追いつけない背中
第43話「追いつけない背中」
横浜ブルーサンダース女子中学部へ入団して二週間が過ぎても、乃亜は先輩たちの速さに慣れることができずにいた。
パスを受けてから周囲を見ようとすれば、その瞬間には相手の手が伸びてくる。ドリブルで前へ進もうとしても、わずかに重心を傾けた動きを読まれ、進路を塞がれてしまう。
小学部では自信を持っていたスリーポイントシュートも、構えるまでに時間がかかり、打つ前にボールを弾かれた。
練習のたびに、二年生主将の神谷凛と三年生の真壁葵の背中が遠ざかっていく。
その日も、速攻の練習で乃亜は凛へ追いつこうと必死に走ったが、ゴール下へ到着したときには、すでにシュートが決まっていた。
「また間に合わんかった……」
膝へ手をつき、肩で息をする乃亜へ、早川真紀コーチが声をかける。
「乃亜、追いつこうとするだけじゃ、ずっと相手の背中しか見えないよ」
「でも、走らんかったら、もっと離されます」
「走ることは必要。でも、凛が動いたあとから同じ場所へ走っても遅い。凛がどこを見て、次にどこへ動こうとしているのかを考えなさい」
早川コーチは、コートの中で味方と相手の動きを確認するよう促した。
「速い選手は、脚だけが速いんじゃない。判断が速い。乃亜が先輩と同じ速さで走れないなら、半歩先に考えることから始めればいい」
乃亜はうなずき、練習へ戻った。
しかし、頭で理解したからといって、すぐにできるわけではない。次の練習でもパスを奪われ、一対一では簡単にかわされた。
悔しさのあまり、体育館の床を拳でたたきたくなった。それでも乃亜は立ち上がり、再び守備位置へ戻った。
*
横浜リトルファイヤーズでも、貴教は新たな壁にぶつかっていた。
五年生になり、外野の定位置を争う相手が現れたのである。
同じ学年の高橋航平は、貴教ほど肩が強いわけではない。しかし打球への一歩目が速く、捕球してからカットマンへ正確に返すことができた。
守備練習でライトへ上がったフライを、貴教は懸命に追いかけた。ボールを捕るところまではよかったが、三塁へ投げた送球は大きくそれ、ベンチ前まで転がっていった。
「貴教、強く投げるだけではアウトは取れないぞ!」
大森監督の声が飛ぶ。
続いて守備に入った航平は、捕球するとすぐにカットマンへ返した。目を見張るほど速い送球ではなかったが、胸元へ正確に届いた。
大森監督がうなずく。
「今の形だ。外野手の送球は、遠投競争じゃない。味方が捕れなければ、どれだけ強い球でも意味がないぞ」
貴教は悔しそうに唇をかんだ。
練習後、航平が声をかけてくる。
「貴教の球、ほんまに速いな。俺、あんなに遠くまで投げられへん」
「でも、航平のほうが正確やん」
「俺は肩が強くないから、カットマンに返すしかないんよ」
貴教は、航平が自分を負かそうとして嫌みを言っているわけではないことに気づいた。航平もまた、自分に足りないものを工夫で補っていた。
「なあ、航平。どうしたら、あんなに真っすぐ投げられるん?」
「俺も貴教に遠くへ投げる方法を教えてほしい。交換でどう?」
二人は練習後もグラウンドに残り、カットマンの位置へ目印を置いて送球を繰り返した。
貴教が力いっぱい投げようとするたび、航平が声をかける。
「百パーセントで投げんでもええんちゃう? 八十パーセントでも、貴教の球は十分速いで」
「八十パーセントか……」
貴教は次の球で、少しだけ力を抜いた。
送球はワンバウンドし、目印のすぐ横へ届いた。
「今のや!」
航平が笑顔を見せる。
貴教も拳を握った。
「よし。もう一球!」
定位置を争う相手は、倒さなければならない敵ではない。同じ場所を目指しながら、互いを成長させる仲間でもあった。
*
週末、横浜ブルーサンダース女子中学部は、県内のクラブチームとの練習試合を迎えた。
乃亜はベンチから試合を見つめていた。
先輩たちの動きは、普段の練習よりさらに速い。相手チームも判断が早く、ボールが止まる時間がほとんどない。
前半を終えた時点で、横浜ブルーサンダースは二十九対三十五と六点のリードを許していた。
乃亜は出場する機会のないまま、試合が第四クオーターへ入った。
残り四分、得点は五十二対五十八。
