変わらない判決、続いていく朝
第41話「変わらない判決、続いていく朝」
秋が深まり始めた港南小学校では、運動会や文化行事の準備と並行して、六年生の卒業へ向けた話し合いも少しずつ始まっていた。
乃亜は卒業実行委員の一人に選ばれ、卒業文集や記念行事について、クラスメイトたちと意見を出し合うことになった。持ち前の明るさで話し合いを進めていたが、家族への感謝をテーマにしたページの案が出た瞬間、手にしていた鉛筆が止まった。
「卒業式の日、家族に手紙を渡すのはどうかな」
美羽の提案に、教室から賛成の声が上がる。
「今まで育ててくれてありがとう、とか」
「中学校でも頑張ります、とか書きたい」
楽しそうに話すクラスメイトたちの声を聞きながら、乃亜は窓の外へ目を向けた。
もし事件が起きていなければ、卒業式には杏子も来てくれるはずだった。朝から乃亜の髪を整え、勝と一緒に体育館の保護者席へ座り、卒業証書を受け取る姿をスマートフォンで何枚も撮っただろう。
そして式が終われば、「乃亜、卒業おめでとう」と抱き締めてくれたに違いない。
中学校の入学式も、部活動の試合も、いつか迎える高校や大学の卒業も、成人式も、就職も、結婚も。これから先には、たくさんのお祝い事が待っている。
けれど、そのどこにも杏子はいない。
「乃亜、大丈夫?」
隣に座る美羽の声で、乃亜は我に返った。
「うん。大丈夫」
そう答えたものの、目には涙が浮かんでいた。
美羽は無理に励まさず、机の下で乃亜の手を握った。
「乃亜は、お母さんにも手紙を書いたらええやん」
「読んでもらえへんよ」
「声に出して読んだら、きっと届くよ」
乃亜はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
一方、四年生の貴教は、秋の校内スポーツ行事でクラス対抗リレーの選手に選ばれていた。走ることに自信があるわけではなかったが、野球で鍛えた脚力を担任に見込まれたのだ。
「俺、外野では走るけど、バトン持って走るのは初めてやで」
クラスメイトにそう話しながらも、放課後になると真剣な表情でバトンパスの練習を続けていた。
裁判が続いても、子供たちの毎日は止まらない。学校では次の行事があり、チームでは次の試合があり、宿題も当番も待っている。
しかし、斉藤家には、もう一つ避けて通れない日が近づいていた。
黒田慎吾の控訴審判決の日だった。
*
判決前夜、乃亜はなかなか眠れず、リビングへ下りてきた。
勝は杏子の写真を前に、翌日の書類を確認していた。
「お父さんも眠れへんの?」
「少しだけな」
乃亜は勝の隣へ座ると、膝を抱えた。
「また判決を聞くの、怖い」
第一審で死刑が言い渡されたとき、黒田は反省するどころか、被害者を侮辱する言葉を吐いた。控訴審の法廷でも、黒田は二人が必死に伝えた言葉を鼻で笑った。
明日もまた、何を言われるか分からない。
「無理に法廷へ行く必要はないんだぞ」
勝は娘へ穏やかに話した。
「遠山先生から結果を聞くこともできる。お父さんだけで行ってもいい」
「でも、お母さんの裁判やもん」
「杏子のために何かをすることと、乃亜が自分を傷つけることは違う。行かないと決めても、逃げたことにはならない」
乃亜は黙って杏子の写真を見つめた。
そこへ、眠そうな顔をした貴教が階段から下りてきた。
「二人とも、何してるん?」
「明日の話をしてた」
貴教は勝の反対側へ座った。
「俺も行くよ」
「怖くないのか?」
「怖い。でも、お母さん一人で聞かせるのは嫌や」
貴教は写真の中の杏子へ目を向けた。
「三人で行って、お母さんの写真も持っていったら、四人やろ」
その言葉を聞いた乃亜は、しばらく考えたあと、勝へうなずいた。
「うちも行く。怖くなったら、お父さんの手を握ってもええ?」
「もちろんだ」
