四人で、もう一度
第47話「四人で、もう一度」
金曜日の夜、斉藤家の居間には「フライデー爆笑ラジオカフェ」の明るいテーマ曲が流れていた。
乃亜は学校の課題を広げ、貴教はグローブの手入れをし、勝はコーヒーを飲みながら放送を聴いている。仏壇の前には杏子の遺影と、家族四人で参加した横浜ライブの限定タオルが飾られていた。
番組の終盤、光子がいつもより弾んだ声で告知を始める。
「ここで、M&Y、そしてファイブピーチ★から大切なお知らせです!」
優子がドラムロールを口で再現し、光子から「そこ、本物のドラマーなんやから口でやらんで!」と突っ込まれる。
「ファイブピーチ★、横浜アリーナ公演が決定しました!」
スピーカーから歓声と拍手の効果音が流れた。
乃亜は反射的に立ち上がった。
「横浜アリーナ! 行きたい!」
しかし、その表情はすぐに曇った。
前回の横浜ライブは、杏子がまだ隣にいた。家族四人で港南台駅から電車に乗り、車内で貴教の間違った歌詞に笑い、開演前には会場の料理を食べた。杏子はギャグコントで腹筋を押さえ、帰り道でもライブの感想を楽しそうに話していた。
そして、その翌日から日常の陰に黒田慎吾の存在が現れ、やがて杏子は帰らぬ人となった。
乃亜は申し込み方法を読み上げる光子の声を聞きながら、静かに座り直した。
「お母さんがおらんのに、うちらだけ楽しんでもええんかな」
勝もすぐには答えられなかった。楽しかった記憶をたどれば、その先に必ず事件が待っている。三人にとって、横浜ライブは幸福な思い出であると同時に、戻らない日常の最後を象徴する場所でもあった。
そのとき、貴教が仏壇の前へ行き、限定タオルとリストバンドを手に取った。
「お母さんの写真も、このタオルも持っていこう。今度も四人で行けばええやん」
「でも、お母さんは……」
「お母さんが好きやった曲を、俺らが聴いたらあかんの? お母さん、そんなことで怒らんと思う。むしろ、なんで申し込まんかったんって突っ込まれるやろ」
乃亜の脳裏に、杏子の声がよみがえる。
――迷ってる間に先行受付が終わるやん。早く申し込みなさい。
乃亜は涙を拭いながら、少しだけ笑った。
「絶対、そう言うな」
「杏子は三人が笑わなくなることを望んでいないと思う。ただ、無理をして行く必要もない。二人は本当に行きたいか?」
勝の問いに、乃亜は遺影を見つめた。
怖さはある。思い出して泣いてしまうかもしれない。それでも、M&Yとファイブピーチ★の音楽が好きだという気持ちは、事件の前から何も変わっていなかった。
「うち、行きたい。やっぱり、好きなライブに行きたい。好きな音楽を、もう一回会場で聴きたい」
「俺も行く。今度こそ歌詞を間違えんように覚える」
「それは期待せんほうがよさそうやな」
勝は笑いながら、申し込み画面を開いた。
家族三人分の名前を入力し、最後に乃亜が申し込みボタンを押す。
「お母さん、当ててよ」
貴教が遺影に向かって両手を合わせる。
「チケットの神様みたいに頼むな」
抽選結果が発表される日の午後六時、三人は前回と同じように一台のスマートフォンを囲んでいた。
「まだ開かんの?」
「午後六時になったばかりや。貴教、十秒ごとに聞かんといて」
「乃亜も五時五十分から一分ごとに時計見てたやん」
「二人とも、まず深呼吸しよう」
勝が結果確認のボタンを押す。画面が切り替わるまでの数秒が、異様なほど長く感じられた。
最初に表示された文字を読んだ乃亜が、両手で口を覆った。
「当選……」
次の瞬間、乃亜と貴教の歓声が居間に響き渡った。
「当たった!」
「お母さん、当ててくれた!」
勝は二人の喜ぶ姿を見ながら、遺影の杏子へ目を向けた。
「また四人で行けるな」
ライブ当日、乃亜は杏子の写真が入った小さなフォトケースをバッグへ入れた。貴教は限定タオルを首に掛け、前回のリストバンドを大切そうに手首へ着ける。
勝が玄関で確認する。
「チケットは?」
「持った!」
