判決の日
第38話「判決の日」
判決の日の朝。
勝は仏壇の前に座り、杏子の遺影を見つめていた。
「今日、判決が出る。杏子も一緒に聞いていてくれ」
乃亜は家族四人で撮った二十枚目の写真を鞄へ入れた。貴教は、その隣に母が応援へ来てくれた試合のボールをそっと置く。
三人とも朝食には、ほとんど手をつけられなかった。
横浜地方裁判所の前には、早朝から大勢の報道関係者が集まっていた。
勝たちは職員に案内され、別の出入り口から庁舎へ入る。待合室には佐野幸也と大川節子、負傷者やその家族たちも来ていた。
「今日で終わるんでしょうか」
幸也の問いに、勝はすぐには答えられなかった。
「一つの判断は出ます。でも、終わるわけではないと思います」
失われた人は戻らない。傷も記憶も、判決と同時に消えるわけではない。
開廷の時刻が近づく。
乃亜は杏子の写真を胸元に抱き、小さな声で語りかけた。
「お母さん、一緒に聞こう」
法廷へ入ってきた黒田慎吾は、傍聴席を見ることなく被告人席へ座った。これまで何度も暴言を吐き、退廷を命じられた男の表情に、反省の色は見えなかった。
裁判長が静かに口を開く。
「本件では、何の落ち度もない三名の尊い命が奪われ、十三名が重軽傷を負いました。また、田村陽向さんをはじめ、事件を目撃した方々の心にも深い傷が残されています」
法廷が静まり返る。
「亡くなられた斉藤杏子さん、佐野恵美さん、大川隆志さんに、深く哀悼の意を表します。負傷された方々、御家族、そして田村陽向さんが、少しずつでも心身の平穏を取り戻されることを願います」
勝は膝の上で拳を握った。
乃亜の目から、静かに涙がこぼれる。貴教は母の写真から目を離さなかった。
裁判長は黒田へ視線を向けた。
「判決を宣告します。被告人は立ってください」
黒田がゆっくりと立ち上がる。
「主文。被告人を死刑に処する」
その瞬間、法廷の空気が止まった。
誰も声を上げなかった。喜ぶ者もいなかった。
乃亜は杏子の写真を強く抱き締めた。貴教は勝の腕にしがみつき、唇を震わせていた。
裁判長は判決理由を読み上げる。
黒田は事件前、包丁を人目につかないよう隠して川崎駅へ持ち込み、何度も駅を訪れて混雑する時間帯や駅員の配置を確認していた。警察に止められる可能性を考え、声をかけられた際には駅を立ち去っている。
それらの行動は、自らの行為が社会的、法的に許されないことを理解していた証拠とされた。
「精神障害や人格上の偏りが犯行へ一定の影響を与えたことは否定できません。しかし、被告人は目的に沿って準備し、発覚を避ける行動を取り、対象と場所を選択していました」
二人の精神科医が示した意見を慎重に検討した結果、善悪を判断し、行動を制御する能力が失われていたとは認められない。著しく低下していたともいえない。
裁判長と裁判員は、黒田に完全責任能力があったと判断した。
さらに、犯行の無差別性、被害の重大さ、身勝手な動機、遺族や負傷者へ与えた苦痛が述べられる。
「斉藤杏子さんは、転倒した田村陽向さんを守ろうとして命を奪われました。佐野恵美さんは三歳の息子を育てる母親であり、幼稚園教諭として多くの子供たちに慕われていました。大川隆志さんは、妻、子供、五人の孫との生活を大切にしていました」
三人ではなく、三つの人生。
その一人一人に、名前があり、家族があり、続くはずだった明日があった。
「被告人は公判においても、『勝手に死んだ』『たった三人死んだだけ』などと発言しました。被害者への謝罪や、自らの行為と向き合う態度は、最後まで認められませんでした」
裁判長は一度言葉を切り、黒田を正面から見据えた。
「死刑は、人の生命を奪う、究極の刑罰です。したがって、その適用には最大限慎重でなければなりません。本件についても、裁判官と裁判員は、証拠と法に基づき、長時間にわたって議論を重ねました」
被害者の数だけで刑を決めたのではない。
犯行の計画性、残虐性、結果の重大さ、動機、犯行後と公判中の態度、責任能力。すべてを検討しても、極刑を回避すべき事情は見いだせない。
それが、裁判所の結論だった。
読み上げが終わろうとしたとき、黒田が突然笑った。
「俺だけが悪いみたいに言いやがって。俺をこうした社会は裁かれないのかよ」
裁判長が制止する。
「発言をやめなさい」
「死刑? できるならやってみろよ。あいつらが運悪く死んだだけだろ。俺に謝れって言うほうがおかしいんだよ!」
傍聴席から息をのむ音が聞こえた。
貴教が耳を塞ごうとすると、乃亜が弟の肩を抱き寄せた。
「もう聞かんでええ」
それでも乃亜自身の体は震えていた。
裁判長は厳しい声で告げる。
「被告人に退廷を命じます」
刑務官に促されても、黒田はなお何かを叫び続けた。謝罪の言葉は、最後まで一言もなかった。
