確定した刑、戻らない命
第44話「確定した刑、戻らない命」
最高裁判所が黒田慎吾の上告について判断を示す日が近づくなか、斉藤家の日常は、裁判とは別の速さで進み続けていた。
乃亜は横浜ブルーサンダース女子中学部で、先輩たちに食らいつく毎日を送っている。練習試合で初めてコートへ立ち、パスカットとアシストを記録したものの、まだ得点はなかった。
「次は自分で点を取る」
そう宣言してからというもの、乃亜は全体練習が終わったあとも、神谷凛や横山紗良に付き合ってもらい、シュート練習を続けていた。
一方の貴教は、横浜リトルファイヤーズで高橋航平と外野の定位置を争っていた。肩の強さでは上回っているが、送球の正確さでは航平に及ばない。そこで貴教は、全力で遠くへ投げることだけにこだわらず、八割ほどの力でカットマンの胸元へ返す練習を繰り返していた。
裁判の結果を待つ不安を抱えながらも、二人は自分たちの目の前にある課題へ向き合っていた。
*
女子中学部の紅白戦で、乃亜は一年生を中心とした白チームのシューティングガードとしてコートへ入った。
相手の青チームには、二年生主将の神谷凛がいる。
試合開始直後、乃亜は凛の切り返しについていけず、簡単に抜かれてしまった。攻撃でも、ボールを受けてから考えている間に相手のディフェンスが目の前へ迫ってくる。
早川真紀コーチの声が飛ぶ。
「乃亜、ボールを持ってから探さない! 受ける前に見て!」
乃亜はコート全体へ目を向けた。
味方の藤田怜奈がボールを運び、横山紗良がゴール下へ走り込んでいる。相手の守備が紗良へ集まった瞬間、右側のスペースが空いた。
乃亜はボールを求めて立ち止まるのではなく、空いた場所へ先に走った。
怜奈からパスが届く。
乃亜は受けた勢いのまま、ゴールへ踏み込んだ。凛が追いつこうと手を伸ばす。
以前の乃亜なら、慌てて強引にシュートを打っていただろう。しかし、この日は一度ボールを胸元へ引きつけ、凛の手が通り過ぎるのを待った。
バックボードを使ったレイアップシュート。
ボールがリングを一周し、ネットへ落ちる。
「入った!」
女子中学部へ進んでから、初めての得点だった。
紗良が駆け寄ってくる。
「乃亜、初得点!」
「やった! やっと入った!」
喜び過ぎた乃亜は、守備へ戻る方向を間違え、味方のベンチへ向かって走り出した。
早川コーチが叫ぶ。
「乃亜、試合は終わってない! 戻る方向が逆!」
「うわっ!」
乃亜は慌てて方向転換し、体育館に笑い声が広がった。
紅白戦は青チームが勝ったものの、乃亜は六得点、二アシストを記録した。試合後、凛が乃亜の肩をたたく。
「初得点、おめでとう。でも、点を取ったあとにベンチへ帰る選手は初めて見た」
「嬉しくて魂が迷子になりました」
「体ごと迷子になってたよ」
早川コーチも笑いながら、乃亜へ話した。
「先輩と同じ速さで動こうとするだけではなく、空いた場所を自分で見つけられたね。今日の得点は、脚の速さではなく判断で取った二点だよ」
乃亜は誇らしそうにうなずいた。
「次は、得点後もちゃんと守備へ戻ります」
「そこは必ず直しなさい」
*
同じ日の午後、横浜リトルファイヤーズでは、次の公式戦へ向けた守備テストが行われていた。
外野へ複数の打球が飛ばされ、捕球後に二塁、三塁、本塁の指示が出される。選手は瞬時に判断し、カットマンへ正確に返球しなければならない。
高橋航平は、最初の四球をすべて安定して処理した。打球への反応も速く、送球はカットマンの胸元へ集まっている。
貴教の順番が来た。
