夢の続きを、見せにいく
第51話「夢の続きを、見せにいく」
新学期を迎えた港南中学校で、乃亜のクラスに進路学習の時間が設けられた。
担任から配られた用紙の一番上には、「あなたの将来の夢」という欄がある。周囲の生徒たちが迷いながら書き始めるなか、乃亜は鉛筆を握ったまま、しばらく動けなかった。
以前なら、迷うことなく書けた。
プロのバスケットボール選手になり、日本代表としてオリンピックへ出場する。そして観客席にいる杏子へ、金メダルを見せる。それが乃亜の夢だった。
やがて乃亜は、ゆっくりと文字を書く。
『バスケットボール選手として、オリンピックへ出場する』
書き終えた瞬間、胸の奥が苦しくなった。
夢をかなえたとしても、杏子が観客席に座ることはない。試合後に駆け寄って抱き締めてもらうことも、「乃亜、よう頑張ったな」と褒めてもらうこともできない。
乃亜は書いた文字を見つめたまま、消しゴムへ手を伸ばした。
同じ頃、港南小学校でも、貴教が将来の夢を書く課題に向き合っていた。
『横浜ベイスターズの外野手になって、日本一になる』
そこまで書いた貴教は、鉛筆を止めた。
幼い頃から、杏子へ何度も話してきた夢だった。
――俺がベイスターズの選手になって、お母さんを日本一の外野手のお母さんにする。
そのたびに杏子は笑いながら、「ほな、サイン第一号はお母さんやな」と答えていた。
しかし、たとえ本当にプロ野球選手になっても、杏子へユニフォーム姿を見せることはできない。
放課後、先に帰宅していた乃亜は、食卓で課題の用紙を見つめていた。そこへ貴教が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
ランドセルを置いた貴教は、乃亜の用紙をのぞき込んだ。
「お姉ちゃん、オリンピックって書いたん?」
「一応な。でも、消そうかと思ってる」
「なんで?」
「お母さんに見てもらえへんのに、夢をかなえる意味ってあるんかなと思って」
貴教は自分の課題を食卓へ置いた。
「俺も同じこと考えてた。ベイスターズの選手になっても、お母さんは応援席に来られへん。日本一になっても、見せられへん」
二人は仏壇の杏子へ目を向けた。
杏子を喜ばせたいという思いが、いつの間にか、杏子がいないのなら夢を追う意味もないという迷いに変わっていた。
その週、横浜ブルーサンダース女子中学部の練習後、早川真紀コーチから乃亜へ一枚の案内が渡された。
「神奈川県の育成選手選考会。乃亜を推薦したいと思っている」
「うちをですか?」
「まだ一年生だけど、外からのシュート力だけでなく、最近は周りを見てプレーできるようになってきた。上のレベルを経験する価値はあるよ」
選考会という言葉に胸が高鳴ったものの、乃亜は素直に喜べなかった。
「早川コーチ。夢って、誰のためにかなえるものなんですか?」
早川は乃亜の表情を見て、質問の意味を察した。
「少し長い話をしてもいい?」
早川が話し始めたのは、プロ女子バスケットボール選手・黒川彩芽のことだった。
黒川は中学一年生のとき、母親を突然の事故で亡くしていた。母は娘の試合を欠かさず応援し、将来は一緒にオリンピックを見ることを楽しみにしていたという。
母を失ったあと、黒川は半年近くバスケットボールから離れた。母に見せられないのなら、続けても意味がないと思ったからだった。
「それでも黒川選手は、もう一度コートへ戻った。どうしてだと思う?」
「お母さんのために、オリンピックへ行こうと思ったからですか?」
「最初は、そう考えていたそうだよ。でも、それだけだと苦しくなった。勝てなかったときも、けがをしたときも、お母さんを悲しませた、自分には夢を追う資格がないと、自分を責め続けてしまったから」
早川はボールを乃亜へ渡した。
「黒川選手が気づいたのは、バスケットボールを好きになったのは自分自身だということだった。夢は亡くなった人へ返す借金じゃない。自分の人生のために追いかけていい。そして、夢は一人でかなえるものでもない。仲間や指導者、家族、応援してくれた人たちと一緒に育てていくものなんだよ」
乃亜は手の中のボールを見つめた。
「お母さんのためだけやなくて、うちのために続けてもええんですか?」
「もちろん。乃亜がバスケットボールを好きだから続ける。その姿を杏子さんも応援してくれていたんじゃないかな」
