戻らない日常、その先へ
最終話 第52話「戻らない日常、その先へ」
港南台の空が朝の光に染まり始めた頃、斉藤家の台所では、勝がフライパンと格闘していた。
ベーコンを焼きながら卵を溶き、トースターの残り時間を確認する。以前は杏子が自然にこなしていた朝食の支度も、今では勝の生活の一部になっていた。
「乃亜、貴教! もう七時だぞ!」
二階へ向かって声を上げると、先に乃亜が階段を駆け下りてきた。
「お父さん、うちのバスケットシューズ知らん?」
「昨日、自分で玄関へ置いていただろう」
「ないんよ!」
「その手に持ってる袋は?」
乃亜が右手を見ると、シューズケースをしっかり握っていた。
「あった」
「朝から大丈夫か?」
その直後、貴教がユニフォームの上着を着ながら飛び込んでくる。
「俺のグローブがない!」
「昨日、手入れしていただろう」
「机の上に置いたはずやのにない!」
乃亜がソファを指さした。
「そこで寝てるで」
クッションの上には、貴教のグローブが置かれていた。
「グローブは寝えへんやろ!」
「持ち主がいつもへそ天で寝るから、まねしたんやない?」
「俺のグローブはへそ天してへん!」
朝食を食べ終えた二人が出発しようとすると、今度は勝が声を上げた。
「貴教、帽子を忘れてるぞ! 乃亜、水筒は持ったのか?」
「持った!」
「お父さんこそ、会社の資料、テーブルに置いたままやで」
乃亜に指摘され、勝が慌てて引き返す。二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
「人の忘れ物ばっかり言うからや」
「朝から三人とも何してるんやろな」
玄関を出る前に、三人は仏壇の前へ並んだ。
遺影の杏子は、二十一枚目の家族写真と北海道旅行の写真に囲まれ、変わらない笑顔を見せている。
「お母さん、今日は県の育成練習へ行ってくる。中学生になってから一番きついメニューらしいけど、負けへんから」
「俺は大会でライトを守る。今度はエラーせえへん。たぶん」
「そこは言い切れよ」
勝が笑ったあと、杏子へ向き直る。
「杏子、俺も新しい開発チームへ行ってくるよ」
三人は声をそろえた。
「行ってきます」
返事は聞こえない。それでも、杏子へ声をかけることは、斉藤家の新しい朝の日課になっていた。
乃亜が参加する神奈川県育成選手の練習には、県内各地から選ばれた選手が集まっていた。パスの速さ、守備の切り替え、当たりの強さ、そのすべてが普段の練習より一段上だった。
一対一の練習で何度も抜かれ、乃亜は息を切らしながら膝へ手をつく。それでも顔を上げ、次の相手へ向かって構えた。
「斉藤、休まなくて大丈夫か?」
一緒に選ばれた山下芽衣が声をかける。
「大丈夫。今の動き、もう一回試したい」
「じゃあ、次は私が後ろから声をかける。一人で全部見ようとせんでいいよ」
乃亜はうなずいた。
自分一人が強くなるだけでは、バスケットボールの試合には勝てない。仲間の声を聞き、自分も声を出し、それぞれの得意なプレーをつなげる。乃亜は厳しい練習の中で、夢へ続く道を仲間と一緒に走り始めていた。
横浜リトルファイヤーズの大会では、貴教が先発ライトとしてグラウンドへ立った。
序盤、ライト前へ弾む打球に対し、貴教は迷わず前進した。ボールを捕ると、強く投げたい気持ちを抑え、カットマンの胸を狙う。
送球は正確に届き、走者を二塁で止めた。
「ナイスボール、貴教!」
センターの高橋航平がグローブを上げる。
七回、二点をリードした最後の守備では、ライト後方へ高い打球が上がった。貴教は落下地点から目を離さず、フェンス手前まで走る。
以前なら、おっかなびっくり追いかけていた外野フライだった。
「貴教、後ろ!」
航平の声を聞きながら、貴教は最後の一歩を踏み込み、グローブを伸ばした。
