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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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桜の下の入学式

 第42話「桜の下の入学式」


 港南小学校の卒業式から数日後、勝、乃亜、貴教は、卒業証書を持って杏子の眠る墓を訪れた。


 空はよく晴れ、墓地へ続く道の脇では、桜のつぼみが少しずつ膨らみ始めている。貴教が水をくみ、勝が墓石を丁寧に拭いたあと、乃亜は持ってきた花を供えた。


 墓石に刻まれた「斉藤杏子」の名前を前にすると、卒業式の日にはこらえていた感情が、再び胸の奥から込み上げてきた。


 乃亜は卒業証書の筒を開き、証書を両手で広げた。


「お母さん、小学校卒業したよ」


 春の風が、卒業証書の端をわずかに揺らした。


「卒業式で、ちゃんと名前を呼ばれて、大きな声で返事したよ。お父さんと貴教も見に来てくれた。お母さんの写真も持ってきてくれたから、四人で卒業式に出たんやで」


 笑って報告しようと思っていた。


 けれど、杏子に見せたかった晴れ姿を、写真でしか見せられない。その現実が胸を締めつけ、乃亜の目から涙がこぼれた。


「ほんまは、お母さんにも見てほしかった。卒業証書を受け取るところも、みんなで歌ったところも、家族写真がまた一回で撮れへんかったところも……全部、見てほしかった」


 一度あふれた涙は、止まらなかった。


「中学校の入学式にも来てほしかった。新しい制服、似合ってるって言ってほしかった。バスケの試合にも、これからずっと応援に来てほしかった」


 勝は娘の背中へ手を添えたが、無理に泣きやませようとはしなかった。貴教も隣で目を潤ませ、黙って姉の手を握った。


 乃亜は何度も涙を拭い、墓石の杏子の名前を見つめた。


「お母さん。私、もっと強くなるからね。泣かへんようになるって意味やないよ。泣いても、苦しくても、そこからもう一回立てる人になる」


 そして、胸の中に抱いてきた夢を、初めてはっきりと言葉にした。


「私、バスケでオリンピックに行くから。日本代表のユニフォームを着て、世界の選手と戦う。お母さんを、オリンピックの会場へ連れていくって約束してたやろ。写真になっても、絶対に連れていくから」


