三人ではなく、三つの人生
戻らない日常2
第37話「三人ではなく、三つの人生」
最終意見が述べられる公判の日、勝は一枚の家族写真を内ポケットに入れた。町内会の広報誌のために二十回も撮り直し、ようやく四人全員が笑った写真だった。
乃亜が持ってきたのは、白いブラウス姿の杏子を描いた絵だった。法廷へ提出するためではなく、裁判所の外で待っている間、母の顔を忘れないためだった。
貴教は、新しいグローブを選んだ日に杏子の写真へ見せたことを思い出し、小さな野球ボールをカバンへ入れた。
「それも持っていくん?」
乃亜が尋ねると、貴教はうなずいた。
「お母さんが、またヒット打ったら教えてって言うてたから」
三人が法廷へ持っていくものは、それぞれ違っていた。それでも、どれも杏子が生きていた毎日につながっていた。
*
法廷には、佐野幸也と大川節子、負傷者の新井理央や森川修司、その家族たちも集まっていた。
幸也は、息子の恵一が描いた家族の絵を胸に抱いていた。三人が手をつなぎ、頭上には大きな太陽が描かれている。恵美が亡くなったことを、まだ十分に理解できていない頃に描いた絵だった。
節子は、隆志と五人の孫が一緒に写った写真を持っていた。公園のベンチで、隆志の膝や両隣に孫たちが集まり、誰が一番近くへ座るかで競い合っている写真だった。
三人の遺族は互いに目を合わせ、静かに頭を下げた。
法廷へ入る前、幸也が口を開いた。
「今日は、三人という数だけで終わらせたくありません」
勝はうなずいた。
「杏子にも、恵美さんにも、隆志さんにも、それぞれの人生がありました」
「負傷した十三人にも、事件のあとを生きている毎日があります」
理央が続けた。
それぞれが抱える痛みは同じではなかった。それでも、黒田が「たった三人」と呼んだ命を、一人ずつ名前のある人生として法廷へ戻したいという思いは共通していた。
*
この日は、黒田慎吾の両親も証人として出廷していた。
父の正和は証言台へ立つと、裁判長から氏名や黒田との関係を確認された。傍聴席へ視線を向けることができず、正面だけを見て答えていた。
「息子さんの幼少期について、覚えていることを話してください」
弁護人の問いに、正和は、慎吾が子供の頃はおとなしく、一人で過ごすことが多かったと答えた。学校で大きな問題を起こしたことはなかったが、自分の思いどおりにならないと、相手が悪いと言って長く恨むところがあった。
「私たちは、それを深刻に考えていませんでした」
正和の声がかすれた。
「そのうち分かるだろう、大人になれば変わるだろうと思っていました。職場の女性との問題についても、慎吾から聞いた話だけで、相手にも原因があるのだろうと思ってしまったことがあります」
「息子さんに対し、今どのような思いを抱いていますか」
正和は被告人席を見た。黒田は椅子の背にもたれ、父親の証言を聞いているのか分からない表情をしていた。
「拘置所でも伝えました。お前が犯した罪は、お前が償えと」
正和は両手を握った。
「もう、あんなのは私の息子ではありません」
弁護人がわずかに顔を曇らせた。
「どのような判決を望みますか」
「死刑にしてください」
法廷が静まり返った。
「亡くなった方は三人です。傷つけられた方は十三人です。子供まで一生苦しむことになった。本人が反省しているなら、まだ何か言えたかもしれません。でも、慎吾は亡くなった方を侮辱しました。親として命乞いをすることはできません」
続いて母の文江が証言台へ立った。顔は憔悴し、証言を始める前から手が震えていた。
「被害者の方々に、何を言っても足りません。私が代わりに死んでも、亡くなった方は戻りません」
文江は、被告人席にいる慎吾へ向き直った。
「どうして謝れないの。どうして、自分がしたことを見ようとしないの」
黒田は答えなかった。
「許されるものなら、私がこの手で殺してやりたいとさえ思いました」
