完成した家族の車
第49話「完成した家族の車」
横浜郊外にある自動車メーカーの研究開発施設で、新型ファミリーワゴン「イモト」の完成発表会が開かれた。
中央のステージには、深みのある青色に塗装された一台の車が置かれている。流れるような車体のライン、乗り降りしやすい大きなスライドドア、家族の荷物を十分に積み込める荷室。勝が開発責任者として何年も向き合ってきた車が、ついに市販される日を迎えたのである。
発表会には乃亜と貴教も招待されていた。二人は関係者席に並び、壇上へ上がった父の姿を見守っている。
「この車の開発では、移動することだけを目的にするのではなく、車内で交わされる会話や、目的地に着くまでの家族の時間を大切にしました」
勝は落ち着いた声で説明を続けたが、車を見るたびに、試作段階で杏子と交わした会話がよみがえった。
まだ内装が決まっていなかった頃、杏子は乃亜と貴教を試作車へ乗せ、後部座席の使い勝手を確かめていた。
『バスケのボールと野球のグローブ、置く場所が別々にあったほうがええんやない? 一緒に入れたら、絶対どっちが押したとか、つぶしたとかでけんかになるよ』
『お母さん、そんなことでけんかせえへんし』
『貴教が乃亜のボールを枕にして寝る未来が見えるけどな』
『俺、ボールを枕にしても寝られるで』
『ほら、やっぱり』
杏子の意見をもとに、後部座席の下にはスポーツ用品を分けて収納できるスペースが設けられた。ドアの近くには濡れたタオルを掛けられる収納式フックが設けられ、座席の間には子供でも手を伸ばしやすい小物入れが作られている。
一つ一つは、車の性能を大きく変える機能ではない。それでも家族で使う人だからこそ気づける工夫が、完成した車内の随所に残されていた。
発表会が終わると、内装担当の小野寺美咲が勝へ声をかけた。
「完成しましたね、斉藤さん。奥様が提案してくださった収納フックも、正式に採用されました」
「ありがとうございます。杏子にも、完成したところを見せたかったです」
「きっと、どこかで見ていますよ。『ここは私の案やで』って、自慢しているかもしれません」
勝は助手席を見つめながら、小さく笑った。
発表会後、勝には開発責任者として、市販仕様の一台を家族で試乗する機会が与えられた。乃亜と貴教が後部座席へ乗り込み、助手席には杏子の写真が入ったフォトケースを置く。倒れないように固定し、安全ベルトをゆっくりと掛けた。
「お母さんまでシートベルトしてる」
「車に乗るなら、全員着用だ」
「お父さん、そこは開発責任者らしいな」
勝がエンジンを始動すると、静かな音とともに計器類が点灯した。
ところが、勝はなかなか車を動かそうとしなかった。
完成したら、家族四人でこの車に乗って北海道を一周する。その約束を、杏子は楽しみにしていた。帯広で豚丼を食べたい、釧路湿原へ行きたい、富良野の花畑で写真を撮りたいと、旅行雑誌へ付箋を貼っていた。
その約束をかなえるはずだった助手席には、もう杏子本人が座ることはない。
「お父さん?」
乃亜に呼ばれ、勝はハンドルを握り直した。
「この車が完成しても、杏子と北海道へ行く約束は、もうかなわないと思っていたんだ」
「全部同じ形では、かなわんかもしれへん」
乃亜はそう言いながら、バッグから一枚の北海道地図を取り出した。地図には、色の違うペンでいくつもの線が引かれている。
「でも、三人になっても、家族の夢までなくなったわけやないよ」
貴教が地図を前席へ差し出す。
「夏休みに行こう。お母さんの写真も乗せて、この車で北海道を回ろうや」
地図には、港南台から茨城県の大洗港へ向かい、フェリーで苫小牧へ渡る行程が書かれていた。苫小牧から日高地方、帯広、釧路、根室の納沙布岬、知床半島、網走、富良野を巡り、再び苫小牧へ戻る長い道のりだった。
「二人で考えたのか?」
「紗良先輩や美羽、それから野球チームのみんなにも、北海道でおすすめの場所を聞いた」
「大森監督は、北海道まで行くなら野球場を五つは回れって言ってた」
「それを全部入れたら何日あっても足りへんから、却下したけどな」
勝は地図を見つめた。かつて杏子と話した夢が、子供たちの手によって新しい計画へ変わっている。
「分かった。有給休暇を取ろう」
「ほんまに?」
「二人の夏休みに合わせて、北海道へ行こう。三人と――」
勝は助手席の写真へ目を向けた。
「杏子も一緒に、四人で行こう」