早川コーチがベンチを振り返る。
「斉藤乃亜、入るよ」
「はい!」
乃亜は勢いよく立ち上がったが、すぐに早川コーチから肩を押さえられた。
「焦らない。先輩と同じことをしようとしなくていい。今の乃亜にできる一本をつないできなさい」
乃亜は大きく息を吸い、コートへ入った。
最初の守備で、相手ガードの切り返しについていけず、簡単に抜かれた。慌てて追いかけたものの、ゴール下へパスを通され、点差は八点へ広がる。
次の攻撃では、乃亜が受けたボールを奪われ、そのまま速攻を許しかけた。
「乃亜、下向くな!」
神谷凛の声が飛ぶ。
「次を見て!」
乃亜は走りながら、早川コーチの言葉を思い出した。
――相手の背中を追うだけでは、ずっと追いつけない。
相手ガードは、正面を走る選手へ視線を向けている。そのまま前へパスを出すように見えたが、左側から別の選手がゴール下へ走り込んでいた。
乃亜はボールではなく、パスの先を見た。
左へ一歩踏み出す。
相手ガードが出したパスを、乃亜の右手が捉えた。
「取った!」
ボールを奪った乃亜は、自分で最後まで運ぼうとせず、すぐに前を走る凛へパスを出した。
凛がレイアップシュートを決める。
「ナイスパス、乃亜!」
先輩から初めて、試合の中で名前を呼ばれた。
残り一分、点差は三点。
次の攻撃で乃亜はスリーポイントラインの外に立った。しかし相手のディフェンスがすぐに間合いを詰めてくる。
以前なら、無理にでもシュートを打っていた。
乃亜はゴール下へ切り込む真壁葵を見つけ、ワンバウンドのパスを通した。葵がシュートを決め、点差は一点になる。
最後は相手にフリースローを決められ、試合は六十一対六十四で敗れた。
乃亜の得点はゼロだった。
それでも早川コーチは、試合後のミーティングで乃亜へ声をかけた。
「得点はなかったけれど、流れを変えるスティールとアシストがあった。今日の乃亜は、先輩の背中だけを見て走らなかったね」
乃亜は悔しさを残しながらも、しっかりとうなずいた。
「次は自分でも点を取ります」
「その気持ちは大事。でも、点を取ることだけが成長ではないよ」
凛が乃亜の背中を軽くたたく。
「最初の一歩は合格。次はもっと厳しくいくからね」
「望むところです!」
体育館の外では、勝と貴教が待っていた。
「お姉ちゃん、無得点やったな」
貴教が言うと、乃亜が頬を膨らませる。
「いきなりそこ言う?」
「でも、パスカットはすごかった。相手が投げる前に動いてたやん」
「まあな。うちも脚だけで追いつくのはやめたんよ。頭で半歩先に行く作戦」
貴教は得意そうに自分の練習について話した。
「俺も百パーセントで投げるのやめた。八十パーセントでカットマンの胸へ投げる」
「二十パーセント余ったら、何に使うん?」
「ベンチへ戻る体力」
「現実的やな」
勝は、言い合いながら笑う二人を見つめていた。
競技の中で壁にぶつかり、工夫し、仲間から学ぶ。その経験は、二人を少しずつ強くしていた。
*
その日の夜、勝はリビングの机へ一冊のファイルを置いた。
最高裁判所へ提出する、被害者遺族としての意見書だった。
横浜地方裁判所での第一審、東京高等裁判所での控訴審、そして最高裁判所へ進んだ上告審。事件から長い時間が過ぎても、遺族や負傷者は繰り返し事件と向き合わされていた。
勝は書きかけの文章を読み返した。
『裁判が開かれるたび、家族は事件当日の記憶へ引き戻される。子供たちは、母親が殺害された経緯と、被告人が法廷で発した侮辱的な言葉を繰り返し聞かされてきた。手続きが保障される必要は理解している。しかし、被告人が責任を他者へ押しつけ続けることで、遺族の苦痛はさらに深められている』
勝はそこで手を止めた。
乃亜と貴教は、これまで何度も自分たちの言葉を伝えてきた。母がどのような人だったか、どれほど大切な存在だったか、黒田によって何を奪われたかを訴えてきた。
しかし、これ以上二人へ裁判の重荷を背負わせてよいのだろうか。
「お父さん」
振り向くと、乃亜が立っていた。
「最高裁に出す書類?」
「ああ」
「うちらのことも書くん?」
勝は正直に答えた。
「書こうと思っている。でも、乃亜と貴教が自分で意見を出す必要はない。今まで十分に伝えた。これからは、お父さんたち大人に任せてもいいんだ」
