法廷へ持っていくもの
戻らない日常2
第34話「法廷へ持っていくもの」
遠山佳奈は、勝、乃亜、貴教の前に被害者参加制度についての資料を置いた。被害者や遺族は、一定の事件では裁判に参加し、検察官の近くに座って審理を見届けたり、許可された範囲で被告人へ質問したり、被害に関する心情や処罰についての意見を述べたりできるという。
「法廷へ行かなければならないわけではありません。参加すると決めたあとでも、体調が悪くなったり、つらくなったりした場合には、別室で休むことができます」
遠山は、特に乃亜と貴教へ向けて、ゆっくり説明した。
「お二人はまだ子供です。裁判を見ることが、心と体に大きな負担になる可能性もあります。法廷へ入らず、書いた言葉をお父さんや代理人に読んでもらう方法もあります」
貴教は資料の端を指で押さえ、勝の隣で黙っていた。乃亜もノートを開いていたが、何も書かれていないページを見つめていた。
「私は参加します」
勝が先に答えた。
「法廷で、杏子のことを伝えたいんです。妻が被害者の一人というだけで終わってほしくありません。どんな人だったのか、どんな毎日を生きていたのか、どれほど家族を愛していたのかを、自分の言葉で話したいと思います」
「分かりました。勝さんのご意思として手続きを進めます」
遠山はうなずいたあと、子供たちへ顔を向けた。
「乃亜さんと貴教さんは、今日決めなくても大丈夫です」
乃亜はノートを閉じた。
「法廷に行ったら、黒田もおるんですよね」
「はい。ただ、直接近づいたり、二人だけで話したりすることはありません。裁判所にも、二人が安心して参加できる方法を相談します」
「顔を見るの、怖いです」
乃亜は正直に言った。
「でも、言いたいこともあります」
貴教も、うつむいたままつぶやいた。
「俺も、怖い。見たら、何するか分からへん」
勝は息子の肩へ手を置いた。
「怒るのは当然だ。でも、無理をして法廷へ行く必要はない。お父さんが二人の言葉を預かって話すこともできる」
「ちょっと考えたい」
乃亜の返事に、遠山は「もちろんです」と答えた。
*
同じ頃、川崎駅では杉本駅員が、検察官から事件当日の状況を聞かれていた。
杉本は、黒田を最初に見かけた日のことから話し始めた。電車を待つ様子もなく、長時間ホームにとどまっていたこと。ほかの駅員や鉄道警察隊員とともに声をかけたこと。その後、再び姿を見つけた際には、以前とは違う緊張を感じたこと。
「なぜ、様子が違うと思ったのですか」
検察官に尋ねられ、杉本は記憶をたどった。
「周囲の人を見る目つきです。列車の案内表示を見ているのでも、待ち合わせの相手を探しているのでもありませんでした。人の流れそのものを見ているように感じました」
鉄道警察隊へ連絡するよう同僚に伝えた直後、叫び声が響いた。杉本たちは避難誘導と救護に動いたが、すべての被害を防ぐことはできなかった。
「あのとき、もっと早く止められていたらと、今も考えます」
「声をかけた際、刃物を持っていることは分かりましたか」
「分かりませんでした」
「黒田が、その場で犯行を予告するような発言をしましたか」
「いいえ」
検察官は回答を記録した。
「法廷でも、今お話しいただいたように、見たことと感じたことを分けて話してください。分からなかったことは、分からなかったと答えて構いません」
杉本はうなずいた。しかし、説明が終わったあとも、席を立てなかった。
「あの日、助けられなかった方のご家族も、法廷に来られるんですよね」
「参加される方もいらっしゃいます」
「お会いしたら、何と申し上げたらいいのか……」
検察官は少し間を置いてから答えた。
「杉本さんが見聞きしたことを、正確に証言してください。それが、裁判で果たしていただく大切な役割です」
