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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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それぞれの、帰ってきて

戻らない日常2


第32話「それぞれの、帰ってきて」


 遠山佳奈から説明を受けている間、勝は机の上の資料を見つめていた。黒田慎吾の弁護側は、犯行当時、善悪を判断し、その判断に従って行動する能力が失われていたとして、心神喪失を主張する方針を示していた。仮にそこまで認められなくても、その能力が著しく低下した心神耗弱の状態にあったとして、刑の減軽を求めるという。


「まだ、弁護側の主張です。認められたわけではありません」


 遠山はそう説明したが、勝には「刑事責任を問えない」という言葉が、いつまでも耳に残っていた。


「では、杏子の人生は何だったんですか」


 勝の声に、隣にいた乃亜が顔を上げた。


「誰よりも家族を愛して、子供たちが少しずつできるようになることを、自分のことのように喜んでいたんです。仕事をして、帰ってきて、明日も同じように暮らすつもりでいた。あの日だって、私たちのところへ帰ってくる途中だったんです」


 勝は資料から目を離し、遠山を見た。


「あれだけの被害を生じさせておきながら、罪に問えないと言うんですか。何かの、笑えないギャグですか」


 言い終えると、勝は自分の膝を強く押さえた。遠山に怒りを向けたいわけではなかった。それでも、どこへ出せばいいのか分からないものが、言葉になってしまった。


 遠山は、すぐに話を先へ進めなかった。


「勝さんが、そう感じられることも聞かせてください。法律上の説明を聞いたからといって、納得できるとは限りません」


「納得なんて、できません」


「はい。ただ、主張が出ただけで結論が決まることはありません。何を根拠にそう主張するのか、検察がどう反論するのか、資料を確認していく必要があります」


 乃亜はノートを握り締めていた。母のことを書いたページの角が、指の下で曲がっている。


「理由を調べることと、お母さんにしたことは、別やろ?」


 遠山が顔を向けると、乃亜は続けた。


「犯人に何があったか調べるのは、必要なんかもしれへん。でも、それを聞いても、お母さんは帰ってこない。お母さんが悪かったことにはならへんよね?」


「なりません。杏子さんに責任があるという話ではありません」


 乃亜はうなずいたが、指の力は抜けなかった。


*


 その夜、貴教は夢を見た。


 食卓に四人分の皿が並び、杏子が台所から味噌汁を運んできた。貴教が野球の話をすると、母は椅子に座って「それで?」と続きを待っていた。


 昨日の練習で捕れたフライのことを話したかった。新しいグローブが、少しずつ手になじんできたことも教えたかった。


 けれど、話している途中で目が覚めた。


 暗い部屋の中で、貴教はしばらく布団から動かなかった。廊下を歩いて台所へ行けば母がいるような気がして、それでも行ったらいないことが分かってしまうと思った。


 やがて起き上がり、勝の寝室へ向かった。


「お父さん」


 勝が体を起こすと、貴教は布団の横に立っていた。


「お母さん、おった」


 勝は布団を開け、貴教を隣へ入れた。


「夢で、会えたのか」


「うん。普通に、ご飯食べてた」


 貴教は父の腕をつかんだ。


「まだ話してたのに、起きてもうた」


 勝は背中に手を置いた。しばらくして廊下から足音が聞こえ、乃亜も戸口に立った。


「私も、前に見た。お母さんとライブ行ってる夢」


 勝が場所を空けると、乃亜は布団の端へ座った。


「夢の中やと、亡くなったこと、忘れてるねん。朝、起きてから思い出す」


 乃亜は弟の頭にそっと触れた。


「なんで、お母さんが殺されなあかんかったん。私らのこと、こんなに大事にしてくれたのに」


 勝は二人の顔を見た。


「お父さんにも、どうして杏子がこんな目に遭わなