判決のあとに残るもの
第39話「判決のあとに残るもの」
死刑判決が言い渡されてから数日後、勝のもとへ遠山弁護士から連絡が入った。
黒田慎吾が判決を不服として、控訴する意向を示したという。
電話を終えた勝がリビングへ戻ると、乃亜と貴教が不安そうな表情で待っていた。二人には隠さず、分かる範囲で説明すると決めていた。
「黒田が、控訴するらしい」
貴教は、すぐには意味を理解できなかったようだった。しかし、第一審の判決について、もう一度上級の裁判所で審理を求める手続きだと聞かされると、顔を曇らせた。
「まだ続くん……?」
勝は答えようとしたが、言葉が出なかった。
貴教にとって裁判所は、大好きだった母を傷つけた男と向き合い、聞きたくもない暴言を聞かされた場所だった。ようやく判決が出たのに、また同じ苦しみが始まるのではないか。その恐怖が、九歳の少年の表情に浮かんでいた。
乃亜は杏子の遺影を見つめたまま、静かに尋ねた。
「控訴したら、死刑じゃなくなることもあるん?」
「可能性が全くないとは言えない。ただ、控訴したからといって、すぐに判決が変わるわけではない。第一審の判断に間違いがなかったかを、改めて確かめることになる」
「また、お母さんのことを話さなあかんの?」
「どこまで関わることになるかは、これから遠山先生と相談する。でも、乃亜と貴教が無理をして、全部を背負う必要はない」
乃亜は膝の上で手を握り締めた。
「黒田は、お母さんたちの命を奪っておいて、自分の命だけは助けてほしいって言うんやな」
勝は娘の怒りを否定しなかった。
「そう思ってしまうよな。でも、控訴する権利があることと、黒田がしたことを許せるかどうかは別の話だ。お父さんたちは、お父さんたちの立場から、これからも杏子のことを伝えていく」
話を聞き終えた貴教は、仏壇の前へ移動した。
「お母さん。まだ終わらんみたい」
遺影の杏子は、何も答えない。
「俺、もう裁判の話、聞きたくないときもある。でも、お母さんのことを忘れたわけじゃないからね」
勝は息子の後ろに立ち、そっと肩へ手を置いた。
「聞きたくないときは、聞かなくていい。野球をしても、友達と遊んでも、笑ってもいい。それでお母さんを忘れたことにはならないから」
その言葉は、貴教だけでなく、勝自身へ言い聞かせるものでもあった。
*
後日、事件の遺族と負傷者、その家族が集まり、黒田に対する民事訴訟について話し合うことになった。
遠山弁護士は、刑事裁判と民事訴訟の違いを一つずつ説明した。刑事裁判が黒田の犯罪と刑罰を判断する手続きであるのに対し、民事訴訟では、遺族や負傷者が受けた損害について賠償を求めることになる。
治療費、仕事を休まざるを得なかったことによる損失、後遺症、精神的苦痛。亡くなった三人についても、それぞれの人生と、家族が受けた損害を整理しなければならない。
しかし、黒田に十分な資産がなければ、たとえ勝訴しても、認められた金額のすべてを受け取れるとは限らなかった。
説明を聞いた佐野幸也は、恵一の小さな手を握りながらうつむいた。
「お金が欲しくて裁判をするわけではありません。どれだけ積まれても、恵美は戻ってこない。でも、恵美の人生を、なかったことにはされたくないんです」
大川節子も、隆志の写真を胸に抱いていた。
「あの人は、家族のために働いて、五人の孫の成長を楽しみにしていました。それを奪った責任があるということを、記録に残したいんです」
負傷者の新井理央は、今も思うように動かせない腕を見つめた。
「私は生きています。でも、事件の前と全く同じ生活には戻れません。駅へ行くだけで体が震える日もあります。生き残った人の苦しみも、きちんと知ってもらいたいです」
勝もゆっくりと口を開いた。