杉本は膝の上で帽子を握り、深くうなずいた。
*
数日後、田村亮介と沙織が、陽向を連れて斉藤家を訪れた。勝が以前、陽向へ会いに来てくれたことへの礼を伝えるためだった。
陽向は玄関に入ると、勝の後ろにいる乃亜と貴教を見た。二人も、母が助けた男の子を前にして、どう話しかけたらよいのか分からずに立っていた。
「乃亜です。こっちは弟の貴教」
乃亜が先に名乗ると、陽向は小さく頭を下げた。
「田村陽向です」
居間へ移り、両家の家族が向かい合った。亮介は膝に置いた手を握り、ゆっくり話し始めた。
「陽向は、事件のあとからずっと、自分が転んだせいで杏子さんが刺されたと思っています。妻が亡くなられたと知ってからは、私たちが違うと言っても、自分を責め続けています」
沙織が続けた。
「夜中に目を覚まして、あの女の人はどうなったのと何度も聞きました。本当のことを話したあと、僕が殺したんだと言うようになって……」
乃亜は陽向を見た。まだ七歳の男の子が、膝の上で両手を固く握っていた。
「お父さんから聞いたよ」
乃亜が声をかけると、陽向の肩がわずかに動いた。
「お母さんが手を引いてくれたって」
「うん」
「陽向くんが転んだのは、陽向くんのせいやない。お母さんを傷つけたのも、陽向くんやないよ」
陽向は唇を震わせた。
「でも、僕が転ばなかったら……」
「私のお母さんは、困ってる子がおったら、たぶん放っておけへんかったと思う」
乃亜も、そう言いながら涙をこらえていた。
「お母さんが亡くなったのは、陽向くんを助けたからやない。刃物を持って、人を傷つけた人がおったからや」
貴教はしばらく陽向の顔を見ていたが、やがて自分の野球帽を外した。
「俺も、最初は思った。お母さんがそのまま逃げてたらって。でも、お母さんが助けた子が生きててよかったとも思う」
陽向の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい」
「謝らんでええよ」
貴教も涙を拭いた。
「陽向くんは悪くないから」
勝は、二人が陽向へそう伝える姿を見守っていた。子供たちの言葉に悲しみがなくなったわけではない。杏子に逃げ切ってほしかったという思いと、陽向が助かってよかったという思いは、どちらも三人の中にあった。
帰り際、陽向は杏子の写真へ頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
乃亜は母の写真を見た。杏子なら、陽向に何と言っただろう。自分を責める暇があったら、元気に学校へ行きなさいと、明るく背中を押したかもしれない。
*
その夜、乃亜と貴教は、裁判についてもう一度話し合った。
「私は逃げたくない」
乃亜が言った。
「怖いけど、犯人の前で話したい。お母さんがどんな人やったか、自分の言葉で伝えたい」
貴教も不安そうな顔をしながら、うなずいた。
「俺も話す。お父さんに読んでもらうんやなくて、自分で言いたい」
「途中で話せなくなってもいいんだぞ」
勝が確認すると、貴教は答えた。
「それでも行く。お母さんを返してって、俺が言いたい」
勝は二人の決意を遠山へ伝えた。遠山は、裁判所や検察官、支援員と相談し、子供たちが意見を述べる際には支援者が近くに付き、必要ならいつでも休憩できるよう準備を進めた。
乃亜と貴教は、法廷へ持っていく言葉をノートに書き始めた。杏子が教えてくれたこと、応援してくれた試合、四人で笑った食卓、ライブの日の思い出。書き進めるほど、犯人へ言いたいことよりも、母にもう一度伝えたいことが増えていった。
*
やがて、黒田慎吾の刑事裁判が始まった。
裁判所の周辺には多くの報道関係者が集まり、傍聴席も埋まっていた。勝は遠山とともに被害者参加人の席へ座った。乃亜と貴教は、支援員の西村香織に付き添われ、別室で待機していた。