「うち、もう子供やから何も言わんでええってこと?」
「そうじゃない。二人の生活を、裁判だけにしたくないんだ。乃亜には中学校もバスケもある。貴教にも学校と野球がある」
そこへ貴教もやってきた。
「俺たちが言わんかったら、お母さんのこと、忘れられへん?」
「忘れられることはない。お父さんが必ず伝える」
乃亜は机の上の意見書を見つめた。
「うちは、自分で決めたい。書くか書かへんかも、自分で決めたい」
勝はしばらく考えたあと、うなずいた。
「分かった。ただし、苦しくなったら途中でやめていい。書いたものを提出しないという選択もできる。それを約束してくれ」
「うん」
姉弟は、それぞれ自分の意見を書くことにした。
*
数日後、双方の代理人が調整し、最高裁の正式な審理とは別に、遺族と負傷者の意見を黒田側へ直接伝える機会が設けられた。
安全と心理的負担に配慮し、黒田は拘置施設から映像で参加し、遺族側には遠山弁護士と支援員が同席した。途中で続けられないと感じた場合は、いつでも接続を切ることができると説明された。
画面に黒田慎吾の姿が映る。
勝は杏子の写真を机へ置き、最初に話し始めた。
「あなたには裁判を受ける権利があり、上告する権利があることも理解しています。しかし、その手続きが続くたび、遺族や負傷者は事件の苦しみを繰り返し思い出します」
勝は、横浜地裁から東京高裁、最高裁へと裁判が続く中で、家族が受けてきた負担を語った。
乃亜が眠れなくなった夜。貴教が黒田の声を思い出し、耳を塞いだこと。勝自身も、杏子の最期に関する記録を何度も読み返し、そのたびに妻を守れなかったという思いに襲われたこと。
「私たちは、あなたに権利を捨てろと言える立場ではありません。ただ、上告という手続きを、自分の責任から逃げ、被害者を侮辱し続けるために使わないでほしい。あなたがしたことの結果を、きちんと受け止めてください」
次に乃亜が話した。
「私はバスケットボールをしています。この前、中学部で初めて練習試合に出ました。相手の背中を追いかけるだけでは追いつけないことや、自分の失敗から逃げず、次にどうするか考えることを教わりました」
乃亜は画面の黒田を見た。
「バスケで、相手をわざと傷つけるような危険な行為をすれば、レッドカードと同じように一発退場になります。何度も繰り返し、反省もしなければ、永久追放になってもおかしくありません」
貴教も続ける。
「野球でも、バットやボールを人を傷つけるために使ったら、もう選手ではいられません。肩が強くても、速い球を投げられても、決められたルールを守れない人に野球をする資格はありません」
二人は声をそろえるように訴えた。
「あなたがしたことは、本当に一発退場、永久追放になるようなことです。やってはいけないことをした結果を、きちんと受け止めて、受け入れてください」
画面の中で、黒田はしばらく黙っていた。
やがて口元をゆがめ、吐き捨てるように言った。
「お前らの母親なんか知るか。ちょっと刺したら死んだ、間抜けなやつだろ」
部屋の空気が凍りついた。
遠山弁護士がただちに発言を制止し、支援員が接続を中断しようとする。しかし、その前に乃亜が立ち上がった。
「あんた、それでも人間か!」
勝が娘の肩へ手を伸ばすが、乃亜の目には激しい怒りが浮かんでいた。
「あんたは鬼畜や! お母さんは、陽向君を守ったんや。自分が刺されるかもしれへんのに、小さな子を守ろうとした。そんなお母さんを間抜けなんて言うな!」
貴教も涙を流しながら、画面へ叫んだ。
「お前が殺したお母さんは、俺には大切なお母さんやったんや! 野球をいつも応援してくれて、エラーしたときも、次に頑張ればいいって言ってくれた。俺たちのお母さん返せや! この人殺しが!」
乃亜は拳を握り締めた。
「お母さんはもうご飯も食べられへん。うちらと話すことも、笑うこともできへん。それなのに、あんたが拘置所の中でご飯を食べて、今も全部人のせいにしているなんて、ふざけんな!」
「乃亜、貴教。もういい」
勝は二人を抱き寄せ、遠山弁護士へうなずいた。
黒田との映像接続は、その場で切られた。