「杏子の命に値段をつけることなんてできません。私たちが失った暮らしも、子供たちがお母さんと過ごすはずだった時間も、金銭に置き換えられるものではないと思っています」
それでも、何も求めなければ、黒田が壊したものまで見えなくなってしまう。
勝たちは、刑事裁判とは別に、遺族と負傷者が連携して損害賠償を求める方向で準備を始めることにした。ただし、心身の負担が大きい者に参加を強制せず、それぞれが可能な形で関わることも確認された。
会合を終えたあと、幸也が勝へ声をかけた。
「手続きばかりが続きますね」
「ええ。杏子を亡くしてから、書類に名前を書くことが増えました。でも、どの書類を書いても、杏子が帰ってくるわけではない」
二人はしばらく、何も言わずに立っていた。
法律上の手続きは進んでいく。
けれど、遺族の時間は、事件のあの日と今日との間を何度も行き来していた。
*
夏休みが終わりに近づいたある日、乃亜は杏子のスマートフォンに残されていた予定表を開いた。
事件よりも後の日付にも、杏子が入力した予定がいくつも残っている。
『乃亜・ブルーサンダース練習試合』
『貴教・新しいスパイクを見る』
『家族で買い物』
そして、九月の最初の日には、短い言葉が記されていた。
『乃亜と貴教の二学期。笑って送り出す』
乃亜は、その文字を何度も読み返した。
「お父さん、これ……」
勝も画面を見つめ、しばらく動けなかった。杏子は、二学期の朝にも家にいるつもりだった。朝食を用意し、忘れ物がないかを確認し、二人を玄関から送り出すつもりだった。
その当たり前の予定が、黒田によって奪われた。
貴教は目を潤ませながら、スマートフォンをのぞき込んだ。
「お母さん、俺らを笑って送り出すつもりやったんや」
乃亜は涙を拭い、遺影の杏子へ目を向けた。
「ほんなら、二学期の最初の日、うちらが笑って行ってきますって言おう」
「笑えるかな」
「無理に笑わんでもええ。でも、ちゃんと学校へ行く。お母さんに、行ってきますって言う」
貴教は少し考えたあと、うなずいた。
*
二学期最初の朝。
勝は三人分の朝食を食卓へ並べた。以前のように無意識に四人分を用意してしまうことは減ったが、食卓に残る一つの空席へ目が向くことは、今も変わらなかった。
乃亜は制服を整え、貴教はランドセルを背負う。
玄関へ向かう前に、二人は仏壇の前へ並んだ。
「お母さん、二学期始まるよ」
乃亜が手を合わせる。
「うち、今日からまたバスケの練習にも行く。まだ前みたいにできるか分からんけど、みんなに会ってくる」
貴教も目を閉じた。
「俺も野球行く。エラーするかもしれんけど、次に同じ失敗をせんようにする。お母さんが言ってたとおりにするから」
二人は立ち上がると、遺影へ向かって声をそろえた。
「行ってきます」
返事は聞こえなかった。
それでも、玄関を開けた二人の表情には、ほんの少しだけ力が戻っていた。
学校へ向かう道で、美羽が乃亜を待っていた。
「乃亜、おはよう」
「おはよう。待っててくれたん?」
「うん。でも、特別扱いはせえへんで。今日の委員会、仕事いっぱいあるから」
「始業式の日から容赦ないなあ」
「最上級生やろ?」
美羽が笑うと、乃亜も小さく笑った。
貴教の教室では、チームメイトでもある友人たちが声をかけてきた。誰も杏子のことを無理に尋ねなかった。ただ、いつもの席を空け、いつものように貴教を輪の中へ迎えた。
悲しみがなくなったわけではない。
辛さも、苦しさも、母に会いたいという気持ちも消えてはいない。
それでも二人は、再び日常の中へ足を踏み入れた。
*
放課後、乃亜は港ブルーサンダースの練習へ向かった。
体育館へ入ると、横山紗良をはじめ、チームメイトたちが集まってくる。
「乃亜、おかえり」
紗良のその一言で、乃亜の目に涙が浮かんだ。
「ただいま」
監督は特別な言葉を並べず、乃亜へボールを渡した。