白球が、しっかりと革の中へ収まる。
「アウト!」
試合終了の声が響くと、貴教はボールを握ったまま、仲間たちと喜び合った。
応援席に杏子の姿はない。それでも勝、乃亜、チームメイトの家族たちが拍手を送っていた。
貴教は空を見上げる。
「お母さん、捕ったで」
風がユニフォームの袖を揺らした。
勝もまた、新型車「イモト」の次期開発を担うチームで、新たな仕事を始めていた。
会議室には、北海道を走った「イモト」の記録と、利用者から寄せられた意見が並んでいる。勝は家族旅行で気づいた改善点を説明し、長距離を移動する家族が疲れにくい座席、子供や高齢者が安全に乗り降りできる構造、災害時にも役立つ電源機能などを提案した。
机の端には、二十一枚目の家族写真が飾られている。
同僚の小野寺美咲が、その写真を見て笑った。
「この写真を見るたびに、本当に警報音が聞こえてきそうです」
「次からは、スマートキーを撮影者が預かる仕組みも必要かもしれません」
「それは車の機能ではなく、斉藤家専用の対策ですね」
勝も笑った。
杏子と一緒に完成を目指した車は、北海道を一周し、家族へ新しい思い出を運んでくれた。その経験は、次の車づくりにも確かにつながっていた。
一方、川崎駅では、杉本駅員が京浜東北線ホームに立ち、乗降する人々の様子を確認していた。
ホームドアの向こうへ電車が入り、仕事を終えた人、学校から帰る生徒、買い物袋を持った親子が行き交う。事件のあった場所を通るたび、杉本の胸には今も防げなかったという悔しさがよみがえる。
その感情が完全になくなることはない。
それでも杉本は、一人で抱え込むことをやめていた。違和感を覚えたときは周囲の駅員と共有し、必要なら早い段階で鉄道警察隊へ連絡する。体調を崩した利用者や、不安そうに立ち止まる人にも積極的に声をかけていた。
「お困りですか?」
杉本が尋ねると、乗り換えに迷っていた高齢の女性が顔を上げた。
「港南台へ行きたいんですが、この電車でいいですか?」
「はい。京浜東北・根岸線の大船方面です。乗り場までご案内します」
杉本は女性の歩調に合わせてホームを進んだ。
失われた命を元へ戻すことはできない。それでも今日、この駅を利用する人が無事に家へ帰れるよう見守ることが、自分にできる仕事だった。
事件の負傷者や遺族たちも、それぞれの時間を歩いていた。
新井理央は混雑する駅へ入ると、今も足がすくむことがあった。それでも支援者や家族の力を借りながら、少しずつ電車へ乗る練習を続けている。
佐野幸也は、息子の恵一と一緒に恵美の墓を訪れた。恵一は幼稚園で描いた家族の絵を墓前へ見せ、「お母さん、ぼく、大きくなったよ」と話した。
大川節子のもとには、隆志がかわいがっていた孫たちが集まり、祖父との思い出を語り合っていた。
笑える日があれば、突然涙があふれる日もある。事件前と同じ生活へ戻れた者はいない。それでも、誰もが自分の歩幅で、事件のあとに続く人生を生きようとしていた。
週末の午前中、斉藤家へ来客を知らせるチャイムが鳴った。
玄関の外に立っていたのは、田村陽向と、父の亮介、母の沙織だった。陽向は両手で菓子箱を抱えている。
「こんにちは」
「陽向君、いらっしゃい」
乃亜と貴教も玄関へ駆けてきた。
「久しぶり。元気やった?」
乃亜が尋ねると、陽向は以前より明るい表情でうなずいた。
「うん。学校で友達とサッカーしてる。まだ怖い夢を見ることもあるけど、前より眠れるようになった」
沙織が勝へ頭を下げた。
「陽向が、どうしても杏子さんへ挨拶したいと言いまして……。ご迷惑でなければ、仏壇とお墓へ手を合わせさせていただけないでしょうか」
「もちろんです。杏子も喜ぶと思います」
居間へ入った陽向は、杏子の遺影を見上げた。事件後、斉藤家で見たときには、罪悪感から顔を上げることさえできなかった。しかし今は、しっかりと杏子の笑顔を見つめている。