夏休みが始まると、斉藤家は旅行の準備を進めた。乃亜は着替えとバスケットボール、貴教はグローブとベイスターズの帽子を荷室へ積み込む。
「北海道旅行に、なんでバスケットボールが必要なん?」
「宿の近くにコートがあったら練習できるやろ。貴教こそ、グローブを持っていって誰と野球するん?」
「北海道の大地とキャッチボールする」
「投げたボール、帰ってこないで」
二人のやり取りを聞きながら、勝は杏子の写真と、杏子が付箋を貼った旅行雑誌を車内の専用ケースへ固定した。
出発の日、三人は仏壇へ手を合わせる。
「杏子、行ってくるよ」
「お母さん、北海道やで。ずっと行きたいって言ってたやろ?」
「忘れ物があっても、途中で取りに戻られへんからな」
貴教の言葉に、乃亜が眉をひそめる。
「それ、自分に言ってるん?」
玄関を出る直前、貴教は何かを思い出して二階へ駆け戻り、充電中だったスマートフォンを持って戻ってきた。
「やっぱり忘れてたやん!」
斉藤家の新しい旅は、いつもどおりのドタバタから始まった。
港南台を出発した「イモト」は首都圏を北上し、茨城県の大洗港へ向かった。夕方、巨大なフェリーが見えてくると、貴教は後部座席の窓へ顔を寄せる。
「これに車ごと乗るん?」
「そうだ。大洗港から苫小牧港まで、海を渡る」
「車が船酔いしたらどうする?」
「その場合は、お父さんが開発責任者として対応してください」
「車より先に貴教が酔うと思うけどな」
車両甲板へ「イモト」を停め、三人は船室へ移動した。出港すると、港の明かりが少しずつ遠ざかり、やがて窓の外には暗い海が広がった。
デッキへ出た乃亜は、潮風を受けながら杏子のフォトケースを胸に抱いた。
「お母さん、北海道まで一緒に行こうな」
翌日、フェリーが苫小牧港へ近づくと、北海道の広大な大地が見えてきた。
最初に向かった日高地方では、海岸沿いの道を走り、牧場で草を食べる馬たちを眺めた。貴教は窓の外を見ながら、一頭の馬を指さす。
「あの馬、俺より足速いやろな」
「比べるまでもないやろ」
「でも、外野の守備範囲なら負けへん」
「馬は外野守らんから」
日高の宿では、地元の食材を使った料理を囲んだ。四人分ではなく三人分の食卓に寂しさを覚えながらも、乃亜は杏子の写真へ料理を見せる。
「お母さん、これ絶対好きやったやろな」
翌日は日高山脈を望みながら帯広へ向かった。広い畑が続く道を走り、目的の豚丼店へ入る。香ばしく焼かれた豚肉が大きな丼いっぱいに盛られていた。
「いただきます!」
貴教は勢いよく食べ始め、あっという間に半分を平らげる。
「ゆっくり食べなさい。誰も取らへんから」
「この豚丼、うますぎる。毎日食べられる」
「三日目くらいで野菜がほしいって言うと思う」
乃亜は杏子の旅行雑誌を開いた。豚丼のページには、杏子の字で「勝は大盛り、子供たちは普通盛り。私は味見させてもらう」と書かれている。
「お母さん、自分では一人前頼まんつもりやったん?」
「みんなから一口ずつもらえば、一番得だと思ったんだろうな」
三人は笑いながら、それぞれの丼から一切れずつ、小皿へ分けるようなしぐさをした。
帯広から釧路へ向かい、釧路湿原を見渡せる場所に立つと、緑に包まれた広大な景色が目の前に広がった。風が草原を渡り、その音以外はほとんど聞こえない。
「横浜と全然違うな」
乃亜がつぶやく。
「お母さん、ここに来たかったんやな」
勝は杏子の写真を取り出し、三人で湿原を背景に記念写真を撮った。
釧路からさらに東へ走り、根室半島の納沙布岬へ向かう。最東端の岬に吹く風は夏でも冷たく、貴教は帽子を押さえながら海を見つめた。
「この向こうにも島があるんやろ?」
「ああ。ここへ来ると、地図の線だけでは分からないことが見えてくるな」
三人は展示施設を見学し、北方領土の歴史や、故郷へ帰れなくなった人々の思いを学んだ。帰りの車内では、いつもより会話が少なくなったが、それは重く沈んだからではなく、それぞれが知ったことを心の中で考えていたからだった。
知床半島では、自然ガイドの説明を聞きながら決められた遊歩道を歩いた。野生動物の暮らす場所へ人間が入らせてもらっていること、食べ物を与えたり勝手に近づいたりしてはいけないことを教わる。
「お父さん、クマが出たらどうする?」
「走って逃げず、ガイドさんの指示に従う」
「俺の強肩でボールを投げて――」
「それは絶対あかん」
乃亜が即座に止めると、ガイドも苦笑した。
