守られた命の一歩
第46話「守られた命の一歩」
事件から一年の追悼を終えた数日後、斉藤家の郵便受けに一通の封筒が届いた。
差出人は、田村陽向。杏子が事件の最後に守った少年だった。
勝が静かに封を開く。便箋には、まだ幼さの残る文字が一つ一つ丁寧に並んでいた。
杏子さんへ。
あのとき、僕を守ってくれて、ありがとうございました。
僕は学校へ行って、友達と遊んでいます。でも、楽しくなると、杏子さんはもう笑えないのに、僕だけ笑っていいのかなと思います。
僕が転ばなければ、杏子さんは死ななかったかもしれません。
僕だけが生きていて、ごめんなさい。
読み終えた勝は、便箋を持ったまま目を閉じた。
乃亜は唇をかみ、貴教はうつむいたまま拳を握る。
「陽向くん、まだ自分が悪いと思ってるんや……」
「もう一回、会おう」
貴教の言葉に、乃亜も強くうなずいた。
数日後、三人は田村家と地域の相談施設で顔を合わせた。陽向は両親の亮介と沙織の間に座り、斉藤家を見ても、すぐには顔を上げられなかった。
「ごめんなさい」
陽向が最初に口にしたのは、やはり謝罪だった。
乃亜は陽向と目線の高さを合わせるように、椅子の前でしゃがんだ。
「陽向くん。転んだことも、逃げたことも、助けてもらったことも、何も悪くないよ。陽向くんが責任を感じる必要はないんやで」
「でも、僕がいなかったら……」
「悪いのは、包丁を持って人を襲った犯人だけや」
貴教も隣に座る。
「お母さんは、陽向くんに笑ってほしくないから守ったんやない。助かってほしかったから守ったんやと思う。だから、遊んでもええし、おいしいものを食べてもええ。学校で笑ってもええんやで」
勝は、陽向だけでなく、その両親にも向かって語りかけた。
「陽向君の人生は、杏子への借りを返すためにあるのではありません。杏子が守ったから立派な人間にならなければならない、そんな重荷も背負わなくていい。泣いたり、失敗したり、ときには何もしたくなくなったりしてもいいんです。陽向君の人生は、陽向君自身のものです」
陽向の目から、大粒の涙がこぼれた。
「僕、また友達とサッカーしてもいい?」
「もちろん」
乃亜が答えると、貴教も笑った。
「今度、俺とも遊ぼう。野球でもサッカーでもええで。サッカーはあんまり自信ないけど」
「貴教君、野球は得意なの?」
「肩は強い。でも、たまに全然違う方向へ飛んでいく」
「そこは自信満々に言うところやないやろ」
乃亜の突っ込みに、陽向が小さく吹き出した。
陽向は笑った直後、申し訳なさそうに口を押さえた。しかし乃亜は首を横に振る。
「今の笑顔、謝らなくてええからね」
陽向はしばらく迷ったあと、もう一度だけ笑った。
その週末、横浜ブルーサンダース女子中学部では、小学生との合同体験会が開かれた。早川真紀コーチから乃亜へ任されたのは、新たに参加した小学五年生・小川菜月の指導だった。
「今日は乃亜が先生役ね」
「先生って……うち、まだ一年生ですよ?」
「自分が教わったことを、今度は年下の子へ渡す。それも先輩の役目だよ」
緊張する菜月を前に、乃亜はまず基本的なルールから説明した。
「ボールを持ったまま決められた以上に歩いたら、トラベリング。ドリブルを一度止めてから、また始めたらダブルドリブルになるんよ」
「間違えたら、怒られますか?」
「怒られへん、怒られへん。最初は間違えて覚えるもんやから」
乃亜は見本を見せようと、ボールを抱えたまま大げさに歩き始めた。
「これがトラベリング。こんなふうに、一、二、三、四、五……」
そのまま行進のように腕を振り、体育館を横断していく。
「乃亜、それはトラベリングというよりパレードや!」
横山紗良の声に、体育館が笑いに包まれた。菜月も肩の力が抜けたように笑う。
今度は軸足を動かさないピボット、ドリブルからパスへ移る動きを、乃亜がゆっくり実演する。何度かボールを失った菜月も、最後にはドリブルから乃亜へ正確なパスを出すことができた。
「できた!」
「今のめっちゃよかった! 次はシュートまで行ってみよう!」
