お母さん、今日は座ってて
『戻らない日常2 「ただいま」の消えたホーム』
第7話「お母さん、今日は座ってて」
母の日の朝、斉藤杏子が目を覚まして一階へ降りると、リビングの入口に乃亜と貴教が並んで立っていた。
二人とも、なぜか胸の前で腕を組み、杏子が入ってくるのを待ち構えている。
「お母さん、そこで止まって」
乃亜が真剣な顔で右手を上げた。
「どうしたの?」
「今日は母の日です。いつも仕事と家事を頑張っているお母さんには、一日ゆっくり休んでもらいます」
「朝ごはんも洗濯も掃除も、俺たちがやるから!」
貴教も胸を張った。
杏子は二人の顔を交互に見たあと、台所にいる勝へ目を向けた。勝はコーヒーを入れながら、苦笑している。
「二人とも昨日から準備してたんだ。今日は任せてやってくれ」
「本当に大丈夫?」
杏子が尋ねると、乃亜は自信満々に答えた。
「洗濯は私に任せて!」
「じゃあ、俺は朝ごはん!」
「お父さんは?」
「二人の安全管理と、緊急時の対応係」
勝の説明に、杏子は少し不安を覚えた。それでも、子どもたちの気持ちを無駄にしたくはない。言われたとおりソファに腰を下ろし、テレビをつけた。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「今日は立ったら駄目だからね」
「トイレは?」
「それは立っていいよ」
「飲み物を取りに行くのは?」
「私が持ってくる!」
乃亜はそう言い残し、洗濯物の入ったかごを抱えて洗面所へ向かった。
一方、貴教はエプロンを着け、冷蔵庫から卵、ベーコン、レタス、トマトを取り出した。食パンも四枚並べ、朝食作りを始める。
「パンを焼いて、卵焼きを作って、ベーコンも焼く。レタスをちぎって、トマトを添える」
貴教は前日の夜に書いたらしい手順書を、冷蔵庫へ磁石で留めた。
勝が後ろからのぞき込む。
「なかなか立派な計画だな」
「野球と同じだよ。順番を決めておけば大丈夫」
「前回の返球は、予定と違うところに飛んでいったけどな」
「料理は監督の帽子に飛んでいかないから大丈夫」
「フライパンの中身は飛ばすなよ」
貴教は勝に見守られながら卵を割った。一個目はきれいにボウルへ入ったが、二個目は殻まで落ちた。菜箸で取り出そうとするものの、小さな殻は逃げるように卵液の中を動き回る。
「待て! どこ行くんだ!」
「殻に話しかけても止まらないぞ」
勝がスプーンを渡す。貴教はどうにか殻を取り除き、卵を混ぜ始めた。
そのころ乃亜は、洗濯機の前で洗剤の容器を手にしていた。
「四人分だから、これくらいかな」
説明書きを読むより先に、洗剤を投入口へ注ぐ。少ないよりは多いほうがきれいになると思い、さらに少し足した。
「昨日のタオルもあるから、もうちょっと」
投入を終えた乃亜は、ふたを閉じて運転ボタンを押した。
「これでよし。洗濯なんて簡単じゃん」
乃亜は満足して台所へ戻った。
貴教は卵焼きに取りかかっていた。卵液を流すと、ジュッという音が立つ。
「おお、料理してる音!」
「火を強くし過ぎるなよ」
勝に言われ、貴教は少し火を弱めた。卵をどうにか巻き、形は少しいびつながらも皿へ移す。続いてフライパンへベーコンを並べたところで、トースターの音が鳴った。
「パンも焼けた!」
トースターに気を取られているうちに、ベーコンの脂がはね始めた。
パチッ、パチパチッ。
フライパンから、細い煙が上がる。
「あれ?」
貴教は食パンを持ったまま固まった。
「お父さん、煙が出てる」
「火を止めろ。慌てなくていい」
勝は貴教に火を止めさせ、換気扇を強くした。少し焦げたベーコンを別の皿へ移す。
そのにおいに気づいた杏子が、ソファから立ち上がった。
「大丈夫?」
すぐに乃亜がリビングの入口へ走った。
「お母さん、座ってて!」
「でも煙が――」
「ベーコンが少し日焼けしただけ!」
「日焼けという色じゃない気がするけど」