画面が暗くなっても、貴教の泣き声は止まらなかった。
乃亜も肩を震わせている。
「なんで……なんであんなこと言えるん?」
勝は二人を抱いたまま答えた。
「分からない。お父さんにも理解できない」
「うち、ひどいこと言った。鬼畜って……」
「怒るのは当然だ。杏子を侮辱されたんだからな。ただ、黒田の言葉に引きずられて、乃亜と貴教の心まで壊される必要はない」
勝は二人の顔を見た。
「拘置所で食事を与えられることは、黒田の罪が許されているという意味ではない。それは社会が、黒田と同じように人の命を軽く扱わないために必要なことだ。処罰は法律に従って決められる。でも、二人が腹を立てたことも、許せないと思ったことも、間違いではない」
乃亜は涙を拭った。
「うち、あの人みたいにはなりたくない。誰かの命を、どうでもいいなんて言う人にはなりたくない」
「その気持ちを忘れなければ大丈夫だ」
*
黒田との意見伝達を終えたあと、佐野幸也、大川節子、新井理央、森川修司らも、それぞれの言葉を共同意見書へ記した。
幸也は、恵一が今も母の帰りを待つことがあると伝えた。
「恵美は三十八年でも、五十年でも生きられたはずです。息子が成長する姿を見るはずでした。その人生を奪っておきながら、侮辱を重ねる態度を決して許すことはできません」
節子は、隆志の五人の孫が、祖父へ宛てた手紙を大切に保管していることを記した。
「あなたが『たった三人』と呼んだ人たちには、それぞれ家族がいました。私たちは、三人を人数としてではなく、名前を持つ一人の人間として覚え続けます」
新井理央は、事件後も電車へ乗ることが難しく、通院とリハビリが続いていることを伝えた。
「生き残った被害者の人生も、事件の日から変わりました。あなたが責任を認めない限り、傷がなかったことになるわけではありません」
森川修司も厳しい言葉を記した。
「他人があなたを受け入れなかったことは、人を傷つける理由にはならない。社会や女性や家族へ責任を押しつけても、あなた自身がしたことは消えない」
黒田へ向けられたのは、復讐の脅しではなかった。
奪われた人生、壊された暮らし、生き残った者が背負った痛み。その一つ一つを、本人の前へ突きつける言葉だった。
黒田は、自分は悪くないと繰り返してきた。しかし、被害者も遺族も、弁護人も、そして黒田の両親さえも、その主張を受け入れなかった。
誰かのせいにするたび、黒田はさらに孤立していった。
それでも謝罪の言葉は出なかった。
*
帰宅した乃亜と貴教は、仏壇の前へ並んだ。
「お母さん、ごめん。うち、すごく怒ってしもうた」
乃亜が話すと、貴教も続けた。
「俺も、人殺しって叫んだ。でも、許されへんかった。お母さんのことを間抜けなんて言われて、我慢できへんかった」
勝は二人の後ろへ座った。
「杏子なら、怒った二人を責めたりはしないと思う。でも、その怒りで二人が苦しくなり続けることは望まないだろうな」
乃亜はしばらく遺影を見つめたあと、バスケットボールへ手を伸ばした。
「明日も練習行く。今度は試合で点を取りたい」
貴教もグローブを持ち上げる。
「俺も、カットマンへ真っすぐ返せるまで練習する」
裁判の苦しみを忘れたわけではない。
黒田への怒りが消えたわけでもない。
それでも二人は、怒りだけに自分の人生を支配させない道を選ぼうとしていた。
翌朝、乃亜はボールを持って体育館へ向かい、貴教はグローブを抱えてグラウンドへ走った。
追いつけない背中があるなら、ただ後ろを走るのではなく、自分なりの一歩を探す。
杏子が生きられなかった明日を、二人は自分たちの足で歩き続けていた。
⸻
次回予告
最高裁判所は、黒田慎吾の上告について判断を示す。
二度にわたり死刑を言い渡された黒田が訴えた責任能力と量刑。その主張に対し、最高裁が出す結論とは。
「これで、本当に裁判は終わるの?」
判決確定の可能性を前にしても、乃亜と貴教の胸から杏子を失った悲しみが消えることはない。
一方、乃亜は女子中学部で初得点の機会をつかみ、貴教は定位置争いのかかった守備テストへ挑む。
次回、第44話「確定した刑、戻らない命」。
長く続いた刑事裁判が終わるとき、斉藤家はその先にある日常と向き合います。




