勝手に死んだんじゃない
戻らない日常2
第35話「勝手に死んだんじゃない」
法廷から帰った夜、貴教は自分の部屋で眠ることができなかった。目を閉じるたび、黒田慎吾が吐き捨てた言葉が、法廷の冷たい空気とともによみがえった。
『知るか。勝手に死んだんだろ』
布団を頭までかぶっても、声は消えてくれなかった。杏子が朝食を作っていた姿や、野球の試合で手をたたいてくれた笑顔を思い出そうとするのに、その間へ黒田の声が割り込んでくる。
貴教は布団から出ると、廊下を歩き、乃亜の部屋の扉を小さくたたいた。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「起きてるよ」
乃亜も眠れず、ベッドの上で膝を抱えていた。貴教が隣へ座ると、乃亜は弟の肩へ毛布を掛けた。
「あいつの言ったこと、頭から離れへん」
「私も」
「お母さん、勝手に死んでへんよな」
「当たり前や。お母さんは、私らのところへ帰ろうとしてた。病院でも、最後まで生きようとしてた」
乃亜はそう言い切ったものの、自分の胸にも黒田の声が刺さったままだった。
「私、言い返したことは後悔してへん。でも、裁判の邪魔したんかな。急に怒鳴ってしもうたし……」
「お姉ちゃん、間違ったこと言ってないやん」
「でも、遠山さんやお父さんを困らせたかもしれへん」
そこへ勝が来た。二人の部屋に明かりがついていることに気づいたのだった。
「二人とも、眠れないか」
勝が床へ座ると、貴教はすぐ父の腕をつかんだ。
「お母さん、勝手に死んだんやないよね?」
「違う」
勝は迷わず答えた。
「お母さんは家へ帰ろうとしていた。二人に会うために、生きて帰ろうとしていた。黒田が言ったことは、事実ではない」
乃亜が顔を上げた。
「私が言い返したことで、裁判がおかしくならん?」
「遠山さんから連絡があった。審理は証拠に基づいて進められる。乃亜の言葉だけで、裁判の結論が決まることはないそうだ」
「怒ってもよかったん?」
「怒りを感じたことは悪くない。ただ、乃亜があの男の言葉で傷つき続ける必要もない」
勝は二人の間へ座り直した。
「今夜はここで三人で寝ようか」
「お父さんのいびき、うるさくない?」
乃亜が尋ねると、勝は眉を上げた。
「お父さんはいびきをかかない」
「お母さん、よく言ってたで。工事現場かと思ったって」
「それは、お母さんの話を少し大きくする癖だ」
貴教が、ほんの少し笑った。
三人は布団を並べた。すぐに眠れるわけではなかったが、少なくとも黒田の声だけが部屋を占めることはなかった。
*
翌日、田村陽向から一通の手紙が届いた。
封筒の表には、鉛筆で「さいとうさんへ」と書かれていた。勝が開封してよいか確認すると、乃亜と貴教も食卓へ集まった。
『きょうこさんへ。
えきで、ぼくをたすけてくれて、ありがとうございました。ぼくは、まだえきがこわいです。でも、学校にいっています。
さいとうさんが、ぼくはわるくないといってくれました。のあさんと、たかのりくんも、わるくないといってくれました。
ぼくは、きょうこさんがたすけてくれたいのちを、だいじにします。』
最後には、四人の家族らしい絵が描かれていた。杏子と思われる女性と陽向が手をつなぎ、その横に勝、乃亜、貴教が並んでいた。
「お母さんにも読んであげよう」
貴教が言い、乃亜は手紙を杏子の写真の前へ運んだ。
「お母さん、陽向くん、学校行ってるって」
読み終えた乃亜は、手紙を写真のそばに立て掛けた。
「お母さんが守った子、生きてるで。お母さんがしたこと、なくなってへんよ」
勝は、写真の杏子を見つめた。陽向がこれからどのように事件と向き合っていくのかは分からない。それでも、杏子が伸ばした手によって、一人の子供の今日が続いていることは確かだった。
*
次の公判では、本格的な証拠調べが始まった。
田村亮介と沙織も、証人として法廷へ出廷した。陽向は裁判所へ連れてこず、親族に預けていた。
先に証言台へ立った亮介は、緊張で乾いた唇を一度結んでから、事件当日のことを語り始めた。
「私たちは、息子と三人で買い物に出掛けていました。自宅は磯子駅の近くです。川崎駅から電車で帰ろうとして、ホームへ向かっていました」
突然、周囲から悲鳴が上がった。人の流れが一斉に崩れ、何が起きたのか分からないまま、三人も逃げようとした。
