キャプテン代理は笑わせない
『戻らない日常2 「ただいま」の消えたホーム』
第9話「キャプテン代理は笑わせない」
土曜日の午後、港ブルーサンダースの選手たちが体育館へ集まり始めるなか、斉藤乃亜は入口を何度も振り返っていた。
いつもなら誰よりも早く来て、ボールや備品の準備を始める主将の横山紗良が、まだ姿を見せていない。
「紗良ちゃん、遅いね」
石井結衣が時計を確認する。
「電車かバスが遅れてるのかな」
乃亜が答えたところで、村瀬浩司監督が選手たちを集めた。
「練習を始める前に連絡がある。紗良は昨夜から熱が出て、今日は休みだ。病院で診てもらっているが、重い症状ではないから心配し過ぎなくていい」
松永七海が不安そうに尋ねる。
「紗良ちゃん、次の練習には来られますか?」
「熱が下がって、しっかり休んでからだな。今日は紗良の分まで元気に練習しよう」
選手たちが「はい」と返事をすると、村瀬監督は乃亜を見た。
「それから乃亜。今日はお前が主将代理だ」
乃亜は自分の胸を指さした。
「私ですか?」
「六年生で、チーム全体へよく声をかけている。紗良がいない日のチームをまとめてみろ」
「でも私、主将なんてやったことありません」
「最初から経験のある人はいない。分からないことがあれば、俺や仲間に聞けばいい」
田辺心春が乃亜の肩をたたいた。
「頑張って、代理キャプテン」
「心春、笑ってない?」
「まだ笑ってないよ」
「まだって何?」
乃亜は不安を抱えながらも、主将代理を引き受けた。みんなの前へ立つと、大きく息を吸い込む。
「今日は紗良ちゃんの代わりに、私がチームをまとめます!」
選手たちから拍手が起こった。
乃亜はさらに声を張った。
「主将代理として、今日は絶対に笑わせません!」
その宣言を聞いた瞬間、結衣が口元を押さえた。小林凛も下を向いて肩を揺らしている。
「どうして笑うの?」
心春が真顔で答えた。
「乃亜ちゃんが『笑わせません』って言うと、何か起こりそうだから」
「起こしません。今日は真面目な斉藤乃亜です」
「いつもの乃亜ちゃんは?」
「今日は自宅待機です」
「もう面白いよ」
体育館に笑いが広がる。乃亜は両頬を押さえ、表情を引き締めた。
「とにかく、準備運動から始めます。二列に並んで!」
普段は紗良の指示に従って動いていた乃亜だが、自分が前へ立つと、見える景色がまるで違っていた。全員がそろっているかを確認し、低学年の選手が間隔を取れているかにも気を配らなければならない。
準備運動を始めようとしたところで、乃亜はボールかごがまだ倉庫にあることに気づいた。
「結衣、ボールをお願い。凛はマーカーを出して。七海は――」
「乃亜ちゃん、準備運動は?」
七海に聞かれ、乃亜は動きを止めた。
「あ、先に準備運動だった」
「主将代理、開始一分で順番を見失ってるよ」
心春に指摘され、また笑いが起きる。
「これは、みんなの注意力を確認するためです」
「今のは絶対、忘れてたでしょう」
乃亜はごまかすように笛を持ち上げた。
「では、準備運動を始めます!」
笛を吹こうと息を吸ったが、吹き口を逆向きに持っていたため音が出ない。
「……あれ?」
もう一度吹く。しかし空気が抜けるだけで、笛は鳴らなかった。
村瀬監督が静かに声をかける。
「乃亜、笛が逆だ」
乃亜は手元を見た。
「これは、笛が正しい方向を教えてくれるか確認していました」
「笛にそこまでの機能はない」
三度目の笑いが起きる。乃亜は笛を持ち直し、今度こそ体育館へ鋭い音を響かせた。
準備運動を終えたあとは、パスとドリブルの基礎練習へ移る。乃亜は紗良がいつも使っている作戦ボードを持ち、練習の流れを説明しようとした。
「次は二組に分かれます。こっちから走って、ここでパスを――」
選手たちはボードを見ながら、そろって首をかしげた。
結衣が手を挙げる。
「乃亜、その矢印だと、全員が体育館の外へ走っていくことになるよ」
「え?」
乃亜はボードを見つめた。選手の位置を示す丸印も、ゴールの位置も、すべて上下が逆になっている。
心春がボードの上を指さした。
「上下が逆」
乃亜は慌ててボードを回転させた。
「こっちでした」
「代理キャプテン、作戦で全員を帰宅させようとしてたね」
凛の言葉に、七海が吹き出した。
「違います! 今日はまだ帰しません!」
宣言どおり笑わせないどころか、練習開始から笑いが絶えない。それでも乃亜は、少しずつ主将代理の仕事へ慣れていった。
パス練習では、列の後ろで不安そうにしている七海へ声をかけた。