 貴教も墓石の前へ進んだ。


「俺も、ベイスターズの選手になる。お母さんを日本一の外野手のお母さんにするって約束、まだ諦めてへんから」


 勝は二人の横に立ち、杏子へ静かに語りかけた。


「杏子。二人とも、自分の足で少しずつ歩き始めているよ。俺は、二人の夢を最後まで応援する。だから、そっちから見守っていてくれ」


 三人は墓前で手を合わせた。


 帰り際、乃亜は一度振り返った。


「お母さん、次は入学式の写真を持ってくるからね」


 桜のつぼみの向こうに、柔らかな春の空が広がっていた。


 *


 入学式の朝、斉藤家は早い時間から慌ただしかった。


 真新しい制服に袖を通した乃亜は、鏡の前で何度も襟元を確認している。小学校の卒業式とは違う制服姿に、自分でもまだ慣れていなかった。


「お父さん、リボン曲がってへん?」


「大丈夫だと思うけど……」


「“思う”では困るねん。今日は入学式やで」


 勝が直そうとすると、かえって左右のバランスがおかしくなる。


 それを見ていた貴教が、深いため息をついた。


「お父さん、機械は直せるのに、なんでリボンは直せへんの?」


「車の部品と制服のリボンは構造が違う」


「お母さんなら三秒で直すのに」


 その一言に、三人の動きが止まった。


 以前なら杏子が乃亜の前へ立ち、リボンの形を整え、髪をとかしながら「中学生らしくなったね」と笑ってくれただろう。


 乃亜は鏡の中の自分を見つめた。


「中学生になったうちも、お母さんに見てほしかった」


 勝は娘の後ろへ立った。


「写真を撮って、お墓にも持っていこう。仏壇のお母さんにも、出発前にしっかり見せよう」


 そこへ貴教が近づき、乃亜のリボンへ手を伸ばした。


「俺が直す」


「貴教にできるん?」


「お姉ちゃんよりは器用やと思う」


「それ、どういう意味や!」


 姉弟で言い合いながらも、貴教は慎重にリボンを整えた。少し時間はかかったが、左右の形はきれいにそろった。


「どうや」


 乃亜は鏡を見て、驚いたように目を開いた。


「やるやん」


「野球のスパイクのひも、毎回自分で結んでるからな」


「スパイクと制服のリボンも構造が違うやろ」


 三人の笑い声が、朝の斉藤家に響いた。


 仏壇の前へ移動すると、乃亜は杏子の遺影へ制服姿を見せた。


「お母さん、中学生になったよ。どう? 似合ってる?」


 勝がスマートフォンで写真を撮り、貴教も乃亜の横へ並ぶ。三人で撮ったあと、乃亜は杏子の写真を持ち、もう一枚撮影した。


「それじゃあ、行ってきます」


 乃亜は遺影へ手を合わせ、新しい鞄を持って玄関を出た。


 *


 学校へ続く道では、満開に近づいた桜が春風に揺れていた。


 校門の前には新入生と保護者が集まり、記念写真を撮っている。母親と並んで笑う同級生の姿が目に入るたび、乃亜の胸は痛んだ。


 勝はその変化に気づいたが、すぐには声をかけなかった。乃亜が自分から話せるまで、隣を歩いた。


「お父さん」


「どうした?」


「お母さんがおったら、たぶん校門の前で写真を十枚くらい撮ってたよね」


「十枚で済むかな。目を閉じたとか、よそ見したとかで、二十枚は撮ったと思うぞ」


「ほんなら、今日も二十枚撮る?」


「遅刻しない範囲でな」


 勝は近くにいた保護者へ撮影を頼み、乃亜と並んだ。杏子の小さな写真も手に持つ。


 一枚目は二人とも緊張した表情だった。二枚目で乃亜が目を閉じ、三枚目で風にあおられた杏子の写真が裏返り、四枚目では勝のネクタイが曲がっていた。


「また始まったやん!」


 乃亜が笑い出す。


「斉藤家は、一度で家族写真を撮ってはいけない決まりなのかもしれない」


 何枚目かで、ようやく二人が自然に笑った写真が撮れた。


 入学式が始まり、新入生が体育館へ入場する。


 乃亜は新しいクラスの列に並び、保護者席を見た。勝が座っている。その隣の鞄には、杏子の写真が入っていた。


 杏子の姿は見えない。


 それでも、乃亜は背筋を伸ばした。


 担任から名前を呼ばれる。


「斉藤乃亜さん」


「はい!」


 体育館に、はっきりとした返事が響いた。


 式を終えて教室へ移動すると、新しい担任が一人ずつ自己紹介をするよう促した。乃亜の前に座る秋山琴音は美術部へ入るつもりだと話し、隣の藤田怜奈は陸上競技を続けたいと話した。


 乃亜の番が来る。


「斉藤乃亜です。小学生のときからバスケットボールをしています。中学校でも続けます。将来の夢は、日本代表になってオリンピックへ行くことです」


 教室から「すごい」という声が上がった。


 乃亜は少し照れながらも、最後まで前を向いた。


「あと、よく何もないところでぶつかったり、変なシュートを決めたりします」


 琴音が思わず笑う。


「変なシュートって何?」


「ボールかごに入る全自動収納シュート」


 教室に初めて笑い声が広がった。


 新しい学校でも、乃亜らしい日常が始まろうとしていた。


 *


 乃亜は港ブルーサンダース小学部を卒団し、同じ運営母体が新たに設けた「横浜ブルーサンダース女子中学部」へ入団した。


 地域のスポーツ環境を学校単位だけに任せるのではなく、地元のクラブとして小学生から中学生まで継続的に育てていこうという取り組みで、横浜市も練習施設の確保や運営費の一部を支援していた。