練習後、早川コーチが乃亜へ声をかける。
「いい先輩になってきたね」
「うちは説明してただけです」
「失敗しても大丈夫だと思わせてあげるのは、説明より難しいことだよ」
乃亜は、うれしそうに菜月と話す自分を少し不思議に感じていた。少し前まで先輩の背中を追うだけだった自分が、今は誰かの隣に立っている。
一方、横浜リトルファイヤーズの野球教室では、貴教が小学二年生の井上蒼太と組んでいた。
蒼太は飛んでくるボールが怖く、グローブを顔の前に出して目を閉じてしまう。
「最初は近いところからでええよ。グローブをお皿みたいにして、ボールをここに乗せる感じ」
貴教は力を抑え、胸元へ柔らかく投げた。しかし一球目は蒼太の頭上を越え、後ろのボールかごへ見事に入った。
「教える側が、先にコントロールミスしてどうする!」
大森監督の声が飛び、子供たちが笑う。
「今のは、かごを狙ったんです!」
「その言い訳、監督には通用せんぞ」
貴教は照れながらボールを拾い、今度は先ほどよりもゆっくり投げた。
「怖かったら、目を閉じてもええ。でも、ちょっとずつボールを見てみよう。俺も最初からうまかったわけやないから」
何度目かの挑戦で、ボールが蒼太のグローブへ収まった。
「取れた!」
「よっしゃ! 今の最高や!」
自分がヒットを打ったときのように喜ぶ貴教を見て、大森監督は笑った。
「強い球を投げるだけが、いい選手じゃない。相手が受け取れる球を投げることも大事だぞ」
帰宅後、乃亜と貴教は互いの“先生役”について話した。
「教えるって、思ってたより難しいな」
「相手ができるまで待つのも大事なんやな。無理やり引っ張ったらあかん」
それは陽向に対しても同じなのだと、二人は気づき始めていた。前を向けと急がせるのではなく、立ち止まる日も認めながら、隣で一歩を待つこと。それが今の自分たちにできる役割だった。
金曜日の夜、「フライデー爆笑ラジオカフェ」が始まる。
爆笑通信で紹介されたのは、斉藤家からの投稿だった。
中学生になった乃亜が、後輩にトラベリングを教えようとして、体育館を一周する一人パレードを開催。
一方、野球教室で先生役になった貴教は、最初の一球を子供ではなくボールかごへストライク。
斉藤家の先生たちは、まず自分がお手本にならない方法を教えてくれました。
「待って! トラベリングで体育館一周は退場です!」
光子が笑い、優子も続ける。
「貴教君、かごに入れるコントロールがあるなら、最初から相手の胸に投げて!」
久しぶりに、斉藤家の居間へ三人の笑い声が響いた。
放送終了後、勝のスマートフォンに田村家から一枚の写真が届く。公園で友達とサッカーボールを追う陽向の姿が写っていた。
添えられた短い文章を、勝が二人へ見せる。
今日は友達と遊べました。
まだ怖くなることもあるけれど、笑ったときに「ごめんなさい」と言わないようにします。
杏子さん、ありがとう。
乃亜は仏壇の杏子へスマートフォンの画面を向けた。
「お母さん。陽向くん、自分の一歩を踏み出したよ」
貴教も遺影へ笑いかける。
「俺らも、ちゃんと誰かを支えられるようになるからな」
陽向の罪悪感も、斉藤家の悲しみも、一度の言葉だけで消えるものではない。それでも、立ち止まったときに隣へ来てくれる人がいる。
その安心の中で踏み出した小さな一歩は、確かに陽向自身の人生へと続いていた。
次回予告
「フライデー爆笑ラジオカフェ」の放送中、M&Yとファイブピーチ★から、横浜アリーナ公演の開催が発表される。
喜びかけた乃亜だったが、前回の横浜ライブは杏子と家族四人で参加した、事件直前の大切な思い出だった。
「お母さんがおらんのに、うちらだけ楽しんでもええんかな」
申し込み画面を前に、手を止める乃亜。すると貴教は、杏子の遺影のそばに置かれた限定タオルを手に取る。
「お母さんの写真も、このタオルも持っていこう。今度も四人で行けばええやん」
次回、第47話「四人で、もう一度」。
午後六時の当選発表。斉藤家はもう一度、あの音楽に会いに行くことができるのでしょうか。