「スマートフォンは?」
「持った!」
「タオルは?」
「ここ!」
「歌詞は?」
「完璧!」
貴教が自信満々に答えると、乃亜が疑いの目を向けた。
「“未来”を“ミートパイ”って歌った人の完璧は信用できへん」
「今回は未来もミートパイも両方覚えた!」
「ミートパイのほうは忘れてええねん!」
三人の笑い声が玄関に広がる。仏壇へ向き直った勝は、杏子の遺影に声をかけた。
「杏子、行ってくるよ」
「お母さん、一緒にはちゃけような」
三人は港南台駅から根岸線に乗り、横浜駅で乗り換えて新横浜へ向かった。車内にはライブグッズを身に着けた人が増え、駅へ近づくにつれて、期待に満ちた声があちこちから聞こえてくる。
横浜アリーナの前へ到着すると、乃亜はしばらく建物を見上げた。
前回、ここには杏子がいた。
同じ場所で家族写真を撮り、杏子が「今日は笑い過ぎて、明日整骨院に行くまでがワンセットや」と冗談を言っていた。その記憶が鮮明によみがえり、乃亜の目に涙が浮かぶ。
「入れそうか?」
勝が尋ねると、乃亜は杏子のフォトケースを握った。
「大丈夫。泣いてもええんやろ?」
「もちろんや」
「笑ってもええ?」
「それも、もちろんや」
三人は同じ場所で写真を撮った。勝と乃亜と貴教、そして乃亜が胸元に掲げた杏子の写真。人数は三人でも、家族写真には四人が写っていた。
手荷物検査を終えて会場へ入り、座席に着く。開演を待つ観客の声が大きな波のように広がっていた。乃亜は隣の空間に杏子のタオルを置く代わりに、自分の膝の上でしっかり握った。
やがて照明が落ち、会場全体が静寂に包まれた。
ステージ中央へ、美香、光子、優子、奏太、小春の五人が姿を見せる。しかし、すぐには演奏を始めなかった。
美香がマイクの前へ進む。
「今日、私たちがここで音楽を届ける前に、皆さんへお願いがあります」
明るかった会場の空気が、静かに引き締まっていく。
「一年前、川崎駅で、多くの方々が巻き込まれる事件が起きました。突然命を奪われた方々、心と体に傷を負った方々、そして今も深い悲しみや苦しみの中にいるご家族がいます」
乃亜は杏子のタオルを握る手に力を込めた。貴教は膝の上で拳を握り、勝は杏子の写真へそっと手を添えた。
「亡くなられた方々へ哀悼の意を表し、傷を負われた方々の回復と、事件によって傷ついたすべての方々の心に穏やかな時間が戻ることを願って、黙祷を捧げたいと思います」
美香が頭を下げ、四人のメンバーも続いた。
横浜アリーナに集まった観客が、一斉に立ち上がって目を閉じる。
先ほどまで歓声に満ちていた会場から、音が消えた。
乃亜の心には、杏子と過ごした日々が次々と浮かんだ。朝の台所、港南台駅での「行ってらっしゃい」、バスケットボールの応援席、家族で作ったカレー、そして前回の横浜ライブで見せた笑顔。
――お母さん、また来たよ。
貴教は心の中で語りかける。
――俺、野球続けてるよ。ヒットも打ったし、年下の子にキャッチボールも教えたよ。
勝は写真の中の杏子を見つめた。
――君がいないことには、今も慣れない。それでも、三人でここまで来たよ。
黙祷が終わり、美香がゆっくり顔を上げた。
「ありがとうございました。悲しみを忘れるためではなく、大切な人を忘れずに生きていくために、私たちは今日も音楽を届けます」
美香が一歩下がると、光子がベースを構えた。奏太がギターの音を確かめ、小春がキーボードへ両手を置く。
光子が会場を見渡し、力強く叫ぶ。
「ここから一気に火力を上げていくよ! 横浜、準備はできとうね!」
客席から割れんばかりの歓声が上がる。
ドラムセットの前で優子がスティックを高く掲げた。
「ワン、ツー! ワン、ツー、スリー、フォー!」
激しいツーバスとギターが一斉に鳴り響き、ヘビーメタルナンバー「鋼の魂」が始まった。
光子のベースが腹の底を揺らし、優子の高速ビートが会場を駆け抜ける。奏太のギターが鋭い旋律を刻み、小春のキーボードが重厚な音の層を作る。美香の力強い歌声が、横浜アリーナ全体を包み込んだ。
