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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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楽しかったよ、お母さん

第48話「楽しかったよ、お母さん」


横浜ライブから一夜明けた朝、斉藤家の居間には、前回のライブ翌日とよく似た光景が広がっていた。


乃亜は声をからし、貴教はソファの上で大の字になり、勝は腰へ手を当てながら、ゆっくりと椅子に座る。


「お父さん、やっぱり筋肉痛やん」


かすれた声で乃亜が指摘すると、勝は平然とした表情を作った。


「筋肉痛じゃない。ライブの余韻だ」


「余韻が腰に集中することある?」


「人によって余韻の残る場所は違うんだ」


「俺は全身に余韻が残ってる……」


貴教がソファから起き上がろうとするものの、腹筋に力を入れた瞬間、顔をしかめて元の姿勢へ戻ってしまう。


「お姉ちゃん、起こして」


「自分で起きなさい」


「体が言うことを聞かん」


「ライブ中、飛び跳ね過ぎたんやろ」


「光子さんが跳べって言ったから、言われたとおりにしただけや」


「限度というものがあるやろ」


乃亜は笑いながらスマートフォンを構え、へそを上に向けて寝転がる貴教を撮影した。


「また撮ったな!」


「大丈夫。フライデー爆笑ラジオカフェに送るだけやから」


「全然大丈夫やない!」


にぎやかな声が居間に響く。その中心には三人しかいなかったが、仏壇の遺影に写る杏子も、いつもの笑顔で家族を見つめていた。


朝食を済ませた三人は、横浜ライブの限定タオルとリストバンド、そして会場前で撮影した四人の写真を持って、杏子の墓を訪れた。


墓石をきれいに拭き、花と杏子が好きだった菓子を供える。乃亜は写真を墓前へ置くと、昨日のライブについて話し始めた。


「お母さん、一曲目は『鋼の魂』やったよ。優子さんのツーバス、前より速くなってた気がする。光子さんのベースも、お腹の奥まで響いてきた」


「スティックが自主的に休憩へ入ったっていう話もしてた。俺、笑い過ぎて腹筋が痛い」


「貴教は最初から最後まで跳び続けてたよ。今朝は一人で起き上がれなかったけどな」


勝が付け加えると、貴教が頬を膨らませる。


「お父さんだって腰を押さえてたやん」


「だから、あれはライブの余韻だ」


三人の笑い声が、静かな墓地に柔らかく広がった。


乃亜は杏子の名前が刻まれた墓石を見つめる。楽しかったことを報告するために来たはずなのに、その言葉を口にしようとすると、胸の奥に小さな痛みが生まれた。


「お母さん、うちら、ちゃんと楽しめたよ」


そう伝えたあと、乃亜はしばらく黙り込み、やがて震える声で続けた。


「でもな、楽しかったって言うたら、お母さんを置いて先へ行くみたいで、少し怖かった。うちらだけ笑って、お母さんのことを忘れてしまうみたいで……」


貴教も墓石へ目を向けた。


「俺も、ライブで笑ったあと、一瞬だけ悪いことした気持ちになった。お母さんはもうライブへ行かれへんのに、俺らだけ楽しんでええんかなって」


勝は二人の肩を抱いた。


「お父さんも同じことを考えたよ。昨日、会場へ入るとき、杏子と一緒に来た前回のライブを思い出して、足が止まりそうになった」


「お父さんも?」


「ああ。でも、笑うことと忘れることは同じじゃない。昨日、三人が笑ったときも、ずっと杏子のことを考えていた。お母さんなら何て突っ込むかな、どの曲で喜ぶかなって。杏子を忘れたから楽しめたんじゃない。杏子と過ごした時間があるから、楽しめたんだと思う」


乃亜は墓石へ手を触れた。


「それでも、怖くなるときがあるんよ」


「怖くなってもいい。昨日は笑えても、今日は泣くかもしれない。それも全部、杏子を大切に思っているからだよ」


帰宅後、勝は杏子のスマートフォンを取り出した。警察から返還されたあと、写真や動画を別の端末へ保存していたが、数があまりにも多く、すべてを詳しく確認できたわけではなかった。


「前回のライブの日付で探してみよう」


四人で撮影した写真、会場へ向かう電車の中で居眠りする貴教、入場前から興奮して落ち着かない乃亜、スタジアム料理を食べる勝。杏子のスマートフォンには、家族が気づかないうちに撮影された何気ない姿が数多く残されていた。


その中に、ライブから帰宅した深夜に撮られた一本の動画があった。


画面に現れたのは、寝室で小声を出している杏子だった。ライブタオルを肩に掛けたまま、髪は少し乱れ、笑い疲れた表情をしている。


『ただいま、横浜ライブから帰ってきました。現在、午前零時十二分です』


杏子は声を抑えながら笑う。


『勝はお風呂。乃亜と貴教は、あれだけ興奮しとったのに、もう寝ました。貴教なんて布団に入って三分でへそ天です。いや、二分半かな』


貴教が画面を指さす。


「この頃から二分半って言われてたんや!」


「そこに反応するん?」


乃亜は涙を浮かべながら笑った。


動画の中の杏子は、ライブの感想を楽しそうに話し続ける。


『今日はほんまに楽しかった。ヘビメタで飛び跳ねて、ギャグコントで笑い過ぎて、今もう腹筋が痛いです。明日、整骨院に行くまでがワンセットです』


前回のライブ翌朝、杏子が家族へ話したのと同じ冗談だった。


やがて杏子は少し穏やかな表情になり、眠っている子供たちがいる部屋のほうへ目を向けた。


『乃亜も貴教も、いつか大きくなったら、親とライブへ行くのは恥ずかしいって言う日が来るかもしれんな。でも、好きな音楽はずっと大切にしてほしい。勉強や仕事で大変なことがあっても、好きな曲を聴いて、思いっきり笑って、楽しめるときは楽しんでほしい』