翌朝、三人は仏壇へ手を合わせ、杏子の写真を持って家を出た。
*
東京高等裁判所の法廷には、斉藤家だけでなく、佐野幸也、大川節子、負傷者やその家族たちも集まっていた。
幸也は、恵美と恵一が一緒に写った写真を持っている。節子の手には、隆志が五人の孫に囲まれて笑っている写真があった。
黒田が被告人席へ入ってくる。
乃亜の体が強張ると、勝が約束どおり、その手を握った。反対側では、貴教が杏子の写真を胸元に抱えている。
裁判長が判決を言い渡すため、正面を向いた。
「主文。本件控訴を棄却する」
第一審の死刑判決を維持する判断だった。
裁判長は、黒田が事件前に包丁を準備して隠し持ち、川崎駅を繰り返し下見していたこと、発覚を避ける行動を取っていたことなどを改めて指摘した。
精神障害の影響は検討されているものの、善悪を判断し、自らの行動を制御する能力が失われていたとは認められない。第一審が完全責任能力を認めた判断に誤りはないとされた。
さらに、無関係な人々を一方的な不満のはけ口として狙った動機は極めて身勝手であり、三人の命を奪い、十三人を負傷させた結果は重大であること、黒田が現在まで被害者や遺族への謝罪をしていないことも述べられた。
「第一審判決の量刑が不当に重いとは認められません」
裁判長の声が、静かな法廷に響いた。
黒田は表情を変えず、弁護人へ顔を向けた。
「最高裁まで行くからな」
その声は小さかったが、乃亜たちの席にも聞こえた。
貴教が杏子の写真を握り締める。
「まだ続けるん……?」
勝は息子の肩を抱いた。
控訴審の判決が出ても、それで裁判のすべてが終わるとは限らない。黒田には最高裁判所へ上告する権利が残されている。
閉廷後、裁判所の外では遺族と負傷者たちが取材に応じた。
佐野幸也は、控訴が棄却されたことについて、静かな声で話した。
「第一審の判断が維持されたことは、当然の結果だと受け止めています。黒田被告には、これ以上、恵美たちを侮辱し、遺族の苦しみを長引かせるためだけの裁判を続けないでほしいと思います」
大川節子も、隆志の写真を胸に抱いた。
「法的に上告する権利があることは理解しています。それでも遺族としては、もう上告せず、自分に下された判決と向き合ってほしいと願っています」
負傷者の新井理央も、同じ思いを語った。
「裁判が開かれるたびに、あの日の光景を思い出します。被告には、これ以上責任から逃げず、判決を受け入れてほしいです」
最後に、勝が取材陣の前へ立った。
「控訴審でも、黒田被告に完全責任能力があり、死刑が相当だと判断されました。私たちも、これ以上の上告はしないでほしいと思っています。ただ、判決が維持されても、杏子は戻りません。私たちにとって大切なのは、杏子がどのような人だったのかを忘れず、残された三人で生きていくことです」
その日の夕方、三人は港南台の自宅へ戻った。
乃亜と貴教は仏壇の前へ座り、杏子へ判決を報告した。
「お母さん。一審と同じ死刑やったよ」
「でも、黒田はまだ裁判を続けるかもしれんって」
乃亜は写真の中の母を見つめた。
「いつになったら、ほんまに終わるんやろ」
勝は二人の後ろに座った。
「裁判がいつ終わるのかは、まだ分からない。でも、俺たちの毎日まで裁判だけにしてしまう必要はない。明日は学校がある。乃亜には卒業実行委員の仕事があって、貴教にはリレーの練習がある。それも、二人にとって大切なことだ」
裁判が終わらなくても、朝は来る。
三人は翌日の支度を始めた。
*
季節は秋から冬へ移り、やがて港南台にも春の気配が近づいた。
乃亜の卒業式まで、あと一週間。
教室では、家族へ渡す手紙を書く時間が設けられた。乃亜は二枚の便箋を机に置いた。一枚は勝へ、もう一枚は杏子へ宛てたものだった。
『お母さんへ。
もうすぐ小学校を卒業します。