一方、横浜リトルファイヤーズでは、大会の先発メンバーを決める守備テストが発表された。
ライトの座を争う貴教には、外野フライの捕球、ゴロへの対応、返球の正確さが求められる。肩の強さでは誰にも負けないものの、全力で投げようとすると送球がそれる癖は、まだ完全には直っていなかった。
練習後、貴教は大森監督へ尋ねた。
「監督。夢って、お母さんに見せるためにかなえようと思ったらあかんの?」
大森監督はしばらく考え、ベンチへ貴教を座らせた。
「お前、イーサン・ウォーカーというピッチャーを知っているか?」
「アメリカ人の?」
「ああ。今、メジャーリーグで投げている右投手だ」
イーサン・ウォーカーは少年時代、母親を無差別銃撃事件で亡くしていた。母は息子が投手として成長していくことを、誰よりも楽しみにしていたという。
事件後のウォーカーは、母を守れなかったという思いと、野球を楽しむことへの罪悪感を抱え、マウンドへ立てなくなった時期があった。
「ウォーカーも最初は、亡くなった母親のためにメジャーへ行かなければならないと思ったらしい。でも、母親は息子に苦しみ続けてほしくて野球を応援していたわけじゃない。野球を楽しむ息子の姿が好きだったんだと気づいたそうだ」
「でも、夢をかなえても、お母さんには見てもらえへん」
「姿は見えなくても、お前がお母さんから教わったことは消えないだろう。何より、お前は一人で野球をしているのか?」
貴教はグラウンドを見渡した。
キャッチボールをしている高橋航平、道具を片づけるチームメイト、いつも指導してくれるコーチたち。そして試合の日には、勝や乃亜、杏子と親しかった人々が応援へ来てくれる。
「一人やない」
「そうだ。夢は誰か一人のためだけにかなえるものじゃない。自分のためでもあるし、支えてくれた仲間と一緒に追いかけるものだ。お母さんへの思いを力にしてもいい。ただし、お母さんのために絶対に失敗できないなんて、自分を追い詰めるな」
「失敗してもええの?」
「野球で一度も失敗しない選手がいたら、監督が先に弟子入りする」
大森監督は貴教の肩を軽くたたいた。
「大切なのは、失敗したあとに何を考えるかだ。お前のお母さんも、そう教えてくれたんじゃないか?」
貴教は杏子の言葉を思い出した。
――次に失敗しなければいい。ただし、同じことを繰り返さないように考えることが大切やで。
「俺、守備テスト受ける。ライトを取りたい」
「その気持ちで来い。ただし、百パーセントの力でバックネットに投げるなよ」
「八十パーセントで、カットマンの胸に投げる」
「それができたら合格に近づくな」
その夜、勝は二人から将来の夢について相談を受けた。
「お母さんに見せたいと思ってた。でも、お母さんのためだけにかなえようとしたら、失敗するのが怖くなった」
乃亜が話すと、貴教もうなずく。
「俺も、プロになれへんかったら、お母さんとの約束を破ることになるんかなって」
勝は、杏子が残した手帳を本棚から取り出した。予定や家計の記録に交じって、子供たちの何気ない言葉が書き留められている。
ページの間から、一枚の小さなメモが落ちた。
乃亜の夢――プロバスケットボール選手になって、オリンピックへ行く。
貴教の夢――ベイスターズの外野手になって、日本一になる。
かなうかどうかは、今は誰にも分からない。途中で違う夢を見つけてもいい。二人が自分で選んだ道を、最後まで応援する。
最後には、杏子の字でこう書かれていた。
夢を追う二人が、苦しいだけになりませんように。好きなことを、いつまでも好きでいられますように。
乃亜はメモを胸へ抱き、涙を流した。
「お母さん、絶対にオリンピックへ行けって書いてへん」
「夢が変わってもいいって書いてる」
貴教も目を潤ませている。
勝は二人へ語りかけた。
「杏子が応援したかったのは、結果だけじゃない。練習して、失敗して、仲間と笑って、自分で道を選んでいく二人の人生だったんだと思う」
「お父さんは、うちらの夢、応援してくれる?」
「もちろん。ただし、夢をかなえることを杏子への義務にはするな。二人自身が追いかけたいと思う間、思い切り追いかければいい」
乃亜は消しゴムで消しかけていた課題の文字を、もう一度濃く書き直した。
