良い。旦那が転勤したとしても、職を失うことはほぼない。
性格は置いておいて、人の面倒を見ることには慣れている。そして、未だかつて白衣の天使という言葉を信じている輩がいるからだ。
同僚は恋愛というには強すぎる熱でガッツポーズをした。
「頑張るから、よろしく!」
はいはいと軽くいなして、実香はロッカーを出た。
鞄は忘れていない。いつも通りに帰宅の途に就く。
病院を出れば、雨はすでに上がっていた。水たまりを踏まないように気を付ける。
「銀座かぁ」
呟いた言葉は、雨の残渣に滲んで溶けていく。
あの周囲には実香の諦めた夢が埋まっていた。