陽向は菓子箱を仏壇へ供えた。
「これ、僕が好きなお菓子です。杏子さんにも食べてほしくて持ってきました」
田村家の三人と斉藤家の三人は、そろって手を合わせた。
陽向は目を閉じ、静かに語りかける。
「杏子さん、僕を守ってくれて、ありがとうございました。僕、友達と遊んでいます。学校で笑うこともできるようになりました」
一度、言葉が止まる。
「前は、僕だけが生きていてごめんなさいって思っていました。でも、乃亜さんと貴教君と勝さんが、僕は悪くないって何回も言ってくれました。だから今日は、ごめんなさいじゃなくて、ありがとうを言いに来ました」
陽向の頬を涙が伝った。
「僕、これからも生きます。楽しいことがあったら笑います。つらいときは、お父さんやお母さんに話します」
乃亜も涙を浮かべながら、陽向の隣へ座った。
「それでええんよ。お母さんも、陽向君にずっと謝ってほしくて守ったんやないと思う」
貴教もうなずく。
「今度、サッカーしような。俺、野球より下手やけど」
「じゃあ僕が教える」
「おう。でも走る速さは負けへんで」
仏壇への挨拶を終えると、六人は杏子の墓へ向かった。
亮介と沙織が墓石を拭き、供花を生ける。陽向は仏壇へ供えたものと同じ菓子を墓前へ置き、もう一度手を合わせた。
「杏子さん。僕を助けてくれて、ありがとうございました」
風が墓地の木々を揺らす。
陽向はしばらく目を閉じたあと、墓石へ向かってほほ笑んだ。
「今度また来ます。そのときは、学校であった面白いことを話します」
勝は陽向の肩へ手を置いた。
「陽向君が笑って過ごしていることを、杏子は一番喜ぶと思うよ。ただ、杏子に恩を返すために立派な人になろうとしなくていい。失敗しても、泣いてもいい。陽向君の人生を生きてくれたら、それで十分だから」
「はい」
墓参りのあと、子供たちは近くの広場へ向かった。陽向がサッカーボールを蹴り、貴教が追いかけ、乃亜も加わる。
貴教が勢いよく蹴ったボールは、ゴールから大きく右へそれた。
「貴教君、そっちにゴールないよ!」
「野球の送球だけやなく、サッカーでも違う方向へ飛んでいくんやな」
乃亜の突っ込みに、陽向が声を上げて笑った。
亮介と沙織は、その笑顔を見ながら涙を拭いた。
陽向の中から事件の記憶が消えたわけではない。それでも、笑うたびに謝っていた少年は、自分の人生を生きるための一歩を踏み出していた。
その週の「フライデー爆笑ラジオカフェ」へ、乃亜と貴教は久しぶりに連名で投稿した。
爆笑通信の時間、光子が便りを読み上げる。
「横浜市の斉藤乃亜ちゃん、貴教君からです。『最近、斉藤家の朝は再び大混乱です。私は手に持っているバスケットシューズを探し、貴教はソファで寝ているグローブを捜索。お父さんは、私たちの忘れ物を注意した直後に会社の資料を忘れました』」
優子が大笑いする。
「全員、まず自分の手元を確認して!」
「しかもグローブがソファで寝とうって、どういう状態?」
続いて、杏子を守って亡くした少年が家を訪れ、「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」を伝えられたこと、斉藤家も夢へ向かって歩き始めたことが紹介された。
光子は少し涙声になりながら話す。
「悲しいことを忘れたわけやない。それでも、朝から忘れ物をして、スポーツをして、友達と遊んで、家へ帰ってくる。そういう毎日が少しずつ戻ってきたんやね」
優子も静かに続ける。
「杏子さんが投稿してくれた斉藤家の爆笑ネタは、これからも番組の中に残り続けます。そして乃亜ちゃん、貴教君、勝さんの新しい爆笑ネタも、私たちは待っています」
番組の最後に流れたのは、ファイブピーチ★の「雪の約束」だった。