貴教も自分の用紙に、一文を付け加える。
『野球を楽しみ、仲間から信頼される外野手になる』
神奈川県育成選手選考会の日、乃亜は緊張した表情でコートへ立った。
周囲には、各地域から推薦された実力のある選手がそろっている。最初の実戦形式では、自分の力を証明しようとするあまり、乃亜は強引にシュートを打ち、二本続けて外してしまった。
――絶対に選ばれなきゃ。お母さんに、夢の続きを見せるために。
焦りが足を重くする。
そのとき、チームを組んだ二年生の山下芽衣が声をかけた。
「乃亜、一人で決めなくていいよ。うちら、今日だけでもチームやろ?」
その言葉で、早川コーチから聞いた話を思い出した。
夢は一人でかなえるものではない。
次の攻撃で、乃亜は相手の守備を引きつけた。スリーポイントシュートを打てる場面だったが、ゴール下へ走り込んだ芽衣を見つけ、迷わずパスを送る。
芽衣のシュートが決まる。
「ナイスパス!」
その後、乃亜は味方を生かしながら守備でも声を出し、最後には得意のスリーポイントシュートを決めた。
選考会終了後、乃亜の名前は神奈川県育成選手の合格者として読み上げられた。
「斉藤乃亜さん」
名前を呼ばれた瞬間、乃亜は拳を握った。うれしさと同時に、杏子へ抱き締めてもらいたいという寂しさが込み上げる。
それでも、隣にいた芽衣やほかの選手たちが拍手を送ってくれる。観客席では勝と貴教、早川コーチ、横山紗良が喜んでいた。
乃亜は涙を拭き、全員へ頭を下げた。
「ありがとうございます。うち、もっと強くなります」
貴教の守備テストでは、ライト方向へ次々と打球が飛ばされた。
最初の外野フライを確実に捕球し、二本目のゴロには素早く前進する。走者が二塁を回った想定で、貴教はホームへ直接投げたい衝動を抑えた。
百パーセントの力ではなく、八十パーセント。
カットマンの胸へ、正確な送球を返す。
「よし、いい球だ!」
大森監督の声が響く。
最後の打球は、ライト線への大きなフライだった。貴教は落下地点を見極め、フェンス手前でボールをつかんだ。捕球後、すぐに体勢を整え、三塁へ正確な送球を返す。
テストを終えた貴教は、息を切らしながら結果を待った。
「次の大会、ライトは貴教。センターは航平だ」
大森監督から告げられると、貴教と航平は顔を見合わせ、笑顔でグローブを合わせた。
「やったな、貴教」
「航平、絶対に外野抜かせへんで」
「それは相手が決めることや」
「じゃあ、抜かれても追いつく!」
帰宅後、乃亜と貴教は仏壇の前へ座った。
乃亜は育成選手の合格通知を、貴教は大会の先発メンバー表を杏子の遺影へ見せる。
「お母さん、うち、神奈川県の育成選手に選ばれたよ。でも、これで夢がかなったわけやない。ここからもっと練習して、仲間と一緒に強くなるから」
「俺はライトで先発する。今度はちゃんとカットマンの胸に投げられた。お母さんに見せるためだけやなくて、俺が野球を好きやから続ける。でも、お母さんにも、ずっと見ててほしい」
勝は二人の後ろから、杏子の遺影を見つめた。
「杏子。二人は、自分の足で夢の続きを歩き始めたよ」
夢をかなえることだけが、杏子を愛していた証しではない。迷いながらも自分で道を選び、仲間と支え合い、好きなものを好きであり続けること。その毎日の中に、杏子が二人へ残した思いは生きていた。
乃亜と貴教は、母に見せたかった未来を、誰かへの義務ではなく、自分たちの人生として追い始めた。
次回予告
神奈川県育成選手の練習へ向かう乃亜と、大会で先発出場する貴教。勝も新型車「イモト」の次期開発へ向け、新たな仕事を任される。
田村陽向は友達と笑って学校へ通い、事件の負傷者や遺族たちも、それぞれの生活を歩き始めていた。
川崎駅では、杉本駅員がいつものホームに立ち、行き交う人々の安全を見守る。
そして港南台の斉藤家には、再び慌ただしい朝が訪れる。
「貴教、グローブ忘れてる!」
「お姉ちゃんこそ、バスケットシューズ玄関に置いたままやで!」
三人は杏子の遺影へ向かって、「行ってきます」と声をそろえる。
返事は聞こえない。それでも、杏子と過ごした日々は、三人が帰る場所の中に残り続けている。
次回、最終話。第52話「戻らない日常、その先へ」。
奪われた日常は戻らない。それでも斉藤家は、新しい今日を生きていきます。