「七海、強いボールじゃなくていいよ。まず結衣の胸へ届けよう」
ドリブル練習で凛が失敗すると、すぐにボールを拾って渡す。
「失敗しても、次にできたら大丈夫。顔を上げていこう」
結衣の靴ひもがほどけていることにも気づき、転ぶ前に結び直すよう伝えた。
自分の練習へ集中しているだけでは、なかなか気づかないことばかりだった。
給水休憩に入ると、乃亜はベンチへ腰を下ろした。
「キャプテンって、こんなに忙しいんだ……」
心春が隣へ座る。
「まだ練習、半分も終わってないよ」
「自分のプレーより、みんなを見てる時間のほうが長い気がする」
「紗良ちゃん、いつもやってるもんね」
乃亜は、これまでの練習を思い返した。紗良は選手たちより早く体育館へ来て、最後まで残ることが多い。ボールかごや作戦ボードを準備し、低学年の選手が困っていないかを見て、練習中には誰よりも声を出していた。
「紗良ちゃん、すごいね」
「乃亜ちゃんも、ちゃんとできてるよ」
「作戦ボードを逆に持ったけど?」
「それはできてなかった」
心春の即答に、乃亜は笑った。
休憩後は五人ずつに分かれて、短い練習試合を行うことになった。乃亜は自分のチームのメンバーを集め、作戦ボードを正しい向きで持つ。
「今度は大丈夫。ゴールは上です」
「そこから確認するの?」
結衣が笑った。
試合が始まると、相手チームに連続して得点を許した。七海はパスを受け損ね、自分のミスから点を取られたと思い、うつむいてしまう。
乃亜はすぐに七海のもとへ走った。
「七海、下を向かない。まだ終わってないよ」
「でも、私が落としたから……」
「私なんて作戦ボードで全員を体育館の外へ走らせるところだったんだから、それより全然大丈夫」
七海が思わず笑った。
「乃亜ちゃん、それと比べていいの?」
「笑えたなら大丈夫。次の一本を取りにいこう」
乃亜は仲間全員へ声をかけた。
「守ったら、すぐ顔を上げて走るよ! 結衣は真ん中、心春は右。七海は私と一緒に左から上がろう!」
それまで少し静かだったチームに、はっきりした返事が戻った。
「はい!」
相手のシュートが外れ、心春がリバウンドを取る。結衣へつなぎ、結衣から左を走る乃亜へパスが出た。
乃亜は自分でシュートへ行けたが、隣を走ってきた七海へボールを渡した。
「七海!」
七海はゴールを見上げ、両手でシュートを放つ。ボールはバックボードへ当たり、リングの中へ落ちた。
「入った!」
七海が飛び跳ねる。
ベンチから凛とほかの仲間たちが拍手を送った。乃亜も七海と手を合わせる。
「ナイスシュート!」
練習試合の結果は引き分けだった。それでも乃亜のチームには、勝敗以上の明るさが戻っていた。
練習を終え、選手たちが後片づけをしていると、村瀬監督が乃亜を呼んだ。
「主将代理をやってみて、どうだった?」
「大変でした。全員を見ないといけないし、声を出しても伝わらないこともあるし、自分のプレーだけ考えてたら駄目なんだって分かりました」
「面白かったか?」
乃亜は少し考えてから、うなずいた。
「はい。大変だったけど、みんなが返事をしてくれたり、七海がシュートを決めたりしたときは、自分が決めたときとは違ううれしさがありました」
村瀬監督は腕を組み、乃亜を見つめた。
「乃亜は、将来どんな選手になりたい?」
「自分が点を取るだけじゃなくて、周りを明るくできる選手になりたいです。失敗した人がいたら、次も頑張ろうって思えるような声をかけられる選手です」
「それなら、どんなチームにしたい?」
乃亜は、体育館で片づけを続ける仲間たちを見た。
「笑いが絶えなくて、明るくて、みんながハキハキ返事をするチームです。真剣にやるところは真剣にやって、失敗した人を責めるんじゃなくて、次の一本へ一緒に向かえるチームにしたいです」
「いい答えだ」
村瀬監督は穏やかに笑った。
「ただし、作戦ボードは正しい向きで持とうな」
「そこはもう忘れてください!」
片づけを終えた選手たちは、体育館のベンチへ集まった。結衣がスマートフォンを立て、休んでいる紗良とビデオ通話をつなぐ。
画面には、部屋着姿の紗良が映った。顔には少し疲れが残っているものの、熱は下がり始めているらしい。
「みんな、お疲れさま」
「紗良ちゃーん!」
選手たちが一斉に手を振る。
乃亜は画面の前へ座った。
「紗良ちゃん、早く良くなってね。みんな待ってるよ〜」
「ありがとう。今日は乃亜が主将代理だったんでしょ?」
「完璧に務めました」
心春が横から顔を出す。
「作戦ボードを逆に持ってたよ」
