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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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貴教、初打席

第10話「貴教、初打席」


土曜日の朝。斉藤家のリビングでは、ユニフォーム姿の貴教が素振りを繰り返していた。


「いーち、にーい!」


「貴教、家の中でバット振らんといて!」


杏子が慌てて声を上げる。バットの先は、テーブルの上のティッシュ箱すれすれを通過した。


「本番を想定した最終調整やって」


「試合会場にティッシュ箱はないやろ」


乃亜の突っ込みに、勝もうなずく。


「それに、さっきから同じ靴下を三回はき直してるぞ」


「これは左右のバランスを確認してるの!」


「緊張してるだけやん」


「してない!」


貴教の声が裏返り、三人は顔を見合わせて笑った。


今日は、横浜リトルファイヤーズに入団して初めての練習試合。対戦相手は港南ウイングスだった。


車で球場へ向かう途中、ラジオから『フライデー爆笑ラジオカフェ』の再放送が流れてきた。


『初めての挑戦で緊張したときは、手のひらに“人”と書いて飲み込むといいますが――』


『うちの奏太は“肉”と書いて、お昼に焼き肉を食べました』


『ただお腹がすいていただけですね』


車内に笑いが広がる。しかし、貴教だけは窓の外を見たまま、膝の上で拳を握っていた。


試合会場に到着すると、チームメイトの森田蓮が駆け寄ってきた。


「貴教、今日出るって!」


「えっ、ほんまに?」


「六番、ライト。大森監督が言ってた」


河合悠斗も後ろから貴教の肩をたたく。


「肩は強いんだから、思い切っていけよ」


「打つほうは?」


「それは……思い切って振れ!」


答えになっていない励ましに、貴教は余計に不安になった。


そこへ乃亜が、嬉しそうな顔で現れる。


「貴教、特別ゲストを連れてきたで」


乃亜の後ろから姿を見せたのは、港ブルーサンダースの主将・横山紗良だった。


「こんにちは。乃亜ちゃんに誘ってもらったの」


貴教の動きが止まった。


「うちの弟が野球の試合に出るんやけど、観にくる? あいつ、めっちゃ面白いからって誘ったんよ」


「お姉ちゃん! 紹介の仕方!」


乃亜は両手を口元に当て、グラウンド中に聞こえる声で叫ぶ。


「貴教~! 大好きな紗良が見に来てるよ~!」


「“大好き”まで言わんでええ!」


顔を真っ赤にして抗議する貴教。その様子を見て、紗良は楽しそうに笑った。


試合は三回裏。二対二の同点で、ついに貴教の初打席が回ってきた。


「六番、ライト、斉藤君!」


杏子が観客席から立ち上がる。


「貴教~! 頑張れ~!」


勝もカメラを構え、乃亜は紗良と並んで手を振った。


「貴教くん、ヒット打って~!」


紗良の声が届いた瞬間、貴教の心臓が大きく跳ねた。


――紗良さんが見てる。


――お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも。


――絶対、打たなきゃ。


バッターボックスに立った貴教は、バットを強く握り過ぎていた。


一球目。


真ん中に来たボールを、見送ってしまう。


「ストライク!」


二球目も、振れない。


「ストライク、ツー!」


打ちたい気持ちは誰より強い。それなのに、体が石のように固まっていた。


大森監督がタイムを取り、貴教を呼び寄せる。


「貴教。ホームランを打とうとしてるのか?」


「……はい。できれば」


「初打席から欲張るな」


監督は笑い、貴教のヘルメットを軽くたたいた。


「三振しても、空振りなら次につながる。だがな――振らなきゃ、何も始まらないぞ!」


貴教は大きく息を吸った。


「はい!」


再びバッターボックスへ向かう。観客席から、杏子の声が聞こえた。


「貴教! 思いっきりいき!」


乃亜も叫ぶ。


「空振りしても、晩ごはんはあるで~!」


「余計なこと言うな!」


思わず言い返したことで、貴教の肩から力が抜けた。


三球目。外角への速球。


貴教は一歩踏み込み、バットを振り抜いた。


乾いた音が響く。


打球は投手の横を抜け、二遊間を破ってライト前へ転がった。


「走れ、貴教!」


一塁ベースを駆け抜けた貴教に、審判の声が重なる。


「セーフ!」


「やったあ!」


杏子と乃亜が同時に飛び上がった。勝はカメラを構えたまま、「よし!」と拳を握る。


紗良も立ち上がり、誰より大きく手を振っていた。


「貴教くん、ナイスヒット!」


一塁上の貴教は、耳まで真っ赤にしながら、小さくガッツポーズを作った。


試合後、杏子は戻ってきた貴教を抱き締めた。


「初ヒット、おめでとう。めっちゃ格好よかったで」


「お母さんに打ったんやで」


「ほんまに?」


貴教は少し考え、紗良のほうをちらりと見る。


「……半分は」


「残り半分、誰に届けたんやろなあ?」


乃亜がにやにやしながら顔をのぞき込む。


「チームのみんなに決まってるやろ!」


そのとき、紗良が近づいてきた。


「貴教くん、初安打おめでとう。ちゃんと振り切ってて、すごかったよ」


「あ、ありがとうございます!」


緊張して頭を下げた貴教は、脱いでいたヘルメットに額をぶつけた。


「いったーい!」


全員が笑い、貴教も額を押さえながら笑った。


その夜、『フライデー爆笑ラジオカフェ・裏トーク』では、美香が一通のメッセージを紹介した。


『横浜市、ラジオネーム“ライト前の母”さん。息子が初めての試合で、初安打を打ちました』


光子が弾んだ声を上げる。


『おめでとうございます!』


『ところが息子さん、“お母さんのために打った”と言った直後、応援に来ていた年上の女の子を見たそうです』


『初安打と初恋疑惑、同じ日に飛び出しました!』


ラジオを聞いていた貴教が、ソファから勢いよく立ち上がる。


「お母さん、これ投稿したやろ!」


「さあ、誰やろなあ?」


杏子は笑ってとぼける。その横で乃亜が『爆笑通信』の投稿画面を開き、追加情報を打ち込み始めていた。


「お姉ちゃん! 何を書いてるん!」


明るい声と笑いが、今日も斉藤家のリビングに響いていた。


次回予告


港南小学校で授業参観が行われることになり、斉藤家からは勝が参加する。


乃亜は最上級生らしい姿を見せようと張り切り、貴教も積極的に手を挙げると宣言。しかし当日、二人の教室では思いがけない出来事が続発する。


「お父さん、こっち見ないで!」


「見に来てほしいって言ったのは乃亜だろ?」


次回、第11話「お父さんが見ています」。


勝は、子供たちの普段どおりの姿を見ることができるのでしょうか。

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