知床の海と山を眺めたあとは、オホーツク海沿いを走って網走へ向かった。網走では地域の歴史を伝える施設を見学し、厳しい環境の中で道を切り開いた人々の労苦に触れた。
夜、宿で「フライデー爆笑ラジオカフェ」を聴いていると、斉藤家から送った旅行便りが爆笑通信で紹介された。
新型車で北海道を旅行中の斉藤家です。
日高では貴教が馬に外野の守備範囲で対抗し、帯広では豚丼を五分で完食。納沙布岬では強風に帽子を飛ばされかけ、知床ではクマへ送球しようとして姉に止められました。
現在のところ、最も危険なのは野生動物ではなく、貴教の発想です。
光子の大笑いする声がラジオから聞こえる。
「クマに送球したら、そのままボール持って帰られるよ!」
優子も続ける。
「いや、クマがレーザービームで返球してきたらどうすると!」
「それはもう、横浜リトルファイヤーズにスカウトせな!」
貴教は布団の上で笑いながら転がった。
「俺、そこまで言ってない!」
「だいたい同じこと言ってたやろ」
放送の裏トークでは、光子と優子が北海道で食べたいものを巡って、海鮮かラーメンかで言い争いを始め、最後には美香から「両方食べればいい」と一言で解決されていた。
杏子と一緒に聴いていた頃と変わらない笑い声が、北海道の宿にも広がった。
網走から内陸へ進み、旅の終盤には富良野を訪れた。夏の花畑には紫や白、黄色の花が帯のように咲き、遠くには山々が連なっている。
杏子の旅行雑誌には、富良野のページへ大きな丸が付けられていた。
『ここで四人の写真を撮る。絶対』
勝はその文字を指でなぞった。
「約束、かなえようか」
三人は近くにいた旅行者へ撮影を頼み、花畑を背景に並んだ。乃亜が杏子の写真を胸の前で持ち、貴教は限定タオルを広げ、勝が二人の肩へ手を置く。
シャッターが切られる直前、風が吹き、貴教の帽子が浮き上がった。
「あっ!」
貴教が帽子を押さえ、乃亜が吹き出し、勝もつられて笑う。その瞬間に撮影された写真には、きれいに並んだ笑顔ではなく、驚きと爆笑が入り交じった斉藤家らしい姿が写っていた。
「お母さんがおったら、『普通に撮られへんの?』って言うやろな」
「前の家族写真も二十枚かかったからな」
「今回は一枚で決まったやん」
「帽子が飛びかけてるけどな」
富良野から苫小牧へ戻り、三人は再びフェリーへ乗り込んだ。車両甲板で「イモト」の走行距離を確認した勝は、長い道のりを無事に走り切った車体へ静かに手を触れた。
「杏子。君が考えてくれた車で、北海道を一周できたよ」
帰りの船室で、乃亜と貴教は旅行中に撮影した写真を見返していた。どの写真にも杏子のフォトケースがあり、三人の会話の中にも杏子の名前があった。
「お母さん、ほんまに一緒に来てたみたいやな」
「一緒に来たんだよ」
勝は迷わず答えた。
大洗港へ到着すると、「イモト」は港南台へ向かって最後の道を走った。自宅へ着いた頃には日が暮れていたが、三人は荷物を降ろす前に仏壇の前へ集まった。
乃亜が富良野で撮影した写真を遺影の横へ置く。
「お母さん、ただいま。北海道、めっちゃ楽しかったよ」
貴教も大きくうなずく。
「豚丼もうまかったし、馬も速かったし、クマにはボール投げてへんから安心して」
勝は杏子の旅行雑誌を閉じ、表紙を優しく撫でた。
「四人の夢、かなえられたな」
旅に出る前、勝は、三人で北海道へ行くことが杏子との約束を変えてしまうように感じていた。しかし、夢は誰かが欠けたから消えるのではない。残された者が思いを受け継ぎ、新しい形で歩き出すこともできる。
完成した家族の車は、杏子を過去へ置き去りにするためではなく、その思い出とともに未来へ進むため、斉藤家を乗せて走り始めていた。
次回予告
北海道旅行の写真を整理する斉藤家。
日高の馬、帯広の豚丼、釧路湿原、納沙布岬、知床、網走、そして富良野の花畑。どの写真にも、三人と杏子の思い出が残されていた。
乃亜は、町内会の広報誌に掲載された、かつての家族写真を見つける。それは二十回目の撮影で、ようやく全員が笑った一枚だった。
「今のうちらも、家族写真を撮ってええんかな」
三人だけで写ることへの迷いを抱く乃亜。すると貴教は、杏子の写真と北海道の限定タオルを持ち出す。
「三人だけやない。次も四人で撮るんや」
しかし、セルフタイマーを押した直後、貴教の帽子が風に飛ばされ、新型車の警報音まで鳴り始める。
次回、第50話「二十一枚目の家族写真」。
斉藤家らしい新しい一枚を、カメラは捉えることができるのでしょうか。