杏子が台所をのぞこうとすると、乃亜と貴教が並んで行く手を塞いだ。
「今日は俺たちが作る日だから」
「お父さんもいるから大丈夫!」
二人に押し戻され、杏子は笑いながらソファへ座り直した。
「分かった。でも本当に危なくなったら、すぐ呼んでね」
「はい!」
返事だけは、二人とも立派だった。
貴教がレタスを手でちぎり、勝に切ってもらったトマトを添えていると、洗面所のほうから聞き慣れない音がした。
ぶくぶく、ぶくぶく。
乃亜が首をかしげる。
「何の音?」
洗面所へ向かった乃亜は、洗濯機を見て動きを止めた。透明な扉の向こうで、泡が隙間なく膨らんでいる。衣類が回っているというより、大量の泡が洗濯槽の中を回っていた。
「お父さーん!」
叫び声を聞き、勝が駆けつける。
「どうした?」
「泡がモコモコになってる!」
「洗剤、どれくらい入れた?」
乃亜は両手で、なんとなく大きな幅を示した。
「これくらい」
「それじゃ分からない」
「きれいになるように、ちょっと多め」
勝は洗剤の容器を持ち上げ、その軽さに眉を寄せた。
「乃亜。この容器、昨日はもっと重かったよな?」
「……今日は洗濯物が多かったから」
「どれくらい入れた?」
「投入口が、もういいですって顔になるくらい」
「洗濯機は顔をしないぞ!」
勝は運転を止め、取扱説明書を確認した。安全に排水してから、洗剤を加えずにすすぎ運転を始める。
ところが、しばらくしても泡はなかなか消えない。
「まだモコモコしてる」
乃亜が扉へ顔を近づける。
「もう一回すすぐぞ」
二回目のすすぎ。それでも泡が残る。
三回目。少し減ったものの、タオルを動かすたびに新しい泡が現れる。
乃亜は洗濯機の前へしゃがみ込み、困り果てた顔で言った。
「泡って、こんなにしぶといの?」
「乃亜がたくさん育てたからな」
「泡を育てた覚えはありません」
リビングにいた杏子が、また立ち上がった。
「私が見ようか?」
「お母さん、座ってて!」
乃亜は洗面所から飛び出し、杏子を再びソファへ座らせる。
「でも、さっきから勝が台所と洗面所を行ったり来たりしてるけど」
「お父さんは緊急対応係だから」
杏子は、台所でベーコンを救出し、洗面所で泡と格闘し、トマトまで切っている勝を見た。
「一番働いてるの、お父さんじゃない?」
「母の日だから、お父さんの日ではないもん」
「それ、理由になってるか?」
勝の声が洗面所から響き、杏子は声を上げて笑った。
その間にも、貴教は朝食の仕上げを続けた。焦げた部分を少し除いたベーコン、形の崩れた卵焼き、ちぎったレタス、勝に切ってもらったトマト、少し濃い色になったトーストを四枚の皿へ分けていく。
「できた!」
貴教は杏子の前へ皿を運んだ。
「お母さん、母の日の朝ごはん」
杏子は皿を見つめた。卵焼きの大きさはばらばらで、ベーコンの端は少し焦げている。それでも、貴教が一生懸命作ったことが伝わってくる。
「すごいやん。全部、貴教が作ったの?」
「お父さんにちょっとだけ助けてもらった」
台所から勝が口を挟む。
「ちょっと、かな」
「火を止めたり、トマト切ったりしただけ!」
「それを手伝ったと言うんだ」
杏子は卵焼きをひと口食べた。少し形は崩れているが、味は優しく、焦げたベーコンも香ばしい。
「美味しい。貴教、上手にできたね」
「本当?」
「うん。朝からこんなに作ってくれて、ありがとう」
貴教は照れくさそうに笑い、杏子の隣へ座った。
乃亜も洗濯機のすすぎが終わるのを待ちながら食卓についた。
「私も、もうすぐ洗濯が終わります」
「何回すすいでるの?」
杏子が尋ねると、乃亜は目をそらした。
「洗濯物の心が納得するまで」
「まだ泡が切れないんでしょ」
「どうして分かったの?」
「さっきから洗濯機がずっと回ってるから」
家族四人で朝食を終えたころ、ようやく洗濯物から泡が出なくなった。乃亜は勝と一緒に洗濯物を取り出し、ベランダへ運んだ。
タオルを広げた乃亜が、鼻を近づける。
