最後の足取り
第33話「最後の足取り」
検察官の前には、黒田慎吾の供述調書や、事件前の行動をまとめた資料が並んでいた。犯罪心理学を専門とする研究者は、それらに目を通しながら、防犯カメラに残された行動と供述の内容を照らし合わせていた。
川崎駅へ繰り返し足を運んでいたこと。犯行に使った包丁をあらかじめ隠し持っていたこと。事件前に書き残した文章。そして、逮捕後も被害者へ責任を押しつける言葉を繰り返していたこと。
「少なくとも、目的を持って準備し、行動していたことを示す材料はあります。現時点の資料からは、心神喪失という説明には疑問が残ります」
専門家はそう話したうえで、資料の一枚を机へ戻した。
「ただし、準備をしていたという事実だけで、責任能力を決めることはできません。犯行当時の精神状態と、その状態が判断や行動にどう影響していたかについては、別に検討が必要です」
検察官はうなずき、供述の裏づけや、犯行前後の行動をさらに確認するよう指示した。
一方、弁護側は、黒田の生活歴や精神状態について、より詳しい検証が必要だと主張していた。身勝手な供述や計画的に見える行動があるからといって、直ちに結論を出すべきではないという立場だった。
双方が資料を検討する間にも、遺族や負傷者の毎日は続いていた。裁判で何が認められるかを待っているだけでは、朝食も、学校も、仕事も始められない。けれど、始まってしまう一日の中には、必ず事件の影があった。
*
黒田正和と文江は、拘置所の面会室に並んで座っていた。
二人とも、以前より頬が痩せていた。文江は膝の上のハンカチを握り、正和は仕切りの向こうに現れた息子を、黙って見つめた。
「弁護士と話したのか」
正和が尋ねると、慎吾は椅子へ腰を下ろし、短く答えた。
「話したよ」
しばらく沈黙が続いたあと、正和が口を開いた。
「俺は、お前を助けん」
慎吾が顔を上げた。
「お前が犯したことは、お前が責任を持って償え。死刑になっても控訴するな。俺たちは、死刑になっても当然だと思っている」
言葉を重ねる父に、慎吾は謝ろうとしなかった。むしろ、待っていた不満を持ち出すように、身を乗り出した。
「俺が彼女を欲しいって言ったとき、何もしてくれなかっただろ。誰か紹介するとか、そういうことも一切やってこなかった。あんたらが悪いんだよ」
文江が目を閉じた。正和は息子を見たまま、低い声で言った。
「甘ったれるな」
「だから、俺だけのせいじゃ――」
「だからって、何の関係もない人さまを傷つけて、殺すのか」
慎吾の言葉を遮ったあと、正和は机の上へ両手を置いた。
「その人たちは、お前に何をした。家族がいて、仕事があって、帰る家があったんだぞ」
慎吾は視線をそらした。
「みんな、俺を選ばなかった」
「誰かがお前と付き合うかどうかは、その人が決めることだろう」
正和の声は震えていた。文江も、ようやく顔を上げた。
「亡くなった人の家族が、どんな気持ちでいるか……一度でも考えたの?」
慎吾は答えなかった。
正和は椅子から立ち上がった。
「俺も母さんも、もうお前を息子だと思わん。絶縁する」
文江は、息子へ何か言おうとして唇を動かしたが、言葉にならなかった。そのまま立ち上がり、正和とともに面会室を出た。
廊下へ出ると、正和は壁へ手をついた。文江が隣に立っても、しばらく歩けなかった。強く言い切った言葉で、亡くなった人が戻るわけではなかった。息子の責任を両親が代わりに負えるわけでもない。
二人は足元を見ながら、拘置所の出口へ向かった。
*
勝が杏子の最後の足取りについて説明を受けた日、遠山佳奈も同席していた。
職場を出たあと、杏子は駅へ向かい、定期券で改札を通っていた。勝へ送られた「今から帰るね」というメッセージは、その帰宅の途中に届いたものだった。
説明に使われた図には、改札から京浜東北線のホームへ向かう経路が示されていた。
勝は、その線を見つめた。
「ここを、歩いていたんですね」
「はい。確認できた映像と目撃証言を合わせて、足取りを整理しています」
その先で、人々が逃げ始めた。混乱の中、転んでしまった男の子に杏子が手を差し伸べていたことも、説明された。
勝は目を閉じた。映像を見なくても、杏子が子供へ腰をかがめる姿が浮かんだ。
「その子は……無事だったんですか」
「はい。ただ、今も、ご自身が転んだから杏子さんが亡くなったと思い込んでいるそうです」
勝はしばらく答えられなかった。
助かった子供が、今もあの日の駅に置き去りになっている。そのことが、胸に残った。
「もし、ご家族が会ってもいいと思ってくださるなら、その子と話せますか」
遠山は勝の顔を見た。
「先方のご意向を確認しましょう。お子さんの負担にも配慮して、まずご両親と相談します」
勝はうなずいた。
「責めに行くのではありません。それだけは、先に伝えてください」
*
数日後、勝は田村家を訪れた。
