雨の港南台駅
『戻らない日常2 「ただいま」の消えたホーム』
第8話「雨の港南台駅」
その日の横浜は、朝から厚い雲に覆われていた。
天気予報では夕方から雨脚が強まると伝えられていたが、昼過ぎまでは細かな雨が降ったりやんだりする程度だった。ところが杏子が川崎の職場を出るころには、風を伴った強い雨へと変わっていた。
川崎駅のホームには、帰宅を急ぐ人々があふれている。屋根を激しくたたく雨音に列車の案内放送が重なり、発車案内には遅れを知らせる表示が出ていた。
京浜東北・根岸線は強い雨の影響で速度を落として運転しており、杏子が乗る大船方面行きの電車も、定刻より遅れて川崎駅へ到着した。
杏子は電車へ乗ると、斉藤家の家族グループへメッセージを送った。
〈いま川崎を出たところ。電車が少し遅れてるけど、大丈夫だからね〉
自宅では、勝がそのメッセージを読みながら窓の外を見た。道路には大きな水たまりができ、風にあおられた雨粒が窓ガラスを斜めに流れている。
「お母さん、まだ帰ってこないの?」
貴教が心配そうに尋ねた。
「電車が遅れてるんだ。お母さんはちゃんと電車の中にいるから大丈夫だよ」
勝が答えると、乃亜も窓の外を見た。
「この雨の中、港南台駅から歩くのは大変だよね」
「そうだな。迎えに行こうか」
勝が車の鍵を手に取ると、乃亜がすぐに立ち上がった。
「私も行く!」
「俺も!」
貴教も続いて立ち上がる。
「二人は家で待っていてもいいんだぞ」
「お母さん、仕事で疲れてると思うから、みんなで迎えたほうが元気出るよ」
乃亜の言葉に、勝は笑ってうなずいた。
三人は杏子を驚かせるため、迎えに行くことを伝えずに車へ乗り込んだ。
ワイパーが忙しく左右へ動き、フロントガラスを流れる雨をかき分ける。普段ならすぐに着く距離だったが、道路も混雑しており、勝はいつも以上に慎重に運転した。
港南台駅近くの駐車場へ車を止め、三人は傘を寄せ合いながら駅へ急いだ。それでも屋根の下へ入ったときには、乃亜の靴下と貴教のズボンの裾が少しぬれていた。
勝は三人分の入場券を買い、子どもたちと一緒にホームへ上がった。雨は線路の向こう側を白くかすませるほど激しく、風向きが変わるたびにホームの内側まで雨粒が吹き込んでくる。
貴教は発車案内を見上げた。
「お母さん、まだ〜?」
「まだ関内にも着いてないんじゃないか」
「さっきから、もう少しって言ってるけど」
「雨でゆっくり走ってるんだから仕方ないだろ」
乃亜もスマートフォンを確認するが、新しい連絡は入っていない。
「川崎から港南台まで、いつもよりずっと長く感じるね」
「急いで危ない目に遭うより、安全に帰ってきてくれたほうがいい。遅れても、ちゃんと着けばそれでいいんだよ」
勝の言葉に、乃亜と貴教は静かにうなずいた。
それから数分後、乃亜のスマートフォンが鳴った。
杏子からのメッセージだった。
〈今、関内駅を出たところ。もう少しで着くから〉
「お母さん、関内を出たって!」
「じゃあ、今度こそもうすぐ?」
貴教が身を乗り出す。
「そうだな。あと少しだ」
勝が答えた直後、屋根を打つ雨音がさらに大きくなった。ホームの照明に照らされた雨が、白い幕のように線路の上を覆っている。
「また強くなった」
乃亜がつぶやいた。
「お母さんの電車、大丈夫かな」
「こういうときこそ、運転士さんたちが安全を確認しながら走ってるんだ。俺たちはここで待っていよう」
三人はベンチの近くへ移動した。
しばらく待っているうちに、貴教が何度目か分からないため息をついた。
「まだかなぁ」
乃亜が両手をたたいた。
「暇だから、しりとりしよう!」
「普通のしりとり?」
「せっかく雨の日だから、雨に関係する言葉だけ」
勝は少し考えた。
「かなり難しくないか?」
「言い方次第で、いろいろ使えるよ。じゃあ、私から。雨!」
「め……めだか!」
貴教が答えると、乃亜がすぐに手を上げた。
「めだかは雨と関係ない」
「雨の日も川にいるじゃん!」
「それを認めたら、ほとんどの生き物が使えるでしょう」
「じゃあ、お姉ちゃんも雨の日にいるから、乃亜も使えるじゃん」
「私をしりとりの単語にしないで!」
勝が笑いながら二人を止めた。
「雨の日に使うものだけにしたらどうだ?」