乃亜は涙を流しながら、杏子のタオルを頭上に掲げた。
「お母さん! 一緒に聴こう!」
貴教も拳を突き上げる。
「うおおおっ!」
一曲目が終わる頃には、三人の胸にあったためらいは、音楽の熱へと変わっていた。
ライブは、激しいロックナンバーから、小春のピアノを中心としたバラード、美香のトロンボーンが響く楽曲へと続いた。中盤では「博多雨慕情」が披露され、乃亜は雨の港南台駅で杏子を迎えた夜を思い出した。
悲しいだけの記憶ではなかった。雨の中で家族三人がしりとりをし、帰ってきた杏子が驚きながら「迎えに来てくれたん?」と笑った、大切な一日だった。
MCでは、光子と優子がいつもの調子を取り戻す。
「さっき優子が楽屋で、“今日は絶対にスティックを飛ばさん”って宣言したんよ」
「まだ一本も飛ばしてないやろ!」
「ライブ始まって二曲目で、後ろに一本落としたやん」
「あれは飛ばしたんやなくて、スティックが自主的に休憩へ入ったと!」
「働き方改革を導入するスティック、初めて聞いたわ!」
会場が笑いに包まれた。
乃亜は腹を抱え、貴教は座席の背もたれに寄りかかる。
「もう無理、腹筋痛い!」
「お姉ちゃん、明日整骨院やな!」
その言葉を聞いた乃亜は、一瞬だけ目を見開いた。それは前回、杏子が口にした冗談と同じだった。
けれど今度は、涙を流しながら笑った。
「お母さんも今、絶対笑ってる」
アンコールでは「雪の約束」のイントロが流れた。乃亜は杏子の写真を胸元に掲げ、勝と貴教も肩を寄せ合った。
悲しみは消えていない。杏子がいない現実も変わらない。それでも、三人は杏子と好きだった音楽を、事件に奪わせなかった。
最後の音が鳴り終わると、美香が観客へ語りかけた。
「今日、ここへ来るまでに、いろいろな思いを抱えていた方もいると思います。泣いた人も、笑った人も、声を上げた人も、静かに聴いていた人も、全員が今日のライブを作った仲間です。帰り道、どうか大切な人へ『楽しかった』と伝えてください」
会場を出た三人は、夜の横浜アリーナを背に、もう一度写真を撮った。
乃亜は杏子の写真へ話しかける。
「お母さん、今日のライブ、めっちゃ楽しかったよ。お母さんがおらんから楽しんだんやない。お母さんと一緒に好きになった音楽やから、これからも聴き続けるんや」
貴教も限定タオルを掲げた。
「次のライブも四人で行こうな」
帰りの電車では、三人がそれぞれ印象に残った曲を語り合った。やがて疲れ切った貴教が座席で眠り、勝の肩へ頭を預ける。
「ライブ始まる前は、あんなに元気やったのに」
乃亜が笑いながら、スマートフォンで寝顔を撮影する。
「あとで見せたら怒るぞ」
「それまでがワンセットや」
港南台駅へ着くと、三人は夜風の中を並んで歩いた。勝が杏子の写真を持ち、乃亜と貴教が限定タオルの両端を握っている。
以前と同じ四人には戻れない。
それでも杏子と過ごした時間は、悲劇の中だけに閉じ込められたものではない。音楽を聴けばよみがえる笑顔があり、冗談を思い出せば三人で笑える夜がある。
斉藤家は杏子を置き去りにするのではなく、その思い出を抱えて、もう一度好きな場所へ帰ってきた。
次回予告
横浜ライブから一夜明け、乃亜は声をからし、貴教は全身を筋肉痛にし、勝は「ライブの余韻だ」と言い張りながら腰を押さえていた。
三人は杏子の墓前を訪れ、ライブで演奏された曲や、光子と優子の爆笑トークについて報告する。
「お母さん、うちら、ちゃんと楽しめたよ」
しかし、乃亜は最後まで胸の中に残していた思いを打ち明ける。
「楽しかったって言うたら、お母さんを置いて先へ行くみたいで、少し怖かった」
その言葉を聞いた勝は、杏子が残したスマートフォンの中から、前回のライブ直後に撮影された一本の動画を見つける。
次回、第48話「楽しかったよ、お母さん」。
画面の中で笑う杏子は、未来の三人へ何を残していたのでしょうか。