「心春、それは報告しなくていい!」
凛も続ける。
「笛も逆に持ってました」
「凛まで!」
画面の向こうで、紗良が声を上げて笑った。
「乃亜らしい。でも、みんな楽しそうだから安心した」
「キャプテンって大変だね。今日やってみて、紗良ちゃんがいつもどれだけ周りを見てるか分かったよ」
「私も最初は失敗ばかりだったよ。乃亜は声が大きいし、誰にでも話しかけられるから、主将に向いてると思う」
「本当?」
「うん。私が戻るまで、みんなをよろしくね」
乃亜は胸を張った。
「任せてください!」
そのとき、体育館の入口から貴教が姿を見せた。野球の練習を終え、勝と一緒に乃亜を迎えに来たのだった。
「お姉ちゃん、帰るよ」
いつもならそのまま近づいてくる貴教が、スマートフォンの画面に紗良が映っていることに気づき、急に足を止めた。
髪を手で整え、ユニフォームの土を払い、姿勢を正す。
その不自然な動きを、乃亜は見逃さなかった。
「貴教、どうしたの?」
「別に」
「急に髪を直したけど」
「野球の練習で乱れたから」
画面の中の紗良が、貴教へ手を振った。
「貴教くん、こんにちは。野球の練習だったの?」
「は、はい!」
貴教の声が裏返った。
結衣と心春が顔を見合わせる。乃亜も弟の顔をじっと見た。貴教の耳は、分かりやすいほど赤くなっている。
紗良は気づかず、優しく続けた。
「外野手なんだよね。乃亜から聞いたよ。練習、頑張ってね」
「はい! 紗良さんも、早く良くなってください!」
返事だけは、監督に褒められそうなほどはっきりしていた。
「ありがとう」
紗良が笑うと、貴教は照れくさそうに視線をそらした。
通話を終えたあと、乃亜はバッグを肩へ掛けながら、弟の顔をのぞき込んだ。
「貴教、もしかして紗良ちゃんのファン?」
「違うよ!」
「まだファンとしか言ってないけど」
「野球選手のファンみたいな意味だろ!」
「紗良ちゃんはバスケットボール選手です」
「そういうファン!」
乃亜はにやりと笑った。
「紗良ちゃんのこと、好きなんじゃない?」
「お姉ちゃん、声が大きい!」
貴教は慌てて乃亜の口を塞ごうとする。少し離れたところにいた結衣や心春たちは、すでに笑いをこらえていた。
貴教は小さな声で白状した。
「……格好いいし、優しいから、ちょっと好きなだけ」
「それを好意って言うんだよ」
「誰にも言わないでよ」
「分かった。紗良ちゃん本人には言わない」
「チームのみんなにも!」
乃亜が周囲を見ると、結衣、心春、凛、七海がそろって別の方向を向いた。
「もう遅いかも」
「お姉ちゃん!」
体育館に大きな笑い声が響いた。
帰りの車でも、乃亜は貴教を時々横目で見ていた。貴教は窓の外を見ながら、まだ耳を赤くしている。
勝がバックミラー越しに二人を見た。
「何かあったのか?」
「何もない!」
貴教が即答する。
乃亜は弟との約束を守り、詳しいことは言わなかった。
「貴教が、ハキハキ返事をしただけ」
「それはいいことじゃないか」
「相手によっては、いつも以上にハキハキするみたい」
「お姉ちゃん!」
貴教の叫びに、勝は事情が分からないまま笑った。
その夜、乃亜は杏子に、初めて主将代理を務めた一日について話した。杏子は失敗した場面も含め、最後まで楽しそうに聞いていた。
「大変だったけど、面白かった。紗良ちゃんが戻ってきたら、もっと手伝いたいと思った」
「今日の経験で、乃亜はまた少しお姉さんになったね」
「作戦ボードは逆だったけど」
貴教が口を挟む。
「貴教だって、紗良ちゃんを見た瞬間に――」
「それ以上言ったら、明日お姉ちゃんのことを掲示板お姉ちゃんって学校中で呼ぶから!」
「もう一年生に呼ばれてるもん」
姉弟の言い合いを聞きながら、杏子と勝は顔を見合わせて笑った。
その日の乃亜は、キャプテンという立場の大変さと面白さを知った。そして貴教は、誰にも知られていないつもりだった小さな恋心を、姉とブルーサンダースの選手全員に知られてしまった。
明るく、ハキハキと声を出し、失敗しても次の一本へ向かう。
乃亜が思い描いたチームの姿は、少しずつ港ブルーサンダースの中に形を持ち始めていた。
次回予告
横浜リトルファイヤーズに入団した貴教が、初めての練習試合へ臨む。
家族が見守るなか迎えた初打席。しかし、打ちたい気持ちが強過ぎて、貴教の体は緊張で動かない。
「振らなきゃ、何も始まらないぞ!」
大森監督の言葉を受け、貴教は再びバッターボックスへ向かう。
次回、第10話「貴教、初打席」。
初安打を母へ届けることはできるのでしょうか。