黒田が法廷から連れ出されたあと、裁判長は、この重い事件に向き合い続けた裁判員へ、困難な職務を果たしたことに対する言葉を述べた。
そして、第一審の裁判は閉廷した。
法廷を出た貴教が、勝に尋ねた。
「これで終わったん?」
勝はしゃがみ、息子と同じ目の高さになる。
「今日、一つの判決は出た。でも、黒田には控訴する権利がある。まだ裁判が続くかもしれない」
「死刑になっても、お母さんは帰ってこんのやろ」
「……うん」
勝は、それ以外の答えを持っていなかった。
廊下の椅子に座った乃亜は、杏子の写真を見つめた。
「お母さんを殺したことは、悪いことやって認められた。でも、全然うれしくない」
幸也も、恵一が描いた家族の絵を抱いていた。
「私もです。判決を聞けば、何かが変わると思っていました。でも、恵美がいないことは何も変わらない」
節子は、隆志の写真へ手を添えた。
「死刑でも、無期懲役でも、あの人と過ごすはずだった時間は戻りません」
その日の会見で、勝は遺族を代表して短い言葉を述べた。
「黒田被告に完全な責任能力があったと認められたことは、重要だと受け止めています。ただ、これは勝利ではありません。杏子も、恵美さんも、隆志さんも帰ってきません。負傷された方々の苦しみも、陽向君の心の傷も、今日でなくなるわけではありません」
勝はカメラの向こうではなく、隣に座る乃亜と貴教を見た。
「私たちは、判決のあとも生きていかなければなりません」
一方、接見室で黒田と向き合った弁護人は、控訴について説明していた。
「あなたには判決を不服として控訴する権利があります。期限内に、自分で判断しなければなりません」
「決まってるだろ。控訴だ。死刑なんか認めるか」
「第一審の弁護活動は、これで一区切りです。今の信頼関係のまま、私たちが控訴審でも弁護を続けることはできません。別の弁護人が担当する可能性もあります」
弁護人は、静かに黒田を見た。
「弁護人の役割は、あなたの行為を肯定することではありません。適正な手続きと権利を守ることです。控訴するかどうかを決める前に、あなたが奪ったものと、一度でも向き合ってください」
「説教かよ」
黒田は顔を背けた。
「俺は悪くない」
数日後、正和と文江は拘置所を訪れた。
ガラス越しに息子を見た文江は、以前よりもさらに小さく見えた。
正和が先に口を開く。
「慎吾。控訴するな」
「何だよ。死刑になれって言うのか」
「お前には、法的には控訴する権利がある。俺たちがそれを消すことはできん。だが、俺たちは控訴を支えない」
正和の声は震えていた。
「お前が奪った三人の命と、傷つけた人たちに向き合え。命をもって償うべきだと、俺は思っている」
文江も涙を拭わずに言った。
「せめて一度でいいから、杏子さん、恵美さん、隆志さんの名前を呼んで謝って。あの人たちは、あんたの不満とは何の関係もなかったのよ」
黒田はしばらく黙ったあと、吐き捨てるように言った。
「なんだよ。最後は親も俺を見捨てるってか」
正和は首を横に振る。
「見捨てるんじゃない。親だからこそ、お前のしたことを許したとは言えんのだ」
「同じことだろ」
「違う。お前が罪から逃げるのを手伝わない。それだけだ」
面会を終えた正和と文江は、互いに支え合いながら拘置所を出た。
その夜、斉藤家では三人が仏壇の前に並んだ。
勝が判決の内容を、もう一度杏子へ報告する。
貴教は野球のボールを遺影の前へ置いた。
「お母さん。判決、出たよ。でも、俺、まだ全然分からん。これでよかったんかも、分からん」
乃亜は家族写真を仏壇へ戻した。
「うちも分からん。でも、お母さんが悪くなかったことだけは、ちゃんとみんなに伝わったよ」
三人の言葉が途切れると、家の中は再び静かになった。
判決は下された。
けれど、杏子のいない斉藤家の暮らしは、明日も続いていく。
勝は遺影を見つめ、静かに語りかけた。
「杏子。裁判が終わっても、俺たちの悲しみは終わらない。でも、三人で生きていく。何度立ち止まっても、少しずつ歩いていくから」
遺影の中の杏子は、あの日と変わらない笑顔で三人を見つめていた。
次回予告
死刑判決から数日後、黒田慎吾が控訴する意向を示す。
「まだ続くん……?」
貴教の問いに、勝は言葉を失う。
一方、事件の遺族と負傷者たちは、刑事裁判とは別に、黒田へ損害賠償を求める民事訴訟について話し合う。しかし、たとえ判決を得ても、失われた命や暮らしを金銭で取り戻すことはできない。
そんななか、乃亜は杏子の予定表に残された、一つの書き込みを見つける。
『乃亜と貴教の二学期。笑って送り出す』
次回、第39話「判決のあとに残るもの」。
裁判が続いても季節は止まらず、杏子のいない斉藤家にも、新しい朝がやって来ます。