法廷へ入ってきた黒田を見た瞬間、勝の胸の奥に激しい怒りが込み上げた。妻の命を奪った男が、自分と同じ空間で椅子に座り、弁護人と話している。その姿を見ても、杏子が亡くなったという現実と、うまく結びつかなかった。
審理では、起訴内容が読み上げられた。杏子、佐野恵美、大川隆志の名前と、負傷した十三人について述べられるたび、法廷の空気が重くなった。
黒田は、刃物を用いて人を傷つけた外形的な事実について大きく争わない一方、弁護側は、犯行当時の責任能力について慎重な審理が必要だと主張した。
検察側は、駅の下見、凶器の準備、事件前に書かれた文章、犯行時の言動などを挙げ、黒田が自らの目的に基づいて行動していたと述べた。
その後の審理で、杉本駅員も証言台に立った。黒田へ以前から警戒を抱いていたこと、鉄道警察隊へ連絡したこと、事件発生後に避難誘導へ当たったことを、見聞きした範囲に限って話した。
証言を終えて退廷する際、杉本は勝と目が合った。二人は言葉を交わさなかったが、杉本は深く頭を下げた。
*
遺族による意見陳述の日、勝は杏子の家族写真を持って法廷へ入った。証拠として示すものではなく、言葉が途切れそうになったとき、自分が誰のことを話しに来たのかを思い出すためだった。
「妻の杏子は、三十八歳でした」
勝は用意した文書へ目を落とし、それから裁判官を見た。
「家族を大切にし、子供たちの成長を何より楽しみにしていた人です。長女のバスケットボールと、長男の野球を応援し、できなかったことができるようになるたび、本人たち以上に喜んでいました」
勝は、北海道を一周しようと話していたこと、家族でライブへ行ったこと、事件の日も杏子の帰りを待って四人分の夕食を用意していたことを語った。
「杏子は、家へ帰ろうとしていただけです。その途中で、転んだ子供を助けようとしました。妻の優しさが、命を奪われてよい理由になるはずがありません」
言葉が詰まり、勝は家族写真を見た。
「今でも妻を愛しています。これから先も、その気持ちは変わりません。妻を返してほしい。それができないことは分かっています。それでも、毎日そう思っています」
勝が席へ戻ると、乃亜が西村に付き添われて法廷へ入った。黒田のいるほうを見た瞬間に足が止まったが、西村が「急がなくていいよ」と声をかけた。
乃亜は用意された席へ座り、ノートを開いた。
「私のお母さんは、斉藤杏子といいます」
声が震えていた。乃亜は一度息を整え、続きを読むのをやめて、自分の言葉で話し始めた。
「お母さんは、私が学校で失敗したときも、バスケでうまくいかなかったときも、話を最後まで聞いてくれました。私が間違っていたら、何がいけなかったのか、一緒に真剣に考えてくれました」
料理を教わったこと、試合会場で誰よりも大きな声で応援してくれたこと、M&Yやファイブピーチ★の曲を一緒に聴いたこと。ライブのギャグコントで、腹筋が痛いと言いながら笑っていたこと。
言葉にするたび、母の表情が浮かんだ。
「私は、まだお母さんに甘えたかったです。中学校のことも、将来のことも、いっぱい相談したかった。大人になった私を、お母さんに見てほしかったです」
乃亜は黒田のほうを見た。
「お母さんを返してください」
傍聴席から、すすり泣く声が聞こえた。
続いて貴教が法廷へ入った。椅子へ座ると足が床へ届かず、緊張した顔で文書を両手に持った。
「お母さんは、俺が野球でエラーしても、次に同じ失敗をしないように考えようって言ってくれました。ヒットを打ったときは、俺より喜んでくれました」
貴教は途中で何度も唇を結んだ。
「俺が大きくなって、ベイスターズの選手になるところを見てほしかったです。日本一の外野手のお母さんにするって、言ってました」