一本目は右中間へのフライ。貴教は落下地点へ走り、正面で捕球すると、三塁へのカットマンへ返球した。少し低かったが、ワンバウンドで正確に届いた。
二本目はライト線への難しい打球だった。追いついた貴教は、無理な体勢から投げず、いったん足を踏み直した。
「本塁!」
大森監督の指示が飛ぶ。
以前なら、貴教は捕手を目がけて全力で投げていただろう。しかし今回は、間に入ったカットマンの位置を確認した。
八割の力で、胸元へ投げる。
ボールは低い軌道で真っすぐ伸び、カットマンのグラブへ収まった。そのまま本塁へ転送される。
大森監督がうなずく。
「今の返球だ。強い肩を、味方が使える形にしたな」
三本目、四本目も大きくそれることなく処理する。
最後の打球は、貴教の頭上を越えそうな大きなフライだった。
背走しながらグラブを伸ばし、ぎりぎりで捕球する。勢い余って芝生へ転がったが、ボールは離さなかった。
「アウト!」
立ち上がった貴教は、今度は慌てて遠くへ投げず、内野へ正確に返した。
テストを終えると、大森監督は選手たちを集めた。
「次の公式戦、ライトは貴教に任せる。航平はセンターだ」
貴教は驚いて航平を見る。
航平は悔しそうな表情を見せることなく、拳を差し出した。
「外野、二人で守ろうな」
貴教も拳を合わせる。
「うん。俺の後ろに飛んだら頼むで」
「最初から俺を当てにすんな」
二人が笑うと、大森監督がすかさず言った。
「センターに任せる前に、自分で捕れ!」
練習後、貴教は勝へ結果を報告した。
「お父さん、次の試合、ライトで先発やって!」
「やったな。送球はどうだった?」
「全部カットマンの近くに投げられた。まだ完璧やないけど、肩が強いだけの外野手から、ちょっとだけ進化した」
「それなら、今夜は初先発祝いだな」
「お姉ちゃんも初得点やから、祝いが二つや!」
乃亜が横から口を挟む。
「うちの初得点は六点です」
「最初の二点だけが初得点やろ」
「細かいことはええねん」
姉弟の笑い声を聞きながら、勝はスマートフォンへ届いた遠山弁護士からの連絡を見つめた。
最高裁の判決言渡しの日が決まったという知らせだった。
*
判決の日の朝、勝は二人へ改めて尋ねた。
「本当に行くのか?」
乃亜と貴教は、杏子の写真を前に並んでいた。
最高裁の判決言渡しに黒田本人が出廷するわけではない。それでも、長く続いた刑事裁判の最後になるかもしれない日だった。
乃亜は小さくうなずいた。
「怖いけど、行く。お母さんと一緒に聞く」
「俺も行く」
貴教も答えた。
「これで終わるのか、自分で聞きたい」
三人は杏子の写真を持ち、最高裁判所へ向かった。
法廷には、佐野幸也、大川節子、新井理央をはじめとする被害者や遺族たちも集まっていた。それぞれが、失った家族の写真や、事件後の生活を支えてきた小さな品を持っている。
開廷すると、裁判長が黒田の上告について判断を言い渡した。
「主文。本件上告を棄却する」
法廷の空気が張り詰めた。
裁判長は、弁護側が主張した責任能力や量刑に関する訴えについて、第一審と控訴審の判断に重大な誤りは認められないと述べた。
黒田は犯行前に包丁を準備し、人目につかないよう隠して川崎駅へ持ち込んでいた。駅を繰り返し訪れ、混雑の状況や駅員の動きを確認し、声をかけられた際には警戒を避けるため立ち去っている。
そうした行動から、黒田は自らの行為が許されないことを理解し、目的に沿って行動を選択できていたと認定された。
「被告人には、犯行当時、完全責任能力があったとした原判決の判断は是認することができる」
裁判長は、被害の重大さについても述べた。
