値段のつかない人生
第45話「値段のつかない人生」
黒田慎吾の死刑判決が確定してから、数週間が過ぎた。
長く続いた刑事裁判は終わったものの、勝の机から裁判関係の書類がなくなることはなかった。今度は、杏子を含む三人の遺族と十三人の負傷者が、黒田へ損害賠償を求める民事訴訟の準備を進めていた。
その夜、勝は遠山弁護士から受け取った資料を、リビングの机に広げていた。逸失利益、慰謝料、治療費、休業による損失、後遺障害。そこには、乃亜と貴教には聞き慣れない言葉と、多くの金額が並んでいた。
乃亜は資料をのぞき込み、眉を寄せた。
「これ、お母さんの金額なん?」
「杏子の人生そのものを金額にしたものではないよ」
「でも、お母さんが亡くなったことで、いくらって書いてあるやん」
勝は資料を閉じ、娘の顔を見た。
「法律の手続きでは、黒田が壊したものについて、金銭という形で責任を示すことになる。でも、お父さんも、お母さんの命に値段をつけられるとは思っていない」
乃亜は唇をかんだ。
「お母さんの命に、値段なんてつけられへん。百万円でも、一億円でも、百億円でも、お母さんは帰ってこんやん」
「そのとおりだ」
勝は静かにうなずいた。
「この裁判は、お金を受け取れば終わりという話じゃない。お母さんが家族と一緒に生きるはずだった時間、恵美さんが恵一君を育てるはずだった暮らし、隆志さんが五人のお孫さんと過ごすはずだった日々。それに、怪我をした人たちが失った仕事や健康、安心して駅を使える生活を、黒田が壊した。その責任を、公の記録として残すための裁判なんだ」
貴教も資料へ目を落とした。
「黒田に、お金を払えるん?」
「十分な資産はないとみられている。裁判で賠償が認められても、すべてを受け取れる可能性は低い」
「ほんなら、裁判しても意味ないん?」
「意味がないわけじゃない。支払えるかどうかと、責任があるかどうかは別だからな」
勝は二人へ、無理に民事訴訟へ関わる必要はないと伝えた。それでも乃亜と貴教は、自分たちが何を奪われたのかを、書面へ残すことを選んだ。
乃亜は、卒業式や入学式に母がいなかったことを書いた。貴教は、野球で初めてライトの先発を任された試合を、母に見てもらえなかったことを書いた。
それは金額へ換算できない、二人の喪失だった。
*
民事訴訟の第一回口頭弁論の日、横浜地方裁判所には三人の遺族と負傷者、その家族が集まった。
黒田本人は法廷へ姿を見せず、代理人を通じて争う姿勢を示した。損害額の一部について争い、刑事裁判で認定された事実についても、自分に有利な説明を繰り返していた。
原告側の席には、勝、佐野幸也、大川節子、新井理央、森川修司らが並んだ。
遠山弁護士は、最初にこう述べた。
「原告らは、亡くなった方々の命を金銭に置き換えられると考えているのではありません。金銭賠償は、現在の民事法上、被告の責任を具体的な形で示すために用いられる手段です。この訴訟で問われるべきなのは、被告の行為によって、一人一人の人生と家族の暮らしに、どれほど大きな損害が生じたのかということです」
杏子は三十八歳だった。
栄商事で営業担当として働き、家庭では勝とともに乃亜と貴教を育てていた。乃亜のバスケットボールと貴教の野球を応援し、休日には家族で出かけ、M&Yやファイブピーチ★のライブを楽しみにしていた。
未来には、まだ数え切れないほどの予定があった。
恵美には夫の幸也と三歳の恵一がいた。幼稚園の子供たちに慕われ、息子の成長を楽しみにしていた。
隆志は妻の節子とともに、五人の孫をかわいがっていた。孫たちの運動会や進学、成人の日を見届けるはずだった。
十三人の負傷者にも、それぞれの仕事と家族と日常があった。
それらを、黒田は何の関係もない一方的な不満によって壊した。
法廷で読み上げられる一人一人の生活を聞きながら、乃亜は母の写真を握った。
金額の前には、必ず名前がある。
その名前の向こうには、事件がなければ続いていたはずの人生があった。
*
民事訴訟が進む一方で、乃亜には中学生として初めての大きな大会が近づいていた。
全国中学校体育大会へつながる神奈川県予選。
乃亜は横浜ブルーサンダース女子中学部で地域クラブの練習へ参加しながら、学校大会には港南中学校女子バスケットボール部員として出場することになった。学校と地域クラブが連携する制度のもと、早川真紀コーチと港南中の水野千尋監督が情報を共有し、選手の練習量や体調を管理していた。