お母さんに卒業式を見てほしかったです。卒業証書を受け取るところも、中学校の制服を着たところも見てほしかったです。
これから、まだたくさんのお祝いがあると思います。そのたびに、お母さんがいないことを寂しいと思うはずです。今でも、お母さんに会いたくて泣くことがあります。
でも、うちはバスケを続けます。中学校でも友達をたくさん作って、失敗したら何が悪かったのかを考えて、また挑戦します。
お母さんが教えてくれたことを忘れません。
卒業式の日、ちゃんと見ていてください』
書き終えた乃亜は、便箋に落ちた涙をそっとハンカチで押さえた。
美羽が隣から尋ねる。
「書けた?」
「うん。お母さんの分も書いた」
「きっと喜ぶよ」
卒業式当日の朝、勝は杏子が生前に選んでくれたネクタイを締めた。貴教は少し大きめの上着を着て、乃亜は新しい服に袖を通す。
「お父さん、ネクタイ曲がってる」
乃亜が直そうとすると、勝は苦笑した。
「杏子がいたら、玄関を出る前に直されていただろうな」
「お母さんなら、“もう、勝さんは大事な日に限って”って言いそう」
貴教が杏子の口調をまねると、三人から小さな笑いがこぼれた。
仏壇の前で、乃亜は卒業式の服装を杏子へ見せた。
「お母さん、どう? 似合ってる?」
返事の代わりに、朝の日差しが遺影を照らした。
乃亜は母へ宛てた手紙を鞄へ入れ、三人で学校へ向かった。
*
体育館には、卒業生の保護者や在校生、教職員が集まっていた。
壁には卒業を祝う花飾りが並び、壇上には卒業証書が用意されている。
勝は保護者席へ座り、鞄の中に入れた杏子の小さな写真へ触れた。隣では貴教が、姉の姿を探している。
卒業生が入場し、式が始まった。
一人ずつ名前が呼ばれる。
「斉藤乃亜さん」
「はい!」
乃亜は、体育館に響く声で返事をした。
壇上へ進み、校長から卒業証書を受け取る。正面を向いたとき、保護者席の勝と貴教が見えた。
勝は杏子の写真を胸元へ掲げている。
その瞬間、乃亜には、三人の隣に杏子も座っているように思えた。
――乃亜、卒業おめでとう。
聞こえるはずのない声が、心の中に響く。
乃亜は涙をこらえ、卒業証書を胸に席へ戻った。
式の終盤、卒業生全員で別れの言葉を読み上げた。六年間の思い出、先生や友達への感謝、家族への言葉が続く。
乃亜にも、自分の言葉を読む番が来た。
「今日、この場所で私たちを見守ってくれている家族へ。ここに来ることができなかった大切な人へ。私たちは、もらった優しさを忘れず、新しい一歩を踏み出します」
声は震えていたが、最後まで言い切った。
卒業の歌が始まると、乃亜はもう涙を止められなかった。美羽も泣きながら歌い、隣からそっと手を握った。
式が終わり、校庭で写真撮影が始まった。
美羽やクラスメイトたちと写真を撮り、港ブルーサンダースの横山紗良からも祝福される。
「乃亜、卒業おめでとう。中学生になっても一緒にバスケしようね」
「うん。これからもよろしく」
最後に、勝が家族写真を撮ろうとスマートフォンを構えた。
「三人で撮るぞ」
乃亜は鞄から杏子の写真を取り出した。
「違うよ。四人で撮るんやろ」
通りかかった美羽の母に撮影を頼み、勝、乃亜、貴教が並ぶ。乃亜は卒業証書と杏子の写真を胸に抱いた。
一枚目。
勝が目を閉じた。
二枚目。
貴教が校庭を走る犬に気を取られ、横を向いた。
三枚目。
乃亜が笑い過ぎて、卒業証書を落としかけた。
「ちょっと待って。これ、第12話の家族写真と同じ流れやん!」
乃亜のツッコミに、周囲から笑いが起こる。
「お父さん、普通に笑って!」
「普通の笑顔が一番難しいんだ」
「それ、前にも言ってた!」
何度か撮り直し、ようやく三人が自然に笑った一枚が撮れた。
そこには、卒業証書を抱く乃亜、少し背伸びをする貴教、二人を包むように立つ勝、そして乃亜の胸元で笑う杏子が写っていた。
