白いブラウスの朝
戻らない日常2
第36話「白いブラウスの朝」
事件の証拠として杏子のブラウスが法廷に示されたと聞いてから、乃亜は母が事件当日の朝にどんな姿をしていたのか、何度も思い出そうとしていた。
白い半袖のブラウス。紺色のパンツ。肩に掛けた通勤用のカバン。首には栄商事の社員証が下がっていた。
食卓で牛乳をこぼしそうになった乃亜から逃げるように身を引き、「今日だけは白い服なんやから、頼むで」と笑っていた。貴教が食べたパンの粉が袖に付くと、玄関で手を払いながら、「どうしてあんたのパンは、食べた本人より周りに飛んでいくん」と突っ込んでいた。
その姿を絵に残したいと思い、乃亜は画用紙と色鉛筆を食卓へ広げた。
「お母さん、髪は後ろでまとめてたよな?」
「ああ。暑いからって、ひとつにまとめていた」
勝は向かいに座り、記憶をたどった。
「靴は黒?」
「黒だったと思う。少しヒールのあるやつ」
貴教は、画用紙に描かれた杏子の隣へ、自分の姿を勝手に描き足し始めた。
「なんで貴教まで描くん?」
「パンの粉つけた犯人やから」
「犯人って自分で言うんや」
「こっちは平和な犯人です」
乃亜は少しだけ笑い、母のブラウスを白く残した。法廷で示された服の色ではなく、朝の光を受けていた白を、そのまま紙の上に残したかった。
*
公判では、ほかの負傷者と遺族からも証言や意見陳述が行われた。
新井理央は証言台へ向かう途中、一度足を止めた。事件後のリハビリによって腕は動くようになっていたが、法廷の張り詰めた空気に触れた瞬間、あの日の川崎駅がよみがえった。
「ゆっくりで構いません」
裁判長に声をかけられ、理央は証言台に立った。
「事件のあと、電車に乗れなくなりました。駅の階段を見ると、あの日の悲鳴を思い出します。後ろから足音が近づくだけで、体が動かなくなることがあります」
事件当日の光景について問われると、理央の呼吸が乱れた。
「人が……みんな逃げていて、転んでいる人もいて……」
そこで声が止まった。理央の目から涙があふれ、用意されたティッシュを受け取っても、しばらく話すことができなかった。
検察官は質問を中断し、裁判長も休憩を提案した。しかし理央は首を横に振った。
「少し待ってください。話したいです」
呼吸を整えてから、理央は続けた。
「事件前の私は、仕事帰りに友人と食事をしたり、一人で買い物をしたりしていました。何も考えずに駅を使っていました。それが普通だったんです」
理央は被告人席へ目を向けた。
「あなたが全部を壊しました。なぜ、あなたに私たちの平穏な生活を壊されなければならなかったんですか」
黒田は理央を見ようとしなかった。
「けがが治れば元に戻るわけではありません。私は今も、あの日の続きの中にいます」
*
森川修司も、事件のあと仕事へ戻れずにいることを語った。目の前で傷ついた人を助けようとしたこと、救護を続けながら、自分の判断が正しかったのかを何度も考えてしまうこと。家族と外出していても、非常口や逃げ道を確認せずにはいられないこと。
「生き残った人間は、無事だった人間ではありません」
森川は静かに言った。
「体に残った傷だけでなく、家族を巻き込みながら、事件後の人生を生きています」
佐野幸也は、妻の恵美について意見を述べた。子供たちに慕われていたこと、三歳の恵一を何より大切にしていたこと、息子が今も母の帰りを待つ日があることを話した。
「息子が成長するたび、妻がいないことを説明しなければなりません。入学式にも、運動会にも、卒業式にも、妻は来られません」
幸也は、膝の上で手を握った。
「妻の人生を奪い、息子から母親を奪い、私たちの将来を壊した責任に見合う刑を求めます。私は、黒田被告に死刑を求めます」