県予選初戦。
港南中は、第三クオーターまで相手の高さと厳しい守備に苦しめられていた。
第四クオーターに入っても点差は縮まらず、残り三分十三秒。得点は三十九対四十二。港南中が三点のリードを許している。
乃亜はベンチに座り、拳を握っていた。
中学校の公式戦では、まだ一度もコートに立っていない。
水野監督が乃亜を振り返った。
「斉藤、いけるか?」
乃亜は勢いよく立ち上がる。
「はい!」
「相手は中を固めている。お前の得意なスリーが必要だ。一本決めてこい」
「任せてください!」
コートへ入ろうとする乃亜を、三年生主将の宮本沙季が呼び止めた。
「いきなり全部を背負わなくていい。空いたら打つ。空かなかったらつなぐ。いつもどおりでいいから」
「はい!」
乃亜はコートへ踏み出した。
初めて立つ、中学生の公式戦のコートだった。
応援席には、勝と貴教がいる。勝は杏子が使っていた青い応援タオルを持ち、貴教は両手を口元へ当てて叫んだ。
「お姉ちゃん、全自動収納シュートは禁止やで! リングに入れろ!」
「分かっとるわ!」
緊張していた乃亜の顔に笑みが浮かんだ。
残り三分。
乃亜は右コーナーでパスを受けた。シュートを打てる間合いだったが、相手選手がすぐに詰めてくる。乃亜は無理に打たず、ゴール下へ走り込んだ沙季へパスを出した。
沙季のシュートが決まり、四十一対四十二。
次の守備では、相手のパスコースを読み、ボールへ手を伸ばした。完全には奪えなかったが、ボールがサイドラインを割り、港南中の攻撃へ変わった。
残り一分二十秒。
相手に得点を許し、四十三対四十六。再び三点差になる。
港南中も攻め続けるが、シュートがリングに嫌われる。残り二十秒を切っても、得点は動かなかった。
残り十五秒。
四十三対四十六。
港南中は最後のタイムアウトを取った。
選手たちが水野監督の周りへ集まる。
「相手も、乃亜のスリーを警戒している。最初から乃亜へ出しても打たせてもらえない。沙季が一度中へ切り込み、守備を引きつけろ。乃亜は右コーナーからトップへ上がる」
水野監督は乃亜を見た。
「最後は、お前が迷わず打て」
「はい」
乃亜の声は震えていた。
沙季が肩へ手を置く。
「外れても、全員の責任。決めたら、乃亜のおかげ。思い切って打ってこい」
「それ、先輩だけおいしい言い方してません?」
「緊張してる後輩を笑わせてるんや」
乃亜は大きく息を吐いた。
試合が再開される。
残り十五秒。
港南中のスローインから、沙季がボールを受けた。乃亜は右コーナーへ走るが、相手の選手がぴったりとついてくる。
残り十秒。
沙季がゴールへ切り込む。相手の守備が一人、二人と沙季へ集まった。
乃亜は右コーナーから、スリーポイントラインの外側を回ってトップへ移動する。
「乃亜!」
沙季からパスが飛んできた。
残り四秒。
乃亜はボールを受け、足をそろえた。相手選手が懸命に戻り、手を伸ばしてくる。
応援席から、貴教の声が響く。
「お姉ちゃん、いけー!」
ベンチでは、三年生たちが立ち上がっていた。
「乃亜、いけー!」
残り二・五秒。
乃亜の指先から、ボールが離れた。
ボールは高い弧を描き、リングへ向かう。
乃亜には、一瞬だけ周囲の音が消えたように感じられた。
――迷ったときこそ、いつものシュートやで。
杏子の声が、心の中によみがえる。
ボールはリングの内側へ当たり、そのままネットを揺らした。
四十六対四十六。
体育館が大歓声に包まれる。
「戻って!」
水野監督の声で乃亜は我に返り、今度は方向を間違えず守備へ走った。
相手が放った最後のロングシュートは外れ、試合は延長戦へ入った。
ベンチへ戻った乃亜を、三年生たちが次々と抱き締める。
「乃亜、ナイスシュート!」
「ほんまに決めた!」
乃亜は大きく息をしながら、応援席を見上げた。
勝が青いタオルを掲げ、貴教が飛び跳ねている。その隣に杏子の姿はない。
それでも乃亜は、母が一緒に見てくれていると信じた。
延長戦でも両チームは譲らなかった。
残り十二秒、五十三対五十三。
港南中の最後の攻撃で、乃亜は再びスリーポイントラインの外へ立った。相手の守備は、先ほど決めた乃亜を警戒している。