乃亜と貴教は、仏壇の杏子と一緒に聴くように、少しだけ音量を上げた。
翌週の金曜日、斉藤家では久しぶりに、姉弟二人が中心となって夕食を作っていた。
献立はカレーだった。
「今日は辛口やからね」
乃亜がルーを持ち上げると、貴教が中辛の箱を掲げる。
「絶対に中辛。辛口は食べられへん」
「前より大きくなったんやから、辛口に挑戦しなさい」
「年齢と辛さは関係ない!」
勝が二人の間へ入る。
「また七回勝負のじゃんけんをするつもりか?」
「じゃんけん、七回の四戦必勝!」
「その間に鍋を見ろ!」
勝の声で二人が振り返ると、鍋から湯気が勢いよく立ち上っていた。
「焦げる!」
「お姉ちゃん、混ぜて!」
「貴教が火を弱くして!」
杏子がいた頃と同じような大騒ぎが、台所へ戻ってきた。
最終的には鍋を二つに分け、乃亜の辛口と貴教の中辛を作ることで決着した。サツマイモ、玉ねぎ、ニンジンをたっぷり入れたカレーは、どちらも野菜の甘みが溶け込んでいた。
三人は杏子のための小さな器にもカレーを盛り、仏壇へ供える。
「お母さん、今日は焦がしてへんで」
貴教が胸を張ると、乃亜が鍋底を確認する。
「ほんの少しだけ怪しいけどな」
「食べられるなら成功や」
夕食を終えたあと、三人はそれぞれの明日の準備を始めた。
乃亜はバスケットシューズを玄関へ置き、貴教はグローブをかばんの中へしまう。勝も会社の資料を仕事用のバッグへ入れた。
「これで明日は忘れ物なしやな」
乃亜が確認すると、貴教が首をかしげる。
「帽子、どこやったっけ?」
「もう忘れてるやん!」
笑い声が家中へ響いた。
月曜日の夕方、最初に帰宅したのは貴教だった。
玄関を開け、以前なら杏子の返事を待っていた場所で、大きな声を出す。
「ただいま!」
台所で夕食の準備をしていた勝が答える。
「おかえり」
少し遅れて乃亜が帰ってくる。
「ただいま!」
「おかえり、お姉ちゃん」
そのあと勝が買い忘れた牛乳を買いに出掛け、再び玄関を開けた。
「ただいま」
今度は乃亜と貴教が声をそろえる。
「おかえり!」
事件直後、玄関で「ただいま」と言っても、杏子の「おかえり」は聞こえなかった。その静けさに耐えられず、声を出すことさえできない日もあった。
今も杏子の返事は聞こえない。
それでも斉藤家には、互いの帰宅を迎える声がある。仏壇では杏子が笑い、二十枚目と二十一枚目の家族写真が、家族の過去と現在をつないでいた。
翌朝も、港南台の街に朝が来た。
根岸線の電車が駅へ入り、通勤や通学へ向かう人々がそれぞれの一日を始める。勝は「イモト」で会社へ向かい、乃亜は学校とバスケットボールの練習へ、貴教は学校と野球のグラウンドへ向かう。
玄関を出る前、三人はいつものように杏子の遺影へ声をかけた。
「お母さん、行ってきます」
奪われた日常は戻らない。
杏子が再び玄関を開け、「ただいま」と帰ってくる日はない。失われた命も、四人で過ごすはずだった未来も、元の形へ戻すことはできない。
それでも、杏子が生きた時間まで奪われたわけではなかった。
家族で笑った朝、雨の港南台駅で待った夜、姉弟げんかをしながら作ったカレー、バスケットボールと野球の応援、横浜ライブで腹を抱えて笑った時間。そのすべてが、勝、乃亜、貴教の中に残っている。
悲しみを抱えたままでも、人は笑うことができる。
泣きながらでも、新しい夢へ進むことができる。
失った人を忘れなくても、次の朝を迎えていい。
玄関の扉が開き、三人はそれぞれの一日へ歩き出した。
「行ってきます!」
港南台の明るい空の下に、斉藤家の声が響く。
返事の代わりのように、家の中を穏やかな風が通り抜け、杏子の写真のそばに置かれたライブタオルを小さく揺らした。
戻らない日常の、その先へ。
斉藤家四人の物語は、これからも続いていく。
『戻らない日常2』完