「すごくいい香り」
「洗剤を入れ過ぎたからな」
「これなら一週間くらいいい香りが続くかも」
「明日からは、ちゃんと量を測ろうな」
「はい……」
午前中の掃除は、最初から勝の監督つきで行われた。乃亜が掃除機を担当し、貴教が机や棚を拭く。杏子は何度も立ち上がろうとしたが、そのたびに「お母さん、今日は座ってて」と止められた。
昼前になると、乃亜と貴教は杏子の前へ並んだ。それぞれ、後ろに何かを隠している。
「お母さん、これ」
乃亜が差し出したのは、手書きの手紙だった。貴教も、画用紙に描いた家族四人の絵を渡す。
乃亜の手紙には、仕事で疲れて帰ってきても話を聞いてくれること、バスケットボールの試合を応援してくれることへの感謝が書かれていた。
貴教の絵には、野球場で応援する杏子と勝、バスケットボールを持った乃亜、外野でグラブを構える自分が描かれている。紙の上には、大きな文字でこう書かれていた。
〈お母さん、いつもありがとう。ずっと元気でいてね〉
杏子は二人を抱き寄せた。
「ありがとう。お母さん、今日のこと、ずっと忘れないよ」
「洗剤を入れ過ぎたことも?」
乃亜が尋ねると、杏子は笑いながら答えた。
「それも含めて、忘れない」
「ベーコンから煙が出たことも?」
「それも忘れない」
「俺の卵焼きが美味しかったことは?」
「それは絶対に忘れない」
三人が笑い合う横で、勝は台所の片づけと洗濯機周辺の確認を終え、ようやくソファへ腰を下ろした。
「母の日なのに、俺が一番休めなかった気がする」
杏子は隣の席を軽くたたいた。
「お疲れさま。父の日には、私が座らせてあげる」
「子どもたちに任せて?」
勝が聞くと、杏子は泡だらけだった洗濯機と、煙の出たフライパンを思い返した。
「そのときは、私が緊急対応係になるわ」
その週の「フライデー爆笑ラジオカフェ」では、母の日の失敗談を集めた特集が放送された。
杏子が送った〈お母さん、今日は座ってて〉という投稿を、光子が読み上げる。
「小学六年生の娘が洗剤を入れ過ぎ、すすいでもすすいでも泡が切れません。小学四年生の息子は朝食を作り、ベーコンから少し煙が出ました。二人からは『お母さんは座ってて』と言われましたが、父親は台所と洗面所を走り回っていました」
優子が吹き出した。
「お母さんを休ませる作戦で、お父さんが一人だけ大運動会やん!」
「洗濯機では泡祭り、台所では煙祭り!」
「同時開催せんでええのよ!」
放送後の「爆笑裏トーク」では、勝が何往復したのかという話題で盛り上がり、「爆笑通信」には〈母の日・最大の巻き込まれ人物――斉藤勝さん〉という見出しまで載った。
ラジオを聴いていた勝は、ソファの背もたれへ沈み込んだ。
「やっぱり、俺が一番巻き込まれてるじゃないか」
乃亜と貴教は顔を見合わせる。
「お父さん、来年もよろしくね」
「来年は洗剤の量を測ってくれ」
「俺も煙を出さないようにする」
「頼むから今年の反省を一年後まで覚えておいてくれ」
杏子の笑い声が、明るいリビングに響いた。
同じ日の夕方、三上達也は駅前で、カーネーションを持って歩く親子とすれ違った。幼い子どもが母親の手を握り、楽しそうに今日の出来事を話している。
三上は二人の背中を見つめた。
その目に浮かんでいたのは、羨ましさではなかった。自分の不満とは何の関係もない人々の幸福に向けられた、冷たい苛立ちだった。
やがて親子の姿が人波へ消えると、三上も無言で駅の中へ入っていった。
次回予告
夕方から降り始めた強い雨により、京浜東北・根岸線に遅れが発生する。
川崎から帰る杏子を迎えるため、勝、乃亜、貴教は港南台駅へ。しかし、到着までにはまだ時間がかかりそうだった。
「暇だから、しりとりしよう!」
待ち時間を埋めるはずの遊びは、なぜか斉藤家独自のルールによって大混乱へ。
次回、第8話「雨の港南台駅」。
果たして杏子は、三人のしりとりが終わる前に帰ってこられるのでしょうか。