「今日は無理をするな。途中で休んでもいい。帰りたくなったら帰ってもいい。まずは、ここに来られたことが一本目のシュートだ」
乃亜はボールの感触を確かめ、ゴールを見上げた。
最初のシュートはリングに弾かれた。二本目も外れ、三本目はバックボードへ強く当たって、ボールかごの中へ直接飛び込んだ。
体育館が一瞬、静かになる。
横山紗良がボールかごを見て言った。
「乃亜、片づけにはまだ早いよ」
「ちゃうねん! 今のは新技、“全自動収納シュート”や!」
「試合で何点入るの?」
「片づけ係からの評価が三点!」
チームメイトたちの笑い声が体育館に広がった。
乃亜自身も笑った。笑った瞬間、母と一緒に笑った時間がよみがえり、胸が痛んだ。それでも、笑うことをやめなかった。
一方、横浜リトルファイヤーズの練習へ戻った貴教は、ライトからの返球に取り組んでいた。
肩の強さは変わらない。しかし、久しぶりの練習で力が入り過ぎ、投げたボールはカットマンの頭上を大きく越えていった。
「あっ!」
ボールは一塁側に置かれていたボールかごへ、見事なノーバウンドで飛び込んだ。
大森監督が腕を組む。
「貴教。肩は相変わらず強いな」
「はい!」
「しかし、そこはストライクゾーンやないぞ」
「でも、かごにはストライクです!」
チームメイトたちが吹き出した。
「次は人に返せ、人に!」
「はい!」
貴教は大きな声で返事をし、再びライトの守備位置へ走っていった。
その姿を、大森監督は何も言わずに見守った。
*
九月最初の金曜日。
斉藤家では、三人が夕食を終え、ラジオの前へ集まっていた。
午後八時、「フライデー爆笑ラジオカフェ」が始まる。
光子と優子の明るい声が、リビングに響いた。
「さあ、今夜も一週間の疲れを笑い飛ばしていきましょう!」
「ただし、腹筋の使い過ぎにはご注意ください。ライブ翌日の筋肉痛について、当番組は責任を負いかねます!」
勝がわずかに笑い、乃亜と貴教も顔を見合わせた。
番組中盤の「爆笑通信」で、光子が一通の投稿を読み始めた。
「ラジオネーム、“港南台の全自動収納シューター”さん。これ、名前からして何か起きとるよ」
優子が笑う。
「もうバスケの選手やなくて、体育倉庫の新製品やん」
光子は投稿の続きを読んだ。
『光子さん、優子さん、こんばんは。乃亜です。二学期が始まり、港ブルーサンダースの練習へ戻りました。最初のシュートは外れ、二本目も外れ、三本目はなぜかボールかごへ入りました。横山紗良ちゃんから、“片づけにはまだ早い”と言われました。これからはゴールとボールかごを間違えないように頑張ります』
優子の笑い声が弾けた。
「乃亜ちゃん、復帰一投目から新競技を作っとる!」
「バスケットボール改め、バスケット収納ボール!」
続いて、もう一通の投稿が紹介された。
「ラジオネーム、“ライトからかごへ一直線”さん。こちらは貴教君です」
『僕も野球の練習を再開しました。ライトから返球したら、カットマンではなく、ボールかごへノーバウンドで入りました。監督に、“そこはストライクゾーンやない”と言われました。でも、肩の強さは褒められました。次はちゃんと人に投げます』
光子は笑いながら言った。
「貴教君、それ、コントロールが悪いんか、かごを狙うコントロールが良すぎるんか、どっちなん?」
「斉藤家、姉はボールをかごへ入れて、弟もボールをかごへ入れる。今週は収納強化週間です!」
スタジオに笑い声が広がった。
しかし、二人が練習を再開したという言葉を改めて口にした瞬間、光子の声が震えた。
「乃亜ちゃん、貴教君。練習に戻れたんやね。良かった。本当に良かったね」
優子も、涙をこらえながらマイクへ向かう。
「まだまだ辛い記憶が急に戻ってくることもあると思います。元気やったのに、突然泣きたくなる日もあると思う。そんなときは、我慢せんで声を上げていいからね」