何の関係もない利用客を無差別に襲い、斉藤杏子、佐野恵美、大川隆志の三人の命を奪い、十三人へ重軽傷を負わせたこと。駅という多くの人が利用する公共の場所で行われ、現場にいた田村陽向をはじめ、多数の人々へ深い心の傷を残したこと。
その動機は、女性や社会に対する一方的な不満を無関係な人々へ向けたものであり、酌量の余地はないとされた。
さらに、裁判長は黒田の犯行後の態度へ言及した。
「被告人は、被害者や遺族に謝罪することなく、『たった三人死んだだけ』『勝手に死んだ』などと発言し、被害者を愚弄する態度を繰り返している。現在に至るまで、真摯な反省の態度は認められない」
乃亜は杏子の写真を胸に抱き、貴教は勝の手を強く握った。
「三名の生命が奪われた結果の重大性、十三名が負傷した被害の大きさ、犯行の計画性と無差別性、動機の身勝手さ、被告人の反省の欠如、遺族や被害者の厳しい処罰感情などを総合すると、死刑を回避すべき事情を見いだすことはできない」
最高裁判所は、第一審と控訴審の判断を維持し、黒田の上告を棄却した。
法廷を出たあと、貴教が勝へ尋ねた。
「これで、本当に裁判は終わるの?」
「黒田側には、判決の訂正を申し立てる手続きが残っている。だから、今日すぐに確定するわけではない。でも、その申し立ても認められなければ、死刑判決が確定する」
「まだ少し残ってるんや……」
貴教は疲れ切った表情で、杏子の写真を見つめた。
佐野幸也も、恵美の写真を抱いたまま動けずにいた。
「棄却されたのに、何も終わった感じがしません」
大川節子が静かに答える。
「刑が決まっても、あの人たちが帰ってくるわけではありませんから」
誰も喜びの声を上げなかった。
上告棄却は、失った命が戻る奇跡ではない。長く続いた刑事手続きが終わりに近づいたことを示す、一つの判断にすぎなかった。
*
同じ日、拘置所にいる黒田慎吾にも、最高裁の判断が伝えられた。
弁護人から上告が棄却されたと聞くと、黒田は机をたたいた。
「なんで、俺みたいな素晴らしい男が死刑なんだよ。おかしいだろ!」
「三つの裁判所が、あなたの責任能力と犯行の重大性を検討したうえで判断した結果です」
「俺を理解できない女どもと社会が悪いんだ。俺は何も悪くない!」
弁護人は、判決訂正の申立てについて説明した。しかし黒田が口にするのは、最後まで自分の命と不満だけだった。
杏子、恵美、隆志の名前を呼ぶこともなければ、十三人の負傷者や陽向へ謝罪することもなかった。
黒田は判決の訂正を申し立てたが、その書面にも、自らを不当に評価された特別な人間だと主張する言葉が並び、被害者への反省は記されていなかった。
その内容の要旨は、被害者支援を担当する遠山弁護士を通じ、勝たちへ説明された。
「俺みたいな素晴らしい男が死刑になるのはおかしい……?」
乃亜は、聞いた言葉を繰り返した。
第一審、控訴審、最高裁。これほど多くの証拠と被害者の声が示されても、黒田は自分だけが不当に扱われていると言い続けている。
乃亜は椅子から立ち上がった。
「もういい加減にして!」
部屋中へ声が響いた。
「どれだけ人をばかにしたら気が済むんよ! お母さんたちを殺して、怪我をした人の人生も壊して、陽向君にずっと苦しい思いをさせて、それでも自分だけが素晴らしいって、何なん!」
貴教も唇をかみ締めた。
「素晴らしい人は、人を殺さん。助けようとしたお母さんを間抜けなんて言わん。最後まで謝れへん人の、どこが素晴らしいんや」
勝は二人を止めなかった。
怒りを言葉にしなければ、二人の中で黒田の暴言だけが残り続けてしまう。そう思ったからだった。