*
その週の金曜日。
乃亜は「フライデー爆笑ラジオカフェ」へ投稿を送った。
番組の後半、光子がいつもより穏やかな声で読み始める。
「ラジオネーム、“港南台の卒業シューター”さん。乃亜ちゃんからです」
『光子さん、優子さん、こんばんは。今日、港南小学校を卒業しました。お母さんに卒業式を見てもらうことはできませんでしたが、お父さんが写真を持ってきてくれたので、家族四人で式に出られたと思っています。
少し前には、黒田被告の控訴審判決がありました。控訴は棄却され、第一審の死刑判決が維持されました。判決が変わらなかったことは受け止めていますが、それでもお母さんが帰ってこないことは変わりません。
春からは中学生になります。お母さんが安心できるように、勉強もバスケも頑張ります。
そして卒業式の家族写真では、一枚目でお父さんが目を閉じ、二枚目で貴教がよそ見をし、三枚目で私が卒業証書を落としかけました。斉藤家は、卒業式でも一度で写真が決まりませんでした』
読み終えた光子が、涙声のまま笑った。
「乃亜ちゃん、卒業おめでとう。本当に、本当におめでとう」
優子も声を震わせる。
「杏子さんも、きっと一番近くで見てくれとったよ。卒業証書を受け取ったことも、家族写真が一度で決まらんかったことも」
「それにしても勝さん、また目を閉じたん?」
「斉藤家の家族写真、撮影一回目はお父さんが目を閉じる決まりでもあるんかな」
「そして二回目は貴教君のよそ見。伝統芸能みたいになっとるやん!」
スタジオに温かな笑い声が広がった。
光子は少し間を置き、裁判についても言葉を添えた。
「裁判の判断が出ても、杏子さんが帰ってこない悲しみはなくならんよね。乃亜ちゃんたちが無理に区切りをつける必要はないと思います」
優子もうなずく。
「嬉しい日は喜んでいい。寂しい日は泣いていい。中学生になっても、一人で抱え込まんでね。私たちは、これからもずっと応援しとるから」
「卒業のお祝いと、新しい春への願いを込めて、この曲を届けます」
M&Yの歌が流れ始める。
斉藤家のリビングで、乃亜は卒業証書を抱きながら聴いていた。勝と貴教も隣に座っている。
曲が終わると、乃亜は仏壇の前へ進み、卒業証書を杏子へ見せた。
「お母さん。小学校、卒業したよ」
そして、学校で書いた手紙を声に出して読んだ。
途中で何度も涙がこぼれたが、最後まで読み終えた。
「これからも、いっぱいお祝い事があると思う。そのたびに、お母さんに見てほしかったって思う。でも、写真を持っていくからね。ずっと四人で行こう」
貴教が隣へ座る。
「俺の卒業式にも来てな」
勝も二人の後ろに腰を下ろした。
失われた日常が、元に戻ることはない。
控訴審で死刑判決が維持されても、杏子の座っていた椅子が埋まることはない。
それでも、朝は続く。
乃亜は小学校を卒業し、貴教は五年生へ進級する。勝は二人の成長を見守りながら、杏子の分まで祝い、叱り、励ましていく。
仏壇の横には、卒業式の日に撮った新しい家族写真が飾られた。
写真の中では、四人全員が笑っていた。
⸻
次回予告
桜が咲き始めた港南台で、乃亜は中学校の入学式を迎える。
新しい制服、新しい教室、初めて会うクラスメイト。期待を膨らませる一方で、保護者席に杏子がいない現実が、乃亜の胸を締めつける。
「中学生になったうちも、お母さんに見てほしかった」
そんな姉を元気づけようと、五年生になった貴教は、勝と一緒に入学祝いの夕食を作ることを決意する。
しかし、杏子のレシピを頼りに始めた料理は、またしても斉藤家の台所を大混乱へ巻き込んでいく。
一方、黒田慎吾は最高裁判所への上告を申し立てる。
次回、第42話「桜の下の入学式」。
寂しさを抱えたまま、乃亜は新しい制服で、次の一歩を踏み出します。