「息子の手を握っていました。でも、後ろから人に押されて、手が離れてしまいました」
亮介は、証言台の縁を強く握った。
「名前を呼びました。妻と二人で探しましたが、人が多くて、どこにいるか分かりませんでした」
そのとき、沙織が先に陽向を見つけた。床に転倒した息子のそばで、一人の女性がかがみ込み、陽向を抱き寄せていた。
その女性が杏子だった。
「斉藤杏子さんは、息子の頭を抱えるようにして、守ってくださいました」
亮介の声が震えた。
「その直後でした。黒田被告が杏子さんへ近づき、刃物を振り下ろすのを見ました」
傍聴席から、息をのむ音が聞こえた。
勝は目を閉じなかった。杏子の最後の行動を、田村夫妻の言葉で聞こうと決めていたからだった。しかし、両手は膝の上で震えていた。
「そのあと、別の方が息子を抱き上げて、避難させてくださいました。息子には大きなけがはありませんでした」
亮介は一度、言葉を止めた。
「翌日、杏子さんが亡くなられたことを知りました」
検察官が静かに尋ねた。
「そのことを知ったあと、陽向さんの様子に変化はありましたか」
「はい。僕が転んだから、あの女の人が刺された。僕があの人を殺したんだと言うようになりました」
亮介の目から涙が落ちた。
「息子は何も悪くありません。七歳の子供が、刃物を持った大人から必死に逃げようとして、転んだだけです。それなのに今も、自分を責めています」
続いて証言台へ立った沙織も、息子が夜中に目を覚まし、杏子のことを繰り返し尋ねると話した。
「自分が助からなければ、杏子さんは亡くならなかったと言うんです。どうして七歳の子供が、そんなものを背負わなければならないんでしょうか」
沙織は涙を拭いた。
「杏子さんは、息子を守ってくださいました。その杏子さんが亡くなり、ご家族からお母さんが奪われた。私たちは、息子が助かったことを喜びながら、同時に申し訳ないという気持ちを抱えてきました」
沙織は被害者参加人席の勝へ顔を向けた。
「それでも斉藤さんは、息子に、あなたは悪くないと言ってくださいました。乃亜さんと貴教さんも、同じ言葉を伝えてくれました」
勝は目を赤くしながら、静かに頭を下げた。
*
証拠として、杏子が事件当日に身に着けていた衣服も示された。
乃亜と貴教には事前に内容を説明し、この日の審理には出席させなかった。二人も、見ないことを自分たちで選んでいた。
検察官は、透明な証拠袋に収められた夏用のブラウスを示した。本来は白かった生地が広い範囲で暗く変色し、背中には刃物によってできた大きな損傷が残されていた。
それは単なる布ではなかった。
杏子がその朝、自分で選び、袖を通した服だった。いつものように子供たちを送り出し、勝と言葉を交わし、栄商事へ出勤したときに着ていたものだった。
勝は、最初の数秒だけブラウスを見たあと、視線を机へ落とした。あれを杏子の服だと認めることと、最後まで見続けることは別だった。
検察官は衣服の損傷と鑑定結果をもとに、杏子が背後から受けた攻撃について説明した。必要以上に写真を拡大することはせず、負傷の位置と、死因との関係を示す範囲にとどめた。
裁判員たちは、険しい表情で証拠を見つめていた。一人は思わず手で口元を覆い、別の一人は資料からしばらく顔を上げられなかった。
黒田は被告人席に座ったまま、ブラウスへほとんど目を向けなかった。
*
その日の評議では、裁判長が最初に裁判員へ確認した。
「つらい証拠でした。体調に変化がある方は、遠慮なく申し出てください」
一人の裁判員が、慎重に口を開いた。
「率直に言えば、むごいと思いました。何の落ち度もない女性に、どうしてここまでのことができるのかと……」
別の裁判員も、杏子が子供を守ろうとしていたことに触れた。
「被害の重さは、あのブラウスを見れば分かります。ただ、私たちは感情だけで責任能力を判断してはいけないんですよね」
裁判長はうなずいた。
「そうです。感じた衝撃を否定する必要はありません。しかし、有罪か無罪か、責任能力がどの程度あったかは、法廷で取り調べた証拠をすべて検討して判断します」
裁判員たちは、それぞれの手元にある資料へ目を戻した。
*
責任能力に関する証人尋問では、検察側と弁護側の双方から精神鑑定に関わった専門家が意見を述べた。
検察側の証人となった精神科医は、黒田に強い被害意識や女性へのゆがんだ認識があったことを認めたうえで、それだけで善悪を判断できない状態だったとは言えないと説明した。