「じゃあ、お父さんが『め』からね」
「め……目薬」
「雨の日に使わない!」
今度は乃亜と貴教の声がそろった。
「雨が目に入ったら使うかもしれないだろ」
「お父さん、無理やり過ぎるよ」
開始から一分もたたないうちに、雨に関係する言葉という条件は廃止された。
二回戦は、乗り物の名前だけで行うことになった。
乃亜が「電車」と言い、貴教が「車」と続ける。
「また『ま』か」
勝は少し考えた。
「マイクロバス」
「す……スカイライン!」
貴教が得意げに答える。
乃亜は首をかしげた。
「最後、『ん』だよね?」
「あっ」
「貴教の負け」
「待って! 車の名前だけは、最後の『ん』を無視していいルールにしよう!」
「負けたあとにルールを変えたら駄目!」
「スカイラインは格好いいから特別!」
「格好よさは、しりとりの規則と関係ありません」
勝は笑いをこらえながら、三回戦を提案した。
「今度は食べ物だけにしよう。途中でルールを増やすのは禁止」
貴教が「カレー」、乃亜が「レタス」、勝が「すいか」と続ける。そこから「かまぼこ」「コロッケ」「ケーキ」と、今度は順調に進んでいった。
貴教の番が来る。
「き……きつねうどん!」
乃亜が勝ち誇った顔で指をさした。
「『ん』がついた!」
「違う! きつねうどんの最後は、おいしいの『い』!」
「何、その接続方法!」
「食べた感想まで含めたら『い』になる!」
「それを認めたら、何でも続けられるでしょう!」
またしても姉弟げんかが始まった。勝は二人を止めようとしたが、途中から自分までルールの議論へ巻き込まれていった。
「じゃあ、食べた感想は禁止」
「誰が決めたの?」
「お父さんは審判だ」
「お父さんも参加者でしょう!」
「じゃあ、審判はお母さんに――」
勝が言いかけたとき、ホームへ列車の接近を知らせる放送が流れた。
三人は同時に線路の先を見る。
雨の向こうから二つの前照灯が現れ、青い帯をまとった電車が、ぬれたレールの上をゆっくりと近づいてきた。
「お母さんの電車!」
乃亜と貴教はベンチから立ち上がった。
速度を落とした電車がホームへ入り、静かに停車する。ドアが開くと、傘や仕事用のバッグを持った乗客が次々に降りてきた。
その人波の中に、杏子の姿があった。
「お母さーん!」
乃亜と貴教が大きく手を振る。
杏子は声のしたほうを見て、驚いたように目を見開いた。
「えっ、みんな、どうしたの?」
「迎えに来た!」
「雨がすごいから!」
杏子は三人の前まで来ると、うれしそうに笑った。
「わざわざ迎えに来てくれたの? ありがとう〜」
勝は杏子の仕事用バッグを受け取った。
「車で来てるから、これで歩かなくて済む。さあ、帰ろう」
「助かった。今日の雨、本当にすごいから、駅からどうしようかと思ってたの」
四人は改札を出て、傘を寄せ合いながら駐車場へ向かった。
途中、貴教は大きな水たまりを避けようとして横へ飛び、着地した先にあった別の水たまりへ片足を入れた。
ばしゃん。
「うわっ! 靴の中まで入った!」
乃亜が笑う。
「貴教、水たまりを避けて、水たまりに着地してるやん」
「最初の水たまりより小さかったから成功!」
「靴の中までぬれた時点で失敗です」
「水たまりが動いたんだよ」
「動きません」
杏子は三人のやり取りを聞きながら、何度も笑った。
車へ乗り込むと、勝は暖房を少し入れた。窓には細かな雨粒が流れ、ワイパーが忙しく左右へ動き始める。
乃亜は後部座席でスマートフォンを取り出した。
「せっかく雨が降ってるから、雨の歌を歌おう!」
「何を歌うの?」
杏子が尋ねる。
「ファイブピーチ★の『雨の博多慕情』!」
乃亜が曲を選ぶ。
ファイブピーチ★は、美香、光子、優子、奏太、小春の五人で活動する音楽グループである。そのうち光子と優子は、二人組のM&Yとしても活動しており、乃亜はM&Yの大ファンだった。
「やっぱり光子さんと優子さんの歌い出し、いいよね」
乃亜は伴奏に合わせ、二人が歌う部分から口ずさみ始めた。杏子も続き、貴教は覚えているところだけ元気よく加わる。勝も運転に集中しながら、小さな声で歌った。
演歌調の切ない旋律と、後部座席から聞こえる乃亜と貴教の楽しそうな歌声が、雨音の響く車内に広がっていく。
