三人で迎える応援席
第40話「三人で迎える応援席」
二学期最初の公式戦を前に、斉藤家の玄関には二つの大きなスポーツバッグが並んでいた。
港ブルーサンダースの試合は午前十時、横浜リトルファイヤーズの試合は午後二時開始。会場は別々だったが、勝は両方の試合へ応援に行くつもりで、移動時間や駐車場の場所まで細かく調べていた。
仏壇の前には、杏子が使っていた青い応援タオルと、横浜リトルファイヤーズの赤い帽子が置かれている。勝がそれを鞄へ入れようとすると、乃亜が心配そうに尋ねた。
「それ、持っていくん?」
「ああ。お母さんがいつも持っていっていたものだからな」
貴教は赤い帽子を手に取り、つばの裏側を見つめた。そこには杏子の字で、小さく名前が書かれていた。
『斉藤杏子』
その文字を見た途端、胸の奥に押し込めていた寂しさがあふれてくる。
「今日、お母さん来んのやね」
誰もすぐには返事をできなかった。
貴教は、試合のたびに誰よりも大きな声で応援してくれた母の姿を思い出していた。ヒットを打てば両手を上げ、エラーをして落ち込めば「次があるよ」と笑ってくれた。乃亜もまた、コートの外から自分の名前を呼ぶ杏子の声を思い出していた。
「お母さんがいない試合、ちゃんとできるかな」
乃亜の不安に、勝はすぐ「大丈夫だ」とは言わなかった。
「途中で苦しくなるかもしれない。泣きたくなるかもしれない。それでも、コートとグラウンドには仲間がいる。お父さんも応援席にいる。そして、このタオルと帽子も持っていく」
勝は二人の肩へ手を置いた。
「三人で行こう。お母さんにも見えるように、思い切りやってこい」
乃亜と貴教は杏子の遺影に手を合わせた。
「お母さん、行ってきます」
三人は二つのスポーツバッグを車へ積み込み、最初の試合会場へ向かった。
*
港ブルーサンダースの試合は、序盤から接戦になった。
対戦相手は、市内でも守備の強さで知られる横浜サウスウイングス。乃亜は久しぶりの公式戦という緊張もあり、前半だけで二本のシュートを外した。
一本目はリングの手前、二本目はバックボードへ強く当たって大きく跳ね返った。
「乃亜、下を向かない!」
横山紗良の声が飛ぶ。
「まだ試合は終わってないよ!」
乃亜は顔を上げた。
応援席では、勝が杏子の青いタオルを握っていた。その隣では、野球のユニフォームを着た貴教が、姉の名前を叫んでいる。
「お姉ちゃん、全自動収納シュートは今日は要らんぞ! ちゃんとゴールに入れて!」
「分かっとるわ!」
乃亜が思わず言い返すと、ベンチに笑いが起きた。張り詰めていた乃亜の肩から、少しだけ力が抜ける。
試合は第四クオーターに入っても一進一退を繰り返し、残り十秒で港ブルーサンダースは四十四対四十六、二点のリードを許していた。
相手のシュートが外れ、紗良がリバウンドをつかむ。
「走って!」
乃亜は右サイドを駆け上がった。
残り七秒。
紗良がボールを運び、乃亜へ目を向ける。しかし、相手の選手が二人、乃亜の進路を塞いだ。
残り五秒。
乃亜は一度ゴール下へ切り込み、急停止してスリーポイントラインの外へ戻る。その動きに合わせ、紗良から鋭いパスが届いた。
残り三秒。
ボールを受けた乃亜は、目の前のディフェンスを見た。その向こうにあるゴールと、青いタオルを掲げる勝の姿が視界に入る。
杏子の声が、記憶の中によみがえった。
――乃亜、迷ったときこそ、いつものシュートやで。
残り二秒。
乃亜は迷わず跳んだ。
指先から離れたボールが、高い弧を描く。終了を知らせるブザーが鳴るのと、ボールがリングへ吸い込まれるのは、ほとんど同時だった。
四十七対四十六。
逆転のスリーポイントシュートだった。
一瞬の静寂のあと、体育館が大きな歓声に包まれた。紗良をはじめ、チームメイトたちが乃亜へ駆け寄る。
「乃亜、入った!」
「勝ったよ!」
乃亜は仲間にもみくちゃにされながら、応援席を見上げた。
勝が青いタオルを掲げ、貴教が飛び跳ねている。その隣に杏子の姿はない。
嬉しいはずなのに、乃亜の目から涙があふれた。
「お母さん……見てた?」
紗良が乃亜の肩を抱く。
「きっと、特等席で見てたよ」
乃亜は泣きながら笑い、仲間たちともう一度喜び合った。
*
試合後のあいさつを終えると、斉藤家は急いで車へ乗り込み、横浜リトルファイヤーズの試合会場へ向かった。
「お姉ちゃん、最後のシュート、すごかった!」
助手席の貴教が興奮気味に話す。
「貴教も打ってきいや。うちだけ活躍して、今日は終われへんで」
「プレッシャーかけんなよ!」
「姉からの愛ある激励です」
「愛が重いわ!」
運転席の勝が、久しぶりに声を上げて笑った。
野球場へ到着すると、今度は乃亜が青いユニフォームの上から、横浜リトルファイヤーズの応援タオルを首へかけた。勝は杏子の赤い帽子をかぶり、バックネット裏の応援席へ向かう。