「被告人は、犯行に使用する刃物を事前に準備し、見つからないよう隠して駅へ持ち込んでいます。また、駅へ複数回足を運び、人が多くなる時間帯や警戒の状況を確認したと考えられる行動があります」
検察官が尋ねた。
「それらの行動は、どのようなことを示しますか」
「目的に沿って行動を組み立て、発覚を避けようとする能力が保たれていた可能性を示します。供述内容、事件前後の行動、鑑定時の状態を総合すると、心神喪失であったとは考えにくく、私は完全責任能力が保たれていたと判断しました」
弁護人は反対尋問で、計画的な行動があるからといって、直ちに完全責任能力が認められるわけではないと指摘した。
「強い妄想的な確信や病的な思考が、計画の内容そのものに影響していた可能性はありませんか」
「可能性を検討する必要はあります。ただ、被告人が抱いていたのは、自分を受け入れない他者が悪いという身勝手な考えであり、それが精神障害によって支配されたものか、性格や価値観に基づくものかを区別しなければなりません」
続いて、弁護側が依頼した精神科医が証言台へ立った。
「被告人には、対人関係の失敗を外部の責任と捉え、自分が迫害されているという認識を強めていった経過があります。事件当時、その認識が極端に悪化し、結果を現実的に想像する能力や、自らの行動を抑える能力が大きく損なわれていた可能性があります」
弁護人は尋ねた。
「心神喪失、または心神耗弱に該当する可能性があるということですか」
「医学的な観点からは、少なくとも重大な能力低下を検討すべき状態だったと考えます。ただし、心神喪失や心神耗弱に当たるかどうかを最終的に判断するのは裁判所です」
検察官は、黒田が凶器を隠し、駅員から声をかけられた際には目的を明かさず、いったん改札外へ出ていたことを示した。
「自分の行為が他人から制止されることを理解していたのではありませんか」
「それをうかがわせる行動ではあります」
「被告人は事件後、『もっと死ねばよかった』と供述しています。人が死ぬ結果を理解していなかったという見解と、矛盾しませんか」
専門家は少し間を置いた。
「結果を言葉として理解していたことと、その意味を通常と同じ程度に受け止める能力があったかは、分けて考える必要があります」
二人の専門家は、同じ記録を読みながら、黒田の精神状態が行動へ及ぼした影響について異なる評価を示した。
勝には、専門用語の一つ一つを理解するだけでも大きな負担だった。それでも、目をそらさずに聞いた。黒田にどのような状態があったのかを調べることと、杏子が奪われた事実は別である。その両方を法廷で確かめるため、ここにいるのだと思った。
*
帰宅後、勝は、裁判で杏子のブラウスが示されたことを子供たちへ伝えた。詳しい状態は話さず、事件の被害を明らかにする証拠として扱われたとだけ説明した。
「お母さん、あの朝、白い服着てたな」
乃亜が言った。
「覚えてる。私が牛乳こぼしそうになって、お母さんが『今日だけは飛ばさんといて』って逃げてた」
貴教も思い出した。
「俺、パンの粉つけたかもしれへん」
「つけてた。お母さん、玄関で払ってたもん」
三人の中にある白いブラウスは、法廷に提出された姿だけではなかった。杏子が朝の食卓で笑いながら汚れを払い、会社へ向かったときの服でもあった。
乃亜は、陽向から届いた手紙を手に取った。
「お母さんは、勝手に死んだんやない。最後まで誰かを守って、生きて帰ろうとしてた」
「ああ」
勝は答えた。
貴教は写真の杏子へ向かって言った。
「陽向くん、学校行ってるって。お母さん、聞こえた?」
返事はなかった。それでも三人は、母の写真の前に手紙を置いたまま、その日の出来事を話し続けた。
次回予告
責任能力を巡り、異なる意見を述べた二人の精神科医。
裁判では、黒田が事件前に残した文章と、川崎駅を繰り返し訪れた記録が詳しく検討される。
「見つからないように包丁を隠した。それでも、悪いことだと分からなかったと言えるのでしょうか」
検察官の問いに、黒田は初めて自らの言葉で答え始める。
一方、杏子のブラウスが証拠として示されたと知った乃亜は、母が事件当日の朝に着ていた姿を絵に残そうとする。
次回、第36話「白いブラウスの朝」。
事件によって変えられる前の杏子の姿を、家族は記憶の中から取り戻します。