乃亜へ二人の意識が向いた瞬間、ゴール下へ沙季が走り込んだ。
乃亜はシュートを打つふりをしてから、沙季へ鋭いパスを通した。
沙季がレイアップシュートを決める。
五十五対五十三。
相手の最後の攻撃を全員で守り切り、試合終了のブザーが鳴った。
港南中の逆転勝利だった。
乃亜はコートの中央で、先輩たちと抱き合った。
試合後、水野監督は乃亜へ言った。
「同点のスリーも見事だった。でも、延長で自分が打たず、沙季へ出した最後のパス。あれが今日一番のプレーだ」
乃亜は笑顔で答えた。
「相手がうちばっかり見てたから、先輩が空いてました」
「それが見えたなら、中学生のコートへ一歩入れたな」
応援席から降りてきた貴教が、姉へ駆け寄る。
「お姉ちゃん、やったな!」
「見た? 残り二・五秒やで!」
「そのあとのパスもよかった。でも、シュート決めたあと、ちゃんと守備へ戻れてたな」
「うちも学習するんです!」
勝は杏子の青いタオルを、乃亜の肩へかけた。
「お母さんも、きっと見ていたよ」
乃亜はタオルを握り、涙を浮かべながらうなずいた。
「お母さん。中学生でも、一本決めたよ」
*
数か月にわたった民事訴訟にも、判決の日が訪れた。
裁判所は、刑事裁判で認定された黒田の故意による無差別襲撃を前提に、杏子、恵美、隆志の死亡と、十三人の負傷について、黒田に全面的な賠償責任があると認めた。
判決では、亡くなった三人の年齢、職業、家族関係、将来得られたはずの収入だけでなく、突然家族を奪われた遺族の精神的苦痛が考慮された。
負傷者についても、治療費や休業損害、後遺障害、事件後に続く心的外傷が認定され、原告ごとに賠償額が示された。
裁判長は判決理由の中で述べた。
「人の生命や、家族とともに過ごす時間を、金銭によって回復することはできない。本判決が命そのものの価値を金額で示すものではないことは、いうまでもない。しかし、被告の不法行為によって生じた損害について、法の定める方法で責任を明らかにする必要がある」
黒田には、遺族と負傷者へ損害賠償金を支払うよう命じる判決が言い渡された。
しかし、黒田に十分な資産はなく、実際に回収できる金額は限られると考えられた。
判決後、乃亜は勝に尋ねた。
「この金額が、お母さんの値段やないんよね」
「違う。杏子の値段なんて、誰にも決められない。これは黒田が負うべき責任を、法律の形で示したものだ」
「全部払われへんかもしれんのに?」
「ああ。それでも判決には、黒田が杏子たちの人生と、俺たちの暮らしを壊した責任があると残る。黒田が自分は悪くないと言い続けても、その事実は消せない」
佐野幸也も、報道陣の前で同じ思いを語った。
「判決で示された金額を受け取ることが目的ではありません。恵美が一人の母親として、幼稚園の先生として生きていたこと、その人生を奪った責任があることを、記録に残すために裁判を続けました」
大川節子は、隆志の写真を胸に抱いた。
「どれだけお金があっても、夫と孫たちが過ごすはずだった時間は戻りません。それでも、夫の人生が『たった一人』として片づけられなかったことには意味があると思っています」
新井理央も話した。
「生き残った被害者の苦しみも認められました。私はこれからも治療を続けます。判決が出たから元どおりになるわけではありませんが、事件後の人生を一歩ずつ生きていきたいです」
民事裁判は終わった。
刑事裁判と民事裁判の両方で、黒田の責任は認められた。
それでも、杏子、恵美、隆志は戻らなかった。
*
事件から一年を迎える日が近づき、川崎駅では追悼の場を設ける準備が進められていた。
駅の業務を妨げないコンコースの一角に献花台を設置し、事件発生時刻には黙とうを行う。駅員や鉄道警察隊、自治体関係者は、警備と利用者の安全確保について打ち合わせを重ねていた。
勝たちが事前の説明を受けるため川崎駅を訪れると、杉本駅員が待っていた。
事件の日と同じ駅員の制服を着ていたが、その表情には深い疲れが残っている。
杉本は三人へ頭を下げた。
「斉藤さん。ずっと、お話ししなければならないと思っていました」
勝は杉本を見つめた。
「何でしょうか」
「あの日より前から、私たちは黒田の存在に気づいていました。電車へ乗るわけでもなく、ホームやコンコースに長時間いる姿を見て、鉄道警察隊へ連絡したこともあります」