「乃亜、貴教。黒田が自分をどう評価しても、それで杏子の価値が変わることはない。裁判所も、社会も、黒田の言葉ではなく証拠と事実に基づいて判断した」
「でも、悔しい」
乃亜の目から涙があふれる。
「お母さんは、最後まで陽向君を守ったのに。あの人は最後まで、お母さんのことを人として見ようとせんかった」
「うん。悔しいよな」
勝は二人の肩を抱いた。
「でも、黒田に杏子がどれほど大切な人だったかを理解してもらえなくても、俺たちは知っている。杏子を知る人たちも、救われた陽向君も、杏子がどんな人だったかを知っている。それまで黒田に奪わせる必要はない」
*
後日、最高裁は黒田の判決訂正の申立てを退けた。
これにより、黒田慎吾に対する死刑判決が確定した。
遠山弁護士から連絡を受けた勝は、リビングに乃亜と貴教を呼んだ。
「刑が確定した」
その一言を聞いても、二人はすぐには何も言わなかった。
やがて貴教が尋ねる。
「終わったん?」
「刑事裁判は、これで終わりだ」
「じゃあ、もう裁判所へ行かなくていい?」
「ああ。刑事裁判で意見を言うために、何度も法廷へ行くことはない」
貴教は安心したように息を吐いた。しかし、その直後に杏子の遺影を見つめ、表情を曇らせた。
「でも、お母さんは帰ってこんのやね」
「……うん」
勝はそれ以外の答えを持っていなかった。
乃亜も遺影の前へ座る。
「死刑が確定したら、何か変わると思ってた。でも、家の中は何も変わらへんね」
食卓に並ぶのは三人分の食器。
玄関から「ただいま」と言っても、杏子の「おかえり」は聞こえない。
バスケットボールで初得点を挙げても、直接報告することはできない。貴教が公式戦のライトを任されても、応援席に杏子の姿はない。
刑が確定しても、失われた命は戻らなかった。
勝は仏壇へ手を合わせた。
「杏子。長かった刑事裁判が終わった。黒田には死刑判決が確定した。でも、それで俺たちの悲しみが終わるわけじゃない」
乃亜は紅白戦で初得点を挙げたボールを置いた。
「お母さん、女子中学部で初めて点を取ったよ。嬉しすぎて守備へ戻る方向を間違えたけど」
貴教もグローブを隣へ置く。
「俺、次の試合でライトを守る。カットマンにも真っすぐ返せるようになったで」
勝は二人を見つめた。
「杏子。二人はちゃんと前へ進んでいる。お前が見られなかった成長を、俺が見届ける。これからも三人で何度でも報告に来るよ」
翌朝、乃亜はバスケットボールを持ち、貴教はグローブを抱えて玄関へ立った。
「お母さん、行ってきます」
二人の声が、静かな家の中へ響く。
刑事裁判は終わった。
しかし、斉藤家の人生は終わらない。
戻らない命を思い続けながらも、三人は杏子が大切にしていた日常を、一日ずつ生きていく。
玄関の扉が開く。
朝の光の中へ、乃亜と貴教が走り出していった。
次回予告
黒田慎吾の死刑判決が確定し、長く続いた刑事裁判が終わった。
しかし、遺族と負傷者には、損害賠償を求める民事訴訟が残されていた。
「お母さんの命に、値段なんてつけられへん」
乃亜の言葉に、勝は、金銭で杏子を取り戻すための裁判ではないと説明する。黒田が壊した人生と暮らし、その責任を記録として残すため、被害者たちは再び法廷へ向かう。
一方、事件から一年が近づき、川崎駅では追悼の場を設ける準備が進められていた。杉本駅員は、あの日以来抱えてきた悔しさを、初めて勝へ打ち明ける。
次回、第45話「値段のつかない人生」。
認められる賠償額の向こうに、数字では表せない一人一人の人生があります。




