お父さんが見ています
第11話「お父さんが見ています」
授業参観の朝、斉藤家の食卓では、いつもとは少し違う緊張感が漂っていた。
仕事で参加できない杏子に代わり、今日は勝が港南小学校を訪れることになっている。乃亜は朝食を食べながら何度も時間割を確認し、貴教は授業中に手を挙げる練習を繰り返していた。
「はいっ!」
突然、貴教が右手を勢いよく伸ばした。その手が隣に座る乃亜の頭をかすめる。
「危なっ! うちの頭の上で挙手せんといて!」
「本番では、もっと速く挙げるから」
「速さを競う行事やないで」
勝がコーヒーを飲みながら笑うと、乃亜は真剣な表情で念を押した。
「お父さん、教室に来ても手を振らんといてね。名前も呼ばんで。写真も撮らんで。それから、変な顔もせんでよ」
「俺は授業参観で何をしていいんだ?」
「後ろで静かに見てて」
「見に来てほしいって言ったのは乃亜だろ?」
「来てほしいけど、見られると緊張するんよ!」
矛盾した注文に、勝は苦笑いするしかなかった。
港南小学校に到着すると、正門には多くの保護者が集まっていた。勝は受付を済ませ、最初に六年生の乃亜の教室へ向かった。
六年二組では、担任の高橋真理先生による国語の授業が始まっていた。教室の後ろには保護者がずらりと並び、乃亜の親友・小川美羽も、普段より背筋を伸ばして座っている。
勝が教室へ入った瞬間、乃亜はちらりと後ろを見た。
目が合う。
勝が小さく笑う。
乃亜は慌てて前を向いた。
「では、この場面で主人公が本当に伝えたかったことは何だと思いますか?」
高橋先生が問いかけると、普段なら真っ先に手を挙げる乃亜は、ノートを見たまま動かなかった。
――お父さんが見てる。
そう思った途端、間違えたらどうしようという不安が膨らんでしまったのだ。
隣の美羽が小声で話しかける。
「乃亜、さっきまで絶対に発表するって言ってたじゃん」
「今、頭の中が全部飛んだ」
「いつもどおりでいいんだよ」
乃亜は深呼吸し、意を決して手を挙げた。
「はいっ!」
ところが、勢い余って机の端に手が当たり、消しゴムと鉛筆が床へ落ちた。拾おうとした乃亜の膝が今度は机の裏にぶつかり、鈍い音が教室に響く。
「いったーい!」
教室中から笑いが起こった。後ろにいる勝も、口元を押さえている。
「お父さん、笑わんといて!」
乃亜が思わず叫ぶと、高橋先生が笑顔で言った。
「斉藤さん、今の発言はお父さんに向けたものですね。では、物語の主人公に向けた答えもお願いします」
再び教室が笑いに包まれる。
顔を赤くした乃亜だったが、今度は落ち着いて自分の考えを発表した。言葉を選びながら、登場人物の気持ちを丁寧に説明する。その答えに、高橋先生は大きくうなずいた。
「とてもよく考えられています。さすが六年生ですね」
授業後、乃亜は廊下に出てきた勝に詰め寄った。
「お父さん、途中で笑ったやろ」
「笑うなというほうが無理だ。あんなに派手に机へぶつかるとは思わなかったぞ」
「普段はぶつからんもん。お父さんがおるから緊張したんよ」
「でも、最後の発表は立派だった」
勝に褒められると、乃亜は少しだけ頬を緩めた。
続いて勝は、四年一組の教室へ向かった。
貴教のクラスでは、担任の松本健吾先生による算数の授業が行われていた。黒板には長方形の図が描かれ、面積の求め方について考えている。
貴教は背筋を伸ばし、右手を挙げる準備をしていた。後ろの扉から勝が入ってきたことを確認すると、すぐさま手を挙げる。
「はいっ!」
しかし、松本先生はまだ問題を最後まで読んでいなかった。
「斉藤君、まだ質問していません」
「……先に予約しました」
教室のあちこちから笑い声が上がり、森田蓮が小声で「早過ぎるって」と突っ込む。河合悠斗も肩を震わせていた。
「では、予約一番の斉藤君。この図形の面積はどうやって求めますか?」
「はい。縦かける横です!」
「では、縦は何センチですか?」
貴教は黒板を見つめた。