試合は両投手の好投で、二対二のまま七回裏を迎えた。
二死二塁。
次の打者は、八番・ライト、斉藤貴教。
大森監督が貴教を呼び止める。
「貴教、決めようとしすぎるな。ボールを最後まで見ろ。練習でやってきたことを、そのまま出せばいい」
「はい!」
貴教はバッターボックスへ向かった。
応援席から乃亜の声が飛んでくる。
「貴教! 大好きな紗良にも報告できるヒット打て!」
「今それ言うな!」
観客席に笑いが起き、貴教の顔が一気に赤くなる。
「お姉ちゃん、あとで覚えとけよ……」
それでも、その一言で緊張が少しほどけた。
相手投手の初球は外角のボール。二球目は内角低めへ外れた。
三球目、真ん中付近へ速球が来る。
貴教は力いっぱい振ったが、打球は大きくファウルゾーンへ切れていった。
「貴教、力みすぎだ!」
大森監督の声が聞こえる。
貴教は一度バッターボックスを外し、深く息を吐いた。
応援席を見る。
赤い帽子をかぶった勝がいる。その横で、乃亜が両手を振っている。けれど、いつもなら聞こえていた杏子の声はない。
貴教の胸が苦しくなった。
――貴教、打てん日もあるよ。でも、振らんかったら当たらへんで。
母が初打席のあとにかけてくれた言葉が、心の中で聞こえた。
「お母さん、力貸して」
貴教はもう一度構えた。
四球目は外角への変化球。貴教は手を出さない。
二ボール、二ストライク。
五球目。
投手が投げたボールは、外寄りの高さへ入ってきた。
貴教はボールから目を離さず、踏み込んだ。金属バットの乾いた音が、グラウンドに響く。
打球は一、二塁間を鋭く抜け、ライト前へ転がった。
二塁走者が三塁を回る。
「ホームまで行け!」
ベンチから声が上がる。
ライトから返球されるが、わずかにそれる。走者が本塁へ滑り込み、主審が両腕を広げた。
「セーフ!」
三対二。
七回裏二死からの、サヨナラヒットだった。
一塁ベース上で、貴教は両腕を突き上げた。チームメイトたちがベンチから飛び出し、貴教を取り囲む。
「貴教、やったな!」
「ナイスバッティング!」
喜びの輪の中で、貴教は応援席を見た。勝が赤い帽子を高く掲げ、乃亜が涙を拭きながら拍手している。
貴教もまた、目に涙をためていた。
試合後、姉弟はそれぞれの決勝打について何度も話した。
「うちのスリーポイント、最後の二秒やで」
「俺は七回裏ツーアウトからのサヨナラやで」
「どっちがすごいかな」
「両方すごいに決まってるやろ」
勝が笑いながら答えると、二人は杏子の応援グッズへ目を向けた。
「お母さんが、力を貸してくれたのかな」
乃亜の言葉に、勝は少し考えてから答えた。
「そうかもしれないな。でも、シュートを決めたのは乃亜だ。紗良ちゃんがいいパスを出して、チームのみんなが最後までつないでくれた。ヒットを打ったのも貴教だ。二人が練習して、仲間と一緒に諦めなかったから出た結果だよ」
貴教は赤い帽子を抱き締めた。
「じゃあ、お母さんは背中を押してくれたんやね」
「きっとな」
その夜、乃亜と貴教は試合球を仏壇へ供えた。
「お母さん、二人とも決めたよ」
「ちゃんと見てくれた?」
遺影の杏子は、まるで二人を褒めるように笑っていた。
*
その数週間後、黒田慎吾の控訴審第一回公判が、東京高等裁判所で開かれた。
弁護側は、第一審が黒田の精神障害の影響を十分に評価していないとして、責任能力と量刑の判断を改めるよう求めた。検察側は、第一審判決に事実認定や法令適用の誤りはなく、控訴を棄却すべきだと主張した。
勝、乃亜、貴教も被害者参加人として法廷にいた。
控訴することは、黒田に認められた権利である。勝は何度も二人へ説明していた。それでも乃亜と貴教は、もう一度、自分たちの言葉で黒田へ伝えたいと望んだ。
裁判所の許可を受け、二人は遺族として意見を述べることになった。
先に立ったのは乃亜だった。
緊張で指先が震えていたが、証言台の前から目をそらさなかった。
「控訴するのは、あなたに認められた権利だと聞きました。だから、控訴したことだけを悪いとは言いません」
黒田は無表情のまま、乃亜を見ている。
「私はバスケットボールをしています。バスケには、たくさんのルールがあります。どんなにシュートが上手でも、相手をわざと傷つけたり、決められたルールを守らなかったりする人がいれば、公正な試合にはなりません」
乃亜は一度息を吸った。
「審判の判定に間違いがないかを確かめる仕組みはあります。でも、自分の思いどおりにならなかったからといって、審判や相手を傷つけていいことにはなりません。判定が出たあとも、相手を侮辱していい理由にはなりません」
第一審で黒田が放った言葉が、乃亜の頭によみがえる。