 小学部で一緒にプレーしてきた横山紗良も女子中学部へ進み、乃亜と同じコートへ立つことになった。


 初練習の日、乃亜は期待に胸を膨らませて体育館へ入った。


 しかし、練習が始まると、小学生時代との違いをすぐに思い知らされた。


 パスが速い。


 切り返しも鋭い。


 ドリブルの重さも、ディフェンスの圧力も、これまでとはまるで違っていた。


 二年生の主将・神谷凛と一対一になった乃亜は、右へ抜くと見せかけた一瞬の切り返しについていけず、簡単にかわされた。


「速っ……!」


 振り向いたときには、凛のシュートがリングを通過していた。


 次の攻撃では乃亜がボールを持ったが、前を向こうとした瞬間に三年生の真壁葵からボールを奪われた。取り返そうと走るものの、相手の速攻についていけない。


 さらに、得意のスリーポイントシュートを放とうとしたところ、凛に間合いを詰められ、ボールを弾かれた。


 小学部では決められていたプレーが、ほとんど通用しなかった。


 休憩に入ると、乃亜は壁際へ座り込み、肩で息をしていた。


「全然ついていかれへん……」


 紗良も額の汗を拭きながら隣へ座る。


「私も。パスが来たと思ったら、もう次の人が動いてる」


 乃亜は先輩たちの練習を見つめた。


 悔しかった。


 小学生最後の公式戦では、終了二秒前に逆転のスリーポイントを決めた。それでも、ここでは一番下からの出発だった。


 早川真紀コーチが二人の前へ来る。


「初日から全部できる選手はいないよ。小学生と中学生では、体格も判断の速さも違う。まずは、ボールを持ってから考えるのではなく、受ける前に次の動きを決めること」


 乃亜は息を整えながら尋ねた。


「どれくらい練習したら、先輩たちについていけますか?」


「それは乃亜次第。ただし、焦って先輩と同じことをしようとする必要はない。昨日の自分より、今日一つ速く判断する。それを積み重ねなさい」


 練習が再開される。


 乃亜は何度もパスを奪われ、切り返しで置き去りにされた。それでも、転ぶたびに立ち上がった。


 凛が再び一対一を仕掛けてくる。


 乃亜は右への動きに反応しかけたが、先ほどの切り返しを思い出し、一歩だけ踏みとどまった。完全には止められなかったものの、今度は簡単に抜かれず、シュートを難しい角度へ追い込むことができた。


「今の、さっきより良かったよ」


 凛が声をかける。


「ありがとうございます!」


「でも、次は本気で抜くからね」


「うちも本気で止めます!」


 乃亜の目に、負けん気の強い光が戻っていた。


 練習後、床へ大の字になった乃亜を見て、紗良が笑う。


「乃亜、生きてる?」


「体は体育館にあるけど、魂はたぶん港南台駅の上空」


「初日で飛びすぎやろ」


「誰か捕まえて戻して。明日も練習あるから」


 二人の会話を聞いた先輩たちから笑い声が起きた。


 新しいカテゴリー、新しい先輩、新しい速さ。


 乃亜はまだ、そのすべてについていけてはいない。それでも、自分がやると決めたことは、最後までやり通す。杏子から受け取ったその生き方を胸に、必死に食らいついていた。


 *


 その頃、斉藤家の台所では、勝と貴教が入学祝いの夕食作りに挑戦していた。


 献立は、杏子が家族の祝い事によく作っていた煮込みハンバーグとポテトサラダ。デザートには、乃亜の好きなイチゴを使ったケーキを用意する予定だった。


 冷蔵庫の横には、杏子が残した手書きのレシピノートが開かれている。


「玉ねぎは、あめ色になるまで炒める」


 貴教が読み上げる。


 勝はフライパンの中を見つめた。


「この色は、あめ色か?」


「お父さん、それ、まだ白いやん」


「どの時点から、あめ色と呼んでいいんだ?」


「俺に聞かれても知らんよ」


 二人で首をかしげていると、リビングのラジオから「フライデー爆笑ラジオカフェ」が始まった。


 光子と優子の爆笑トークを聞きながら、貴教はひき肉へ卵やパン粉を加えていく。


「次、塩少々」


「少々って、どれくらい?」


「お父さんの手で少々したら多すぎるから、俺がやる」


「信用がないな」


「新型車の開発責任者と料理の味つけは別やろ」


 番組の「爆笑通信」で、電子レンジへ弁当を入れたまま、空の鞄を持って会社へ行ったという投稿が読まれた。光子と優子が大笑いする声につられ、貴教も腹を抱えて笑う。


 その間に、フライパンの玉ねぎから煙が上がり始めた。


「お父さん! あめ色を通り越して、夜空色になってる!」


「火を止めろ!」


 慌てて火を止めた拍子に、勝の肘がボウルへ当たり、パン粉が台所へ舞い上がる。


 そこへ練習を終えた乃亜が帰ってきた。


「ただいま……って、何これ。台所に雪降ったん?」


「入学祝いを作ってる」


「うちの入学祝いで、家を火事にせんといてや!」


「火事にはなってない。玉ねぎが少し成長しすぎただけだ」


「焦げたことを成長って言うな!」


 三人で大騒ぎしながらも、焦げた玉ねぎを取り除き、もう一度最初から炒め直した。


 杏子のレシピノートには、ページの端に短い言葉が書き残されていた。


『焦らず、家族で楽しく作ること。少しくらい形が悪くても、味は変わらない』


 乃亜はその文字を指でなぞった。


「お母さん、こうなるの分かってたんかな」


「俺たちの料理を予言していた可能性はあるな」


 勝の言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。


 出来上がったハンバーグは少し大きさが不ぞろいで、ポテトサラダのキュウリも厚さがばらばらだった。ケーキは生クリームが片側へ寄り、イチゴもきれいな円には並んでいない。