「……何センチでしたっけ?」
「そこからかい!」
蓮の声に、また笑いが起きた。
それでも貴教は黒板の数字を確かめ、正しい式を答えた。安心して座ろうとしたものの、椅子が少し後ろへずれていることに気づかず、そのまま尻もちをついてしまう。
「うわっ!」
「貴教、大丈夫か?」
思わず勝が声をかけると、貴教は床に座ったまま叫んだ。
「お父さん、こっち見ないで!」
「今は見ないほうが無理だろ!」
教室はこの日一番の笑いに包まれた。
授業参観が終わり、三人は校庭の隅で合流した。乃亜は机に膝をぶつけ、貴教は椅子から落ちた。二人とも「普段どおり」を見せようとした結果、普段以上に失敗してしまったのである。
「もう最悪。絶対、笑われた」
乃亜が肩を落とすと、貴教もうなずいた。
「俺も格好いいところ見せるつもりやったのに」
勝は二人の顔を見比べたあと、懐かしそうに校舎を見上げた。
「そういえば、俺も思い当たる節があるなあ」
「お父さんも?」
勝が小学生だった頃の授業参観。母親に立派な姿を見せようと、先生が問題を読み終える前に手を挙げ、勢いよく立ち上がったところ、答える教科書のページを間違えていた。
しかも、慌てて教科書をめくった拍子に筆箱を落とし、中身を教室中へばらまいてしまったという。
「おばあちゃん、何て言ったん?」
「帰ってから、“勝らしい授業参観だった”って笑ってたよ」
「今日のお姉ちゃんと同じやん」
「貴教もやろ!」
言い合いを始めた姉弟に、勝は笑いながら言った。
「間違えても、転んでも、ちゃんと手を挙げた。それで十分だ。それにな、普段どおりじゃなかったかもしれないけど、二人らしさはよく分かったぞ」
「二人らしさって?」
「乃亜は失敗しても最後まで自分の考えを話せる。貴教は分からなくても、とにかく前へ出ようとする。父親としては、かなり安心した」
その日の夕方、杏子が帰宅すると、乃亜と貴教は競うように授業参観の出来事を報告した。
「お姉ちゃん、机に二回もぶつかったんよ」
「貴教は椅子から落ちたやん!」
「乃亜は授業中にお父さんへ話しかけてた!」
「貴教は質問される前に答えようとした!」
杏子は二人の話を聞き終えると、笑いながら勝に尋ねた。
「結局、普段の学校生活は見られたん?」
「いや。俺が行ったせいで、二人とも普段の三割増しで慌ててた」
その夜の『フライデー爆笑ラジオカフェ』では、光子と優子がリスナーから届いた“授業参観の失敗談”を紹介していた。
『先生に当てられて元気よく立ったら、何を聞かれたのか忘れました』
『私なんて、お母さんを見つけて“今日の晩ごはん何?”って聞きました』
番組と連動した『爆笑通信』にも、参観日で張り切り過ぎた子供や、緊張して失敗した保護者の投稿が次々と届く。
ラジオを聞いていた乃亜が、ソファでため息をついた。
「うちらより上がおるんやね」
「じゃあ、今日の俺はまだ普通やな」
「椅子から落ちて普通なわけないやろ」
斉藤家のリビングに、いつもの笑い声が響いた。
その頃、川崎駅のコンコースでは、一人の男が壁際に立ち、人の流れを黙って見つめていた。楽しそうに歩く家族、仕事帰りの会社員、友人と笑い合う学生。その視線には温かさも関心もなく、ただ人の多さを確かめているように見えた。
やがて男は、手にしていた小さなノートを閉じ、人混みの中へ消えていった。
誰も、その存在を気に留めなかった。
次回予告
授業参観を無事に終えた斉藤家に、町内会の広報誌から家族写真の撮影依頼が舞い込む。
せっかくなら最高の一枚を残そうと張り切る四人。しかし、乃亜は目を閉じ、貴教はよそ見をし、勝の笑顔はなぜか不自然。杏子が全員をまとめようとするものの、撮影は一向に終わらない。
「みんな、普通に笑って!」
「普通の笑顔って、どうやるんだ?」
次回、第12話「家族写真は一度で決まらない」。
斉藤家全員が笑った瞬間を、カメラは捉えられるのでしょうか。