裁判長が静かに制した。
「お気持ちが激しく揺れていることは理解します。しかし、私的に命を奪うことは許されません。証人は、現在の心情として話してください」
文江は涙を拭き、深く頭を下げた。
「分かっています。許されないことです。だから、法に従って裁いてほしいんです」
文江はもう一度、息子を見た。
「私はあなたを産みました。でも、あなたが奪った命まで、私が産み直すことはできない。せめて、自分の罪から逃げないで」
*
証言を聞いていた黒田は、突然、口元に笑みを浮かべた。
「何がおかしいのですか」
裁判長が尋ねると、黒田は肩をすくめた。
「いや、本当ならもっと死ぬはずだったんだけどなと思って」
傍聴席がざわめいた。
「被告人、発言には十分注意しなさい」
「三人で済んだんだから、ありがたいと思えよ。俺って優しいなあ」
文江が証言台で息をのみ、正和は傍聴席で顔を伏せた。
「被告人、発言をやめなさい」
「俺が本気出してたら、もっと――」
「退廷を命じます」
裁判長の声が法廷に響いた。
廷吏が黒田の両側へ立った。黒田はなおも薄い笑みを浮かべていたが、弁護人に促されて立ち上がり、法廷の外へ連れ出された。
扉が閉じたあとも、誰もすぐには動けなかった。
文江は証言台に立っていられなくなり、係員に支えられて席へ戻った。正和は妻の肩を抱いたが、自分も震えていた。
「申し訳ありません……」
正和が遺族席へ向かって頭を下げると、幸也は複雑な表情のまま答えた。
「お父さんが言わせた言葉ではありません」
勝も続けた。
「黒田慎吾が、自分で言った言葉です」
息子との関係を断つと言っても、正和と文江の中から、父親と母親として過ごした年月が消えるわけではない。二人もまた、息子が起こした事件によって、それまでの人生を壊されていた。
しかし、その苦しみと、黒田本人が負うべき責任は別だった。
*
審理が再開され、検察官が論告に立った。
「本件は、被告人が自らの一方的な不満と被害意識を、何の関係もない市民へ向けた無差別殺傷事件です」
検察官は、黒田が事件前に川崎駅を繰り返し訪れていたこと、包丁を準備して隠し持ったこと、人が多くなる時間帯を選んだこと、駅員や警察に発見されないよう行動していたことを挙げた。
「被告人は、自らの行為が制止されるものであることを理解し、人を刺せば死亡する可能性があることも認識していました。精神障害によって善悪を判断する能力や、その判断に従って行動する能力が失われていたとは認められません」
検察官は、三人の名前を一人ずつ読み上げた。
「斉藤杏子さん、三十八歳。夫と十一歳の長女、九歳の長男のもとへ帰宅する途中でした。転倒した七歳の子供を守ろうとして襲われ、翌日亡くなりました」
勝は内ポケットの家族写真へ、服の上から触れた。
「佐野恵美さん、二十九歳。幼稚園に勤務し、夫と三歳の息子と暮らしていました。多くの子供たちに慕われ、息子の成長を何より楽しみにしていました」
幸也は、恵一が描いた絵を胸に抱いた。
「大川隆志さん、五十七歳。妻、子供、五人の孫に囲まれ、家族との将来を楽しみにしていました」
節子は目を閉じ、夫の名前を心の中で呼んだ。
「三人ではありません。三つの人生です。その一人一人に家族があり、仕事があり、明日するはずだったことがありました」
検察官は、さらに十三人の負傷者について述べた。治療が続く者、仕事へ戻れない者、駅や電車を利用できなくなった者。家族もまた、事件後の恐怖と向き合っていた。
「被告人は、法廷においても被害者を侮辱し、反省や謝罪を示すどころか、さらに多くの人が死亡すればよかったと発言しました。その刑事責任は、極めて重大です」
検察官は裁判官と裁判員へ向き直った。
「被告人を死刑に処することを求めます」
*
被告人が退廷したまま、弁護人は最終弁論に立った。