大川節子は、孫たちが隆志へ宛てた手紙を持って証言台へ立った。
「夫は、五人の孫を本当にかわいがっていました。誰か一人を特別扱いしないようにしながら、それぞれの好きなものを覚えていました」
節子は、一番年下の孫が描いた絵を掲げた。
「この子は、今もおじいちゃんに見せたい絵ができると、仏壇へ持っていきます。夫は、ただ電車に乗って帰ろうとしていただけです。あなたとは一度も会ったことがなく、何の関係もありませんでした」
節子は黒田のほうを向いた。
「あなたの不満をぶつけるために、夫の命があったのではありません」
*
検察官は、黒田が事件前に残した文章を法廷で示した。そこには、自分を評価しない女性や、幸せそうに見える家族への不満が書き連ねられていた。
さらに、黒田の交通系ICカードの履歴や駅周辺の防犯カメラ映像から、事件前に何度も川崎駅を訪れていたことが説明された。改札を通っても列車へ乗らず、人通りの多い時間帯にホームやコンコースを歩き回っていた日もあった。
黒田が犯行当日、包丁をカバンの内側へ隠していたことも確認された。
被告人質問に立った検察官は、黒田へ尋ねた。
「なぜ、包丁を外から見えないように隠していたのですか」
「見つかったら、止められるからだよ」
「誰に止められると思ったのですか」
「駅員とか、警察とか」
「包丁を持って駅へ行き、人を刺そうとしていることが知られれば、駅員や警察に制止されると理解していたのですね」
黒田は面倒そうに顔をそむけた。
「分かってたよ。それが何だよ」
「人を包丁で刺せば、相手が大けがをしたり、死亡したりすることも理解していましたか」
「包丁なんだから、そうなることもあるだろ」
傍聴席の空気が揺れた。勝は、机の下で拳を握った。
「それでも犯行を実行したのですか」
「俺をこんなふうにした連中にも、責任がある」
「被害者の方々は、あなたと面識がありません」
「幸せそうにしてるやつらも、俺を相手にしない女も、同じようなもんだろ」
「同じではありません」
検察官の声は冷静だった。
「斉藤杏子さん、佐野恵美さん、大川隆志さんを含む被害者は、あなたを拒絶した人ではありません。あなたの生活に関わったことすらない人たちです」
黒田は返事をしなかった。
「あなたは、包丁を見つからないように隠し、警察に止められることを避け、刺せば人が死ぬ可能性も理解していた。それでも、悪いことだと分からなかったと言えるのでしょうか」
「悪いとか良いとか、どうでもよかったんだよ」
黒田は被告人席へ深く座り直した。
「俺が苦しんでるのに、ほかのやつらが笑ってるのが気に入らなかった。それだけだ」
検察官はしばらく黒田を見たあと、質問を終えた。
*
続いて、長谷川理沙が証人として出廷した。
理沙は黒田の元交際相手ではなかった。同じ職場で働いていた時期があり、黒田から一方的に好意を告げられ、それを断った女性だった。
「当時、私は交際している人がいました。それを伝え、黒田さんとは付き合えないとはっきり断りました」
「その後、何がありましたか」
「何度も連絡が届くようになりました。返事をしなくても続きました。職場の外で待たれていたこともあります。怖くなって、上司と警察へ相談しました」
黒田は、理沙が自分を拒んだことで周囲から人が離れ、人生が壊れたと供述していた。
検察官がそのことについて尋ねると、理沙は黒田へ視線を向けた。
「私は、あなたと交際したことは一度もありません。誰と付き合うか、誰を好きになるかは、私が決めることです」
黒田は鼻で笑った。
「お前が普通に俺を選んでれば、こんなことにはならなかったんだよ」
「被告人、許可なく発言しないでください」