杉本の声が震える。
「もっと強く警戒していれば、もっと早く止めていれば、杏子さんたちは亡くならずに済んだのではないかと、ずっと考えています。私は駅員なのに、利用者を守れませんでした」
勝はすぐには答えられなかった。
事件直後であれば、その言葉を冷静に受け止められなかったかもしれない。誰かを責めなければ立っていられないほど、怒りと悲しみに押しつぶされていた。
しかし、裁判を通じて、勝は事件前の経緯を詳しく知った。
杉本たちは黒田へ声をかけ、鉄道警察隊へ連絡していた。それでも、刃物を隠し持ち、犯行の機会をうかがっていた黒田を完全に止めることはできなかった。
「杉本さん」
勝は静かに話した。
「事件を起こしたのは黒田です。杏子を殺したのも黒田です。杉本さんではありません」
「でも、私は……」
「防げなかったことを悔やむ気持ちは、私にもあります。あの日、杏子を迎えに行っていればと、何度も考えました。でも、私が迎えに行かなかったから杏子が殺されたわけではない。あなたが見抜けなかったから事件が起きたわけでもない」
乃亜も杉本へ語りかけた。
「杉本さん、お母さんが通勤していたとき、いつも駅で働いてくれてたんですよね」
「はい」
「お母さん、駅員さんに挨拶してもらったって、家で話してました。ライブへ行く日も、声をかけてもらったって喜んでました」
杉本の目から涙がこぼれた。
貴教も言った。
「悪いのは黒田や。杉本さんが、お母さんを刺したんやない」
「……ありがとうございます」
杉本は何度も頭を下げた。
駅では事件後、巡回方法や不審者情報の共有体制を見直し、鉄道警察隊との連携訓練も重ねていた。杉本は、杏子たちを救えなかったという思いを抱えながら、それでも利用者の安全を守る仕事を続けていた。
「これからも、この駅を利用する方々が無事に家へ帰れるように働きます。それが、私にできることだと思っています」
勝は杉本へ手を差し出した。
「お願いします。誰かの『ただいま』が、途中で奪われないように」
杉本は、その手を強く握り返した。
*
事件から一年となる日。
川崎駅の献花台には、朝から多くの花が手向けられた。
斉藤家、佐野家、大川家、負傷者とその家族、駅員、救助に当たった人々が集まり、事件発生時刻に黙とうをささげた。
乃亜は、港南中の県予選で使ったリストバンドを杏子の写真の隣へ置いた。
「お母さん。中学生の公式戦で、初めてスリーを決めたよ。残り二・五秒で同点にしたんやで。そのあと、延長で勝ったよ」
貴教も話しかける。
「俺もライトで先発してる。強く投げるだけやなくて、ちゃんと味方が捕れるところへ投げられるようになった」
勝は二人の後ろに立ち、献花台に飾られた杏子の写真を見つめた。
一年前、杏子はこの駅から家へ帰ろうとしていた。
もう少しで、港南台へ向かう電車に乗るはずだった。
その帰り道は、黒田によって断ち切られた。
しかし、杏子が家族へ残した優しさや言葉まで、奪われたわけではない。
黙とうが終わると、駅の構内に列車の到着を知らせる放送が流れた。利用者たちは、それぞれの目的地へ向かって歩き始める。
日常は、事件がなかったかのように元へ戻るのではない。
失ったものを抱え、二度と同じ被害を繰り返さないために記憶を残しながら、少しずつ作り直されていく。
乃亜は杏子の写真へ、そっと語りかけた。
「お母さん。うちら、今日も家に帰るね」
三人は川崎駅の改札を離れ、港南台の家へ帰るため、京浜東北・根岸線のホームへ向かった。
今度は三人で、帰り道を最後まで歩いていくために。
⸻
次回予告
事件から一年の追悼を終えた斉藤家へ、田村陽向から一通の手紙が届く。
そこには、杏子に守られた命を大切に生きたいという思いと、今も消えない罪悪感が記されていた。
「僕だけが生きていて、ごめんなさい」
その言葉を読んだ乃亜と貴教は、陽向ともう一度会うことを決める。
一方、横浜ブルーサンダース女子中学部では、乃亜が年下の選手を支える役目を任され、貴教は野球教室で低学年の子供へキャッチボールを教えることになる。
次回、第46話「守られた命の一歩」。
杏子が最後に守った少年は、自分の人生を生きるための一歩を踏み出せるのでしょうか。