動画を見ていた乃亜の頬を、涙が伝った。


杏子は、自分がいなくなる未来を予感していたわけではない。ただ、大きくなっていく子供たちへ、いつか見せようと思って残した、ありふれた母親の言葉だった。


『人生は一回しかないんやから、泣きたいときは泣いて、笑えるときは思いっきり笑わな損やで。というわけで、次のライブも家族四人で参加します。これは決定事項です。異議申し立ては認めません』


そこで浴室のほうから勝の声が聞こえた。


『杏子、タオルどこにある?』


画面の杏子が、あきれた顔をする。


『もう、目の前にあるやろ!』


慌てて立ち上がったところで、動画は終わっていた。


しばらく、三人は何も言えなかった。


最初に口を開いたのは貴教だった。


「お父さん、昔からタオル見つけられへんかったんやな」


「そこは今、重要なところじゃないだろ」


「でも、お母さんらしい」


乃亜が涙を拭いながら笑う。


「うちらがライブへ行ったこと、お母さんは怒ってないかな」


「怒るどころか、申し込まなかったら怒られていたかもしれないな」


勝は動画の最後に映る杏子の笑顔を一時停止し、しばらく見つめた。


「杏子。昨日も、ちゃんと四人で行ったよ」


その夜、乃亜は不思議な夢を見た。


雲とも霧とも分からない白い空間の向こうに、杏子が立っていた。事件の日のような白いブラウスではなく、横浜ライブで着ていた明るい色の服を身にまとい、限定タオルを肩に掛けている。


「お母さん……」


乃亜が駆け寄ろうとしても、足が思うように動かない。


「ごめんな。うちらだけライブを楽しんで」


杏子は首を横に振り、いつもの優しい笑顔を見せた。


「楽しんでいいよ。私のことで、勝や乃亜や貴教が笑うことも、楽しいことも、我慢する必要ないからね」


「でも、うちが楽しいことを増やしたら、お母さんとの思い出が少しずつ遠くなりそうで怖い」


「遠くならへんよ。新しい思い出が増えても、私と過ごした時間が消えることはない。乃亜の中にも、貴教の中にも、お父さんの中にも、私はちゃんとおるから」


杏子は乃亜の頬へ手を伸ばした。そのぬくもりを感じた気がして、乃亜は目を閉じる。


「今からの人生、たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん楽しんで。一回しかない人生なんやから、乃亜が大好きなことを大切にして生きて」


「お母さん、うち、もっと話したい。まだ行かんといて」


「大丈夫。また思い出してくれたら、いつでも会えるよ」


杏子の姿が、少しずつ白い光と霧に包まれていく。


「お母さん!」


伸ばした乃亜の手が杏子へ届く直前、目の前が真っ白になった。


乃亜が目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。


枕元には、前日のライブで持っていった杏子のフォトケースが置かれている。夢だったと分かっても、杏子の声と、頬へ触れた感覚は残っていた。


「お母さん、ありがとう」


頬を一筋の涙が流れた。しかし、それは悲しみだけの涙ではなかった。


乃亜はベッドから起き上がり、カーテンを開ける。新しい朝の光が部屋いっぱいに広がった。


台所へ行くと、勝が朝食を作り、貴教が椅子に座ったまま再び眠りかけていた。


「おはよう」


乃亜が声をかけると、勝が振り返る。


「おはよう。よく眠れたか?」


「うん。お母さんに会えた」


勝は一瞬驚いたものの、詳しく聞こうとはせず、優しくほほ笑んだ。


「そうか」


「楽しんでいいって言われた。たくさん笑って、泣いて、楽しんでって」


貴教が眠そうな目を開ける。


「お母さん、俺には何か言ってなかった?」


「早く起きなさいって」


「夢の中でも?」


「たぶん、お母さんなら絶対言う」


三人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


仏壇の杏子も、その笑い声の中で一緒に笑っているように見えた。


杏子を失った悲しみが消える日は、おそらく来ない。それでも斉藤家は、悲しみのために人生のすべてを止めるのではなく、泣きながらでも新しい喜びへ手を伸ばしていく。


それは杏子を置いて先へ進むことではない。


杏子との思い出を抱き締めたまま、三人がそれぞれの人生を生きていくということだった。


次回予告


勝が開発責任者を務めてきた新型車「イモト」が、ついに完成発表の日を迎える。


家族で乗ることを想定して設計された車内には、杏子が試作段階で提案した小さな工夫も残されていた。


「この車が完成したら、みんなで北海道を一周しよう」


かつて交わした約束を思い出し、完成を喜ぶことができない勝。そんな父へ、乃亜と貴教は一枚の地図を差し出す。


「三人になっても、家族の夢までなくなったわけやないよ」


助手席に杏子の写真を乗せ、新しい車が初めて走り出す。


次回、第49話「完成した家族の車」。


四人でかなえようとした夢は、形を変えて未来へ走り始めます。

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