裁判長が制止したが、理沙は証言台で唇を結び、涙をこらえながら続けた。
「あなたを断ったことは、私の罪ではありません。この事件を起こしたのも、私ではありません」
理沙の声は震えていたが、黒田から目をそらさなかった。
「世界は、あなたを中心に動いているんじゃない。女性は、あなたに選ばれるために生きているんじゃありません。誰も、あなたになびく義務はありません」
法廷は静まり返った。
「人を脅し、傷つけ、その責任まで他人に押しつけ続けるあなたを、誰かが好きになる義務なんてありません。少なくとも私は、あなたを選ばなかったことを謝りません」
理沙は一度息を整えた。
「亡くなった方々や、傷ついた方々に申し訳ないと思い続けてきました。でも、私が断ったから事件が起きたのではありません。事件を起こしたのは、黒田慎吾です」
その言葉を聞き、勝は静かにうなずいた。
*
ところが、遺族や負傷者の証言が続くなか、黒田は被告人席で苛立ちを隠さなくなっていった。
幸也が息子の話をし、節子が孫たちの手紙を読み、理央が今も続く恐怖を語ったあと、黒田は弁護人の制止を振り切るように言い放った。
「たった三人死んだだけで、ぐだぐだうるせえんだよ」
法廷のあちこちから息をのむ音が上がった。
「被告人、発言をやめなさい」
裁判長の厳しい声が響いた。
「事実なんだから仕方ないだろ」
「これ以上、審理の秩序を乱す発言を続ければ、退廷を命じることがあります」
黒田の弁護人は席へ戻るよう促した。黒田は不満そうな表情を浮かべながらも、ようやく黙った。
勝の脳裏には、三人の名前が浮かんだ。
斉藤杏子。佐野恵美。大川隆志。
黒田にとっては「三人」という数字でも、それぞれに人生があり、愛する家族がいた。一人が失われるだけで、その周りにある無数の暮らしが変わる。その重さを、黒田は最後まで理解しようとしなかった。
*
公判を終えて帰宅すると、乃亜の絵はほとんど完成していた。
白いブラウス姿の杏子が、玄関で笑っている。片手には通勤カバンを持ち、もう片方の手で袖に付いたパンの粉を払っている。その後ろでは、貴教が口にパンをくわえ、乃亜が牛乳のコップを慌てて押さえていた。
「お父さん、お母さんの顔、こんな感じやった?」
勝は絵の前に座った。
「ああ。よく覚えてるな」
「事件のあとのブラウスだけが、お母さんの服みたいになるの嫌やったから」
乃亜は絵の下に書いた題名を見せた。最初は「事件の日の朝」と書いていたが、その文字を消し、新しく書き直していた。
『お母さんが会社へ行った朝』
「事件の日やなくて、普通の朝やったもんな」
貴教が言った。
「お母さん、普通に仕事行って、帰ってくるはずやった」
勝は二人の間に座った。
「そうだ。あの日も、お母さんは朝からお母さんだった。二人の世話をして、笑って、仕事へ行った」
乃亜は完成した絵を杏子の写真の横へ置いた。
「お母さん、白いブラウス、きれいやったで」
法廷で示された証拠が、事件の残酷さを伝えることは必要だった。それでも三人にとって、杏子の白いブラウスは、傷つけられた服だけではない。
家族の中で笑い、いつもの朝を過ごしていた杏子の服だった。
次回予告
「たった三人死んだだけ」
黒田が法廷で放った言葉に、三人の遺族と負傷者たちは、それぞれの思いを込めて向き合う。
検察官は最終意見で、黒田には完全責任能力があり、周到な準備のもとで無関係な人々を襲った犯行だと主張する。
一方、弁護側は精神障害の影響を重く見るよう求め、死刑を回避すべきだと訴える。
「命を、人数だけで数えないでください」
佐野幸也は、恵一が描いた家族の絵を胸に抱く。
次回、第37話「三人ではなく、三つの人生」。
刑を決める審理が、最後の局面へ進みます。