『勝手に死んだんだろ』
『たった三人死んだだけ』
乃亜は涙をこらえながら続けた。
「あなたは、やってはいけない殺人をして、私たちのお母さんを奪いました。バスケットボールなら、相手を故意に傷つけ続けて、反省もしない選手は退場です。それでも繰り返すなら、もう試合へ出る資格はありません」
続いて貴教が前へ立った。
用意していた紙を持つ手が、小さく震えている。
「僕は野球をしています。野球でも、審判のジャッジに従って試合をします。判定を確かめる決まりがあるときは、その決まりの中で確かめます。でも、気に入らないからといって、バットで相手を殴ったり、審判を傷つけたりしてはいけません」
貴教は黒田をまっすぐ見た。
「そんなことをしたら、野球選手でいる資格はありません。永久追放になると思います」
法廷は静まり返っていた。
「あなたは、僕のお母さんを殺しました。お母さんは、転んだ陽向君を助けただけです。僕の野球をいつも応援してくれて、僕がヒットを打ったら、僕より喜んでくれました」
貴教の声が詰まる。
勝は席から息子を見守っていたが、代わってやることはできなかった。これは貴教が自分で選び、自分で伝えようとしている言葉だった。
「この前、僕はサヨナラヒットを打ちました。でも、お母さんは応援席にいませんでした。これから僕が何本ヒットを打っても、お母さんに見てもらうことはできません」
貴教は涙を拭い、最後まで言葉を続けた。
「人としての心がまだ残っているなら、これ以上、お母さんたちを悪く言わないでください。裁判を、自分は悪くないと言い続けるために使わないでください。下された判決と、自分がしたことに、きちんと向き合ってほしいです」
最後に、乃亜がもう一度黒田へ語りかけた。
「バスケットでも野球でも、ルールがあるから、みんなが同じ場所で競技を続けられます。世の中にも、人を傷つけてはいけない、殺してはいけないという決まりがあります。あなたは、それを破って、三つの人生と、たくさんの人の日常を壊しました」
乃亜は、杏子の写真を胸元に抱いた。
「私たちは、あなたの控訴する権利を奪うことはできません。でも、権利があることと、責任から逃げ続けていいことは同じではありません。もう一度、ちゃんとお母さんたちの名前と向き合ってください」
黒田はしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻で笑った。
「スポーツと裁判を一緒にするなよ」
その言葉に、貴教の肩が震える。
乃亜は引き下がらなかった。
「同じだとは言ってません。でも、自分だけはルールを守らなくていいと思っているところは同じです」
裁判長が黒田へ発言を控えるよう告げ、二人の意見陳述は終わった。
席へ戻った乃亜と貴教を、勝が両腕で抱き寄せる。
「二人とも、よく伝えたな」
乃亜は泣きながら首を横に振った。
「怖かった。途中で逃げたくなった」
「逃げたくなっても、最後まで立っていた。それで十分だ」
貴教は勝の胸へ顔を押しつけた。
「お母さん、聞いてくれたかな」
「きっと、聞いていたよ」
控訴審は、この日だけでは終わらなかった。裁判所は双方の主張をさらに検討し、後日、判決を言い渡すことになった。
法廷を出ても、黒田の態度が変わったわけではない。杏子が戻ってきたわけでも、二人の心から恐怖が消えたわけでもなかった。
それでも乃亜と貴教は、自分たちの声で母の人生を伝えた。
その日の帰り、三人は港南台の自宅へ戻ると、仏壇の前に並んだ。
「お母さん。今日は、ちゃんと言ってきたよ」
乃亜が報告すると、貴教も続けた。
「俺、途中で泣いたけど、最後まで言えた」
勝は二人の肩を抱き、杏子の遺影を見つめた。
応援席に杏子はいない。
法廷で隣に座ることもない。
それでも、杏子が二人へ教えた優しさと強さは、シュートを放つ指先にも、バットを振り抜く両腕にも、自分たちの言葉で不条理へ立ち向かう心にも残っていた。
三人で迎えた応援席から、斉藤家は少しずつ、新しい日常へ歩き始めていた。
次回予告
黒田慎吾の控訴審判決の日が近づく。
検察側は第一審の死刑判決を維持するよう求め、弁護側は責任能力と量刑について、改めて判断するよう訴える。
「また判決を聞くの、怖い」
乃亜の言葉に、勝は無理に法廷へ行く必要はないと伝える。しかし乃亜と貴教は、杏子の写真を持って、もう一度家族三人で判決を聞くことを選ぶ。
一方、学校では秋の行事が近づき、乃亜と貴教はそれぞれ新しい役目を任される。裁判が続いても、二人の毎日は止まらない。
次回、第41話「変わらない判決、続いていく朝」。
法廷で示される二度目の判断。その先にも、斉藤家が生きていく明日は続きます。