涙で文字が見えなくなり、貴教は文書を机へ置いた。
「お母さん、返してください。俺、まだ九歳です。まだお母さんが必要です」
そのとき、黒田が被告人席で顔をそむけ、吐き捨てるように言った。
「知るか。勝手に死んだんだろ」
法廷の空気が凍りついた。
「被告人、発言をやめなさい」
裁判長が厳しく命じ、弁護人も黒田を制止した。
勝が立ち上がりかけたが、遠山が腕へ手を添えた。貴教は何を言われたのか理解した瞬間、顔をゆがめた。
乃亜は席から黒田を見た。恐怖よりも先に、激しい怒りが全身を駆け抜けた。
「ふざけないで」
遠山が止めようとしたが、乃亜の言葉は続いた。
「私たちのお母さんは、殺されていいような生き方なんかしてない!」
涙を流しながら、それでも黒田から目をそらさなかった。
「私たちの成長をずっと見守ってくれて、将来を楽しみにしてくれてた。優しくて、頼りがいがあって、いつも明るく笑ってた。家族を大事にして、一生懸命働いて、ただ家に帰ろうとしてただけや!」
乃亜は拳を握った。
「勝手に死んだんやない。あなたが殺したんや! 人殺し!」
「乃亜」
勝が娘の名を呼んだ。怒りを否定するためではなかった。これ以上、娘が一人で黒田に向き合わなくてよいと伝えるためだった。
裁判長は審理を止め、休廷を告げた。西村が乃亜と貴教を別室へ連れていき、勝もあとを追った。
*
別室へ入ると、乃亜は椅子に座ることもできず、勝の胸へ飛び込んだ。
「何で、あんなこと言えるん……」
勝は何も答えられず、娘を抱き締めた。貴教も父の背中へ腕を回し、声を上げて泣いた。
「お母さん、勝手に死んでない。帰ろうとしてた。俺らのところに帰ろうとしてた!」
「ああ。分かってる」
勝は二人を抱いたまま、何度もうなずいた。
「お母さんは、最後まで生きようとしていた。二人のところへ帰ろうとしていた。勝手に死んだんじゃない」
遠山は少し離れたところで待ち、三人が落ち着いてから話しかけた。
「今日は、このまま帰ることもできます。法廷へ戻らなくて構いません」
乃亜は涙を拭いた。
「私、間違ったこと言いましたか」
「いいえ。あなたがお母さんを大切に思っていることは、十分に伝わりました。ただ、これ以上無理をする必要はありません」
乃亜は貴教を見た。貴教は泣き疲れた顔で父の服を握っていた。
「今日は帰ろう」
勝が言うと、二人はうなずいた。
*
自宅へ戻った三人は、杏子の写真の前に家族写真を置いた。
「お母さん、言ってきたで」
乃亜は写真へ話しかけた。
「ちゃんと、お母さんはそんな人やないって言った。私らの大事なお母さんやって」
貴教も、目を赤くしたまま続けた。
「返してって言った。でも、返してくれへんかった」
勝は二人の間に座った。
「お母さんのことは、伝わったと思う。二人とも、よく話したよ」
乃亜は写真の杏子を見つめた。
「怖かった。でも、逃げんでよかった」
その言葉を聞き、勝は娘の肩を抱いた。
法廷へ持っていった怒りも、悲しみも、そのまま持ち帰ることになった。それでも三人は、自分たちの言葉で、杏子が生きた三十八年を語った。
黒田が何を言おうと、杏子の人生を消すことはできなかった。
次回予告
法廷で放たれた黒田の言葉は、遺族だけでなく、負傷者や傍聴した人々にも大きな衝撃を与える。
乃亜は、自分の怒りが裁判へ影響するのではないかと不安を抱き、貴教は夜になると、黒田の声を思い出して眠れなくなっていた。
「言い返したこと、後悔してへん。でも、ずっと頭から離れへん」
一方、検察は黒田の法廷での態度も踏まえながら、責任能力に関する証人尋問へ向けた準備を進める。
そんな斉藤家へ、田村陽向から一通の手紙が届く。
次回、第35話「勝手に死んだんじゃない」。
杏子が最後まで帰ろうとしていたことを、三人はもう一度確かめます。