曲を歌い終えると、勝が感心したように言った。
「ファイブピーチ★って、改めてすごいよな。ヘビーメタルからクラシック、演歌、民謡まで、どれを歌わせてもうまいんだから」
杏子もうなずく。
「五人全員、歌唱力が高いもんね。美香さんも光子さんも優子さんも、奏太さんも小春さんも、それぞれ得意な表現があるし」
「楽器もいろいろできるんだよ。小春さんはキーボードがすごいし、美香さんは管楽器もピアノも弾けるんだから」
乃亜が得意げに説明する。
貴教が不思議そうに姉を見た。
「お姉ちゃん、M&Yのファンじゃなかったの?」
「光子さんと優子さんは、ファイブピーチ★のメンバーでもあるの。だからファイブピーチ★の曲を聴くのも、M&Yの活動を追いかけるうちに自然に増えたの」
「なるほど。ファンの範囲が広がったんだ」
「そういうことです」
杏子が笑いながら口を挟んだ。
「でも乃亜、最初に『雨の博多慕情』を聞いたとき、博多の天気予報で流れる曲だと思ってたよね」
車内が一瞬、静かになった。
乃亜は窓の外へ目を向けた。
「……それは、かなり昔の話です」
「先月じゃなかった?」
貴教がすぐに暴露する。
「貴教、余計なこと言わない!」
勝は笑いながら、前方の信号を確認した。
「じゃあ次は、ファイブピーチ★の民謡を歌うか?」
「お父さん、雨の中で民謡まで始めたら、家に着くころには車がコンサート会場になってるよ」
「もう十分、にぎやかだけどな」
再び車内へ笑い声が広がった。
その夜、四人は温かい夕食を囲んだ。杏子は、雨の中を迎えに来てくれた三人へ、もう一度礼を言った。
「ホームでみんなを見つけたとき、本当に驚いた。でも、すごくうれしかったよ」
「待ってる間、しりとりしてたんだよ」
貴教が話すと、杏子が尋ねた。
「誰が勝ったの?」
三人は顔を見合わせた。
「決着がつく前に、お母さんの電車が来た」
乃亜が答える。
「じゃあ、お母さんがしりとりを終わらせたんだな」
「ということは、お母さんの勝ち?」
貴教の言葉に、杏子は笑った。
「お母さん、何も答えてないけど」
「無事に帰ってきたから、今日はお母さんの勝ちでいい」
勝がそう言うと、杏子は少し照れくさそうにうなずいた。
激しい雨の中でも、電車を降りた先に家族が待っている。自分を見つけて笑いながら手を振り、荷物を持ち、同じ車で家へ帰ってくれる。
杏子にとって、その何げない時間は、仕事と遅れた電車の疲れを忘れさせてくれる、温かな「おかえり」だった。
後日、「爆笑通信」には、杏子が投稿した〈雨の日のしりとり大会〉が掲載された。
乗り物しりとりでは「スカイライン」の最後の『ん』を無効にし、食べ物しりとりでは「きつねうどん」を「おいしい」の『い』へつなげようとした小学四年生。途中で規則が増え続けたため、勝者は電車から降りてきただけの母親に決まりました。
それを読んだ光子と優子は、「爆笑裏トーク」で声を上げて笑った。
「貴教くん、自分が負けそうになるたびにルール変えとるやん!」
「最後は何も答えてない杏子さんが優勝! これが一番平和やわ」
さらに、車内で『雨の博多慕情』を家族全員で歌ったという話になると、優子が笑いながら話した。
「横浜の大雨の中で、博多慕情を大合唱。ファイブピーチ★としては、めっちゃありがたいです!」
光子もうなずく。
「今度はM&Yのライブでも、二人で歌ってみたいね」
「でも乃亜ちゃん、これを博多の天気予報の歌と思っとったらしいよ」
「そこまで含めて、かわいいファンやね!」
ラジオの前で、乃亜は顔を赤くした。
「お母さん、その話まで送ったの?」
「面白かったから」
「もう、来月までは天気予報を見ない!」
「それは困るでしょう」
杏子の突っ込みに、斉藤家のリビングはまた笑いに包まれた。
窓の外では、あの日とは違う穏やかな雨が降っていた。
次回予告
港ブルーサンダースの主将・横山紗良が、体調不良で練習を休むことになった。
代わってチームをまとめる役目を任されたのは、六年生の乃亜。
「今日は主将代理として、絶対に笑わせません!」
ところが、気合いを入れて掲げた作戦ボードは、なぜか上下が逆。
次回、第9話「キャプテン代理は笑わせない」。
乃亜、笑わせないと宣言した時点で、みんな少し笑っています。