「被告人の法廷での発言は、到底容認できるものではありません。弁護人としても、遺族や被害者の方々が受けた苦痛を軽視するつもりはありません」
弁護人は、鑑定に関する資料を手に取った。
「しかし、刑罰は怒りだけで決められるものではありません。被告人には、長年にわたる対人認識のゆがみと、極端な被害意識がありました。犯行当時、それらが判断能力や行動を制御する能力へ重大な影響を及ぼしていた可能性について、合理的な疑いが残ります」
弁護側は、少なくとも心神耗弱が認められるべきであり、死刑を選択することは避けるべきだと主張した。
「被告人の態度が不快であり、許し難いからこそ、法廷は冷静に責任能力を判断しなければなりません。死刑は取り返すことのできない刑です。精神障害の影響を慎重に評価し、極刑を回避するよう求めます」
勝は弁護人の言葉を聞きながら、感情が激しく揺れるのを感じた。黒田のために刑を軽くする主張を聞くことは苦しかった。それでも、弁護人が役割として主張していることと、黒田自身の言葉は分けて考えなければならないと、遠山から説明を受けていた。
法廷が感情だけで刑を決めないからこそ、杏子たちの命を奪った責任も、証拠に基づいて認定されなければならない。
*
最後に、被害者参加人として幸也が意見を述べた。
「黒田被告は、『たった三人』と言いました」
幸也は、恵一の絵を胸元に掲げた。
「この絵の真ん中にいるのが、妻の恵美です。息子は今も、母親を三人家族の真ん中に描きます。妻が亡くなったと理解できないのではありません。いなくなったあとも、母親だからです」
幸也は声を震わせながら続けた。
「命を、人数だけで数えないでください。妻は三人のうちの一人ではありません。私の妻で、恵一の母親で、子供たちの先生でした」
節子も、隆志と孫たちの写真を手に取った。
「夫も、三分の一の命ではありません。家族の中心にいた、ただ一人の人です」
勝は家族写真を机の上へ置いた。
「杏子も同じです。私の妻であり、乃亜と貴教の母親でした」
勝は、退廷した黒田が座っていた空席を見た。
「黒田被告が何度、妻を侮辱しても、杏子の人生の価値は変わりません。ただし、その言葉は、被告が今も被害者の命をどう見ているのかを示しています。責任に見合う、最も厳しい刑を求めます」
*
すべての審理が終わり、判決の日が告げられた。
裁判所の外へ出ると、乃亜と貴教が支援員の西村と待っていた。勝の表情を見た乃亜は、すぐに父のそばへ寄った。
「終わった?」
「ああ。あとは判決を待つ」
「お母さんのこと、ちゃんと話せた?」
「話したよ。恵美さんのことも、隆志さんのことも、ご家族が伝えた」
貴教が尋ねた。
「あいつ、また何か言ったん?」
勝は迷ったが、隠さずに、黒田が法廷から退廷させられたことを伝えた。暴言の詳しい内容は、今この場では話さなかった。
「でも、お母さんたちの人生は、あいつの言葉では決まらない」
勝は二人の肩を抱いた。
「今日、法廷にいたみんなが、一人一人の名前を聞いた。どんな家族がいて、どんな毎日を生きていたのかも聞いた」
乃亜は白いブラウス姿の杏子を描いた絵を胸に抱いた。
「お母さんは、三人のうちの一人やない。私らの、たった一人のお母さんや」
「そうだ」
三人は裁判所を振り返らず、駅へ向かって歩き始めた。
次回予告
すべての審理を終え、判決の日を迎える。
裁判所の前には多くの報道関係者が集まり、勝、乃亜、貴教は、杏子の写真を持って法廷へ向かう。
裁判官と裁判員が示す、黒田慎吾の責任能力についての判断。
そして、三件の殺人と十三件の殺人未遂に対する刑。
「主文。被告人を――」
判決を待つ間、乃亜は母の写真へ小さく語りかける。
「お母さん、一緒に聞こう」
次回、第38話「判決の日」。
どのような判決が下されても、失われた三つの人生が戻ることはありません。