「周りの大人に頼っていいし、お父さんや先生、監督、チームのみんなに話していい。私たちでよければ、いつでも話を聞くからね」
「笑える日は一緒に笑おう。笑えない日は、無理に笑わんでいい。どっちの日も、みんなが杏子さんを大切に思っとることは変わらんから」
乃亜の頬を涙が伝った。
貴教も鼻をすすりながら、ラジオへ向かって小さく答えた。
「ありがとう」
光子は一度息を整え、明るい声を取り戻す。
「というわけで、二人の練習再開を祝して、今夜の曲はこちらです」
ファイブピーチ★の曲が流れ始めた。
それは、杏子が何度も口ずさんでいた曲だった。
三人は何も話さず、その歌を聴いた。悲しいのに、どこか温かかった。杏子との思い出が、痛みだけではなく、三人を支える力にもなり始めていた。
放送終了後の裏トークで、光子と優子は、二人から届いた投稿をもう一度見つめていた。
「“頑張って”って、簡単には言えんよね」
光子の言葉に、優子がうなずく。
「もう十分頑張っとるもんね。学校へ行って、練習へ戻って、投稿まで送ってくれた。それだけですごいよ」
「うちらにできるのは、笑いたいときに戻ってこられる場所を、ずっと残しておくことかもしれんね」
「うん。泣いてもええし、笑ってもええ場所にしよう」
二人は次の放送へ向け、乃亜と貴教から届いた爆笑ネタを大切に保存した。
*
ラジオが終わると、貴教は眠そうに大きなあくびをした。
「明日も練習やろ。もう寝なさい」
勝に言われ、貴教は立ち上がる。
「お母さんに、おやすみ言ってくる」
乃亜も弟と一緒に仏壇の前へ向かった。
「お母さん。今日、ラジオで読まれたよ」
「俺の返球、優子さんに笑われた」
「うちの収納シュートも、めっちゃ笑われた」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
その笑い声を聞いた勝は、目を閉じた。
杏子がいなくなってから、斉藤家の笑い声は一度途切れた。もう二度と戻らないのではないかと思った夜もあった。
戻ってきた笑いは、以前と全く同じではない。
その奥には悲しみがあり、寂しさがあり、杏子への尽きることのない思いがある。
それでも、三人は少しずつ笑えるようになっていた。
翌朝。
乃亜と貴教は、それぞれの練習道具を持って玄関へ立った。
二人は一度仏壇へ戻り、杏子の遺影に手を合わせる。
「お母さん、行ってきます」
返事のない家の中へ、二人の声が響いた。
勝が玄関から声をかける。
「気をつけて行ってこい」
「行ってきます!」
扉が開き、朝の光が差し込む。
悲しみがなくなったわけではない。
辛さも、苦しみも、事件の記憶も消えてはいない。
けれど、いつまでも悲しみに沈んだままでいたら、杏子が悲しむ。二人はそう思いながら、それぞれの仲間が待つ場所へ走り出した。
杏子が予定表に残した願いのとおり、二人は笑って新しい季節へ向かっていった。
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次回予告
二学期最初の公式戦が近づき、乃亜と貴教は、それぞれのチームで本格的な練習を再開する。
しかし、港ブルーサンダースの保護者席にも、横浜リトルファイヤーズの応援席にも、これまで必ずいた杏子の姿はない。
「お母さんがいない試合、ちゃんとできるかな」
二人の不安を知った勝は、杏子が使っていた応援グッズを持ち、両方の試合会場を回ることを決める。
一方、黒田慎吾の控訴が正式に受理され、遺族たちは再び続く裁判と向き合うことになる。
次回、第40話「三人で迎える応援席」。
聞こえなくなった母の声を胸に、乃亜と貴教はもう一度、コートとグラウンドへ立ちます。