 それでも、三人で作った入学祝いの食卓だった。


 仏壇の杏子にも、小さなハンバーグとケーキを供える。


 勝がグラスを持ち上げた。


「乃亜、中学校入学おめでとう」


 貴教もジュースのグラスを掲げる。


「お姉ちゃん、おめでとう。女子中学部でも頑張れよ」


「ありがとう。貴教も五年生、おめでとう」


 三人がグラスを合わせようとした、そのときだった。


 勝のスマートフォンが鳴った。


 遠山弁護士からの連絡だった。


 黒田慎吾が、最高裁判所へ上告を申し立てたという。


 電話を終えた勝の表情を見て、乃亜は内容を察した。


「黒田、上告したん?」


「ああ」


 貴教が箸を置く。


「また続くんや……」


 せっかくの祝いの席に、重い沈黙が落ちた。


 勝は二人を見て、静かに話した。


「上告については、また遠山先生から説明を聞こう。俺たちが何を伝えるかも、そのときに考えればいい。でも、今日は乃亜の入学祝いだ」


 勝はもう一度グラスを持った。


「黒田が裁判を続けるからといって、乃亜の入学式まで奪わせる必要はない。俺たちは俺たちの新しい生活を始めよう」


 乃亜は少し迷ったあと、グラスを持ち上げた。


「うん。今日は祝っていい日やもんね」


「そうだ」


 貴教もジュースを掲げる。


「乾杯!」


 三人のグラスが重なった。


 ハンバーグを一口食べた乃亜は、目を丸くした。


「見た目はちょっと事故ってるけど、めっちゃおいしい」


「“事故”という表現はやめてくれ」


「ほんなら、見た目は緊急事態やけど」


「もっと悪くなってるぞ」


「味はお母さんのに近いよ」


 乃亜がそう言うと、勝と貴教の表情が和らいだ。


 杏子と全く同じ味ではない。


 もう、同じ食卓を四人で囲むこともできない。


 それでも、杏子が残したレシピを見ながら、三人で新しい祝いの食卓を作ることはできた。


 *


 その夜、乃亜は仏壇の前に新しい制服姿の写真を飾った。


「お母さん。中学生になったよ。女子中学部の練習、めっちゃ速かった。全然ついていかれへんかった」


 乃亜は苦笑しながら、練習で擦った膝へ手を当てた。


「でも、うち、やめへんよ。先輩たちに追いついて、いつか追い越す。オリンピックに行くって、お墓で約束したもんね」


 貴教も隣へ座る。


「お母さん、今日のハンバーグ、食べた? 玉ねぎ一回焦がしたけど、二回目は成功したで」


 台所から勝の声が飛んでくる。


「パン粉の掃除も手伝ってくれ!」


「はーい!」


 貴教が立ち上がり、乃亜もあとを追う。


 仏壇の前に残った杏子の遺影は、新しい制服姿の乃亜を見守るように笑っていた。


 黒田の裁判は、まだ終わらない。


 悲しみも寂しさも、消えたわけではない。


 それでも斉藤家の台所には、再び笑い声が響いていた。


 桜の下で始まった乃亜の中学校生活は、杏子から受け取った夢と、三人で作り直していく日常とともに、確かな一歩を踏み出していた。


 次回予告


 横浜ブルーサンダース女子中学部で、初めての練習試合が決まる。


 先輩たちの速さについていけず、何度もボールを奪われる乃亜。それでも早川コーチは、試合終盤に乃亜をコートへ送り出す。


「追いつこうとするだけじゃ、ずっと相手の背中しか見えないよ」


 一方、五年生になった貴教は、横浜リトルファイヤーズで新たな外野手との定位置争いに直面する。肩の強さでは負けないものの、送球の正確さが大きな課題として残っていた。


 そして最高裁へ提出する書面を前に、勝はこれ以上、子供たちへ裁判の重荷を背負わせるべきか悩み始める。


 次回、第43話「追いつけない背中」。


 新しい場所で壁にぶつかった姉弟は、自分だけの一歩を探し始めます。

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