男の子の名前は、陽向といった。七歳で、父の亮介と母の沙織の間に座り、勝が玄関で挨拶している間も、顔を上げようとしなかった。
居間へ通されると、亮介と沙織はそろって頭を下げた。
「奥さまには、本当に……」
亮介の声が詰まった。
「私たちが、もっとしっかり手をつないでいたら」
沙織が続けると、勝は静かに首を振った。
「今日は、そのお話を責めるために来たのではありません」
勝はソファへ座り、陽向と少し距離を空けた。すぐに話しかけず、沙織が置いてくれたお茶を一口飲んだ。
やがて陽向が、小さな声で言った。
「僕が、転んだから」
勝は陽向へ顔を向けた。
「僕がちゃんと走れたら、あの女の人も逃げられたのに」
陽向は両手を握り締めた。勝は、その手から顔へ視線を戻した。
「陽向くんが悪いんじゃないよ」
男の子は、まだ下を向いていた。
「一生懸命、逃げようとしたんでしょう」
陽向が小さくうなずいた。
「怖かったんだね」
「……うん」
「怖い中で走って、転んでしまった。陽向くんが、誰かを傷つけたわけじゃない。妻を傷つけたのは、刃物を持っていた人です」
勝は言葉を急がず、陽向が聞いているのを確かめながら続けた。
「妻の名前は、杏子といいます」
陽向が初めて顔を上げた。
「きょうこさん」
「そう。子供のことを、とても大切に思っていた人です」
勝は持参した家族写真を、両親へ見せてよいか確認してから、テーブルへ置いた。
「この二人は、私たちの子供です。乃亜と貴教。杏子は、この二人が何かできるようになると、いつも大喜びしていました」
陽向は写真へ目を向けた。
「笑ってる」
「うん。よく笑う人でした」
勝は写真の杏子を見たあと、陽向へ向き直った。
「杏子の気持ちを、全部代わりに話すことはできません。でも、陽向くんが無事だったと知ったら、喜んだと思う。私は、そう思っています」
陽向の目に涙がたまった。
「僕、手、つかんだ」
「うん」
「こっちって、言ってくれた」
勝は息を整えた。自分の知らない、杏子の声だった。
「教えてくれて、ありがとう」
陽向は泣き始め、沙織の腕へ顔を埋めた。沙織も息子を抱きながら涙を拭いていた。
勝は、その場で泣きやむようには言わなかった。
*
陽向が少し落ち着き、隣の部屋で絵本を開いている間に、勝は両親と話した。
「妻を失ったことは、今も受け止めきれません。毎日、帰ってきてほしいと思います」
亮介と沙織は、黙って聞いていた。
「でも、その悲しみを陽向くんに背負ってほしいとは思っていません。私たちに謝り続けるために、これからを過ごしてほしくないんです」
沙織が両手で顔を覆った。
「事件の話になると、この子、自分のせいだとしか言わなくて……どう伝えたらいいのか、分からなくなるんです」
「私も、子供たちへの言葉に迷います。だから、支えてくださる方に相談しながら、やっています」
勝は遠山から預かった連絡先の案内を置き、自分の名刺も添えた。
「よかったら、私たちとつながりませんか。すぐにお返事をいただかなくても大丈夫です。陽向くんがつらくなったときに、私からも、あなたのせいではないと伝えたいです」
亮介は名刺を受け取り、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
帰るとき、陽向が玄関まで出てきた。
「あの」
勝がしゃがむと、陽向はしばらく迷ってから言った。
「きょうこさんのこと、忘れない」
勝はうなずいた。
「ありがとう。いつか、杏子の楽しかった話も聞いてもらえたら、うれしいよ」
*
家へ戻ると、乃亜と貴教が勝を迎えた。
「会えた?」
「ああ。少し、話してきた」
勝がその日のことを伝えると、乃亜は杏子の写真へ目を向けた。
「その子、ずっと怖かったんやな」
貴教はしばらく考えてから言った。
「今度、会えたら、俺も言いたい。悪くないよって」
勝は二人の隣に座った。
あの日、杏子が会社を出て、駅へ向かい、家へ帰ろうとしていたことは分かった。その途中で、転んだ子供へ手を伸ばしたことも知った。
知るほどに、会いたさは強くなった。なぜ帰ってこられなかったのかという怒りも、消えなかった。
勝は写真の杏子へ、心の中で話しかけた。
あの子は無事だったよ。今日、会ってきた。
そして、二人とともに、しばらく写真を見ていた。
次回予告
黒田の刑事裁判に向けた準備が進み、勝は被害者参加について説明を受ける。
「法廷で、杏子のことを伝えたいんです」
一方、乃亜と貴教は、裁判にどう関わりたいのか、自分たちの気持ちを確かめていく。犯人へ言いたいことはある。それでも、同じ場所へ行くことには怖さがあった。
そして杉本駅員も、証言へ向け、事件当日の出来事を振り返り始める。
次回、第34話「法廷へ持っていくもの」。
怒り、悲しみ、そして家族の思い出。三人は、それぞれの言葉を探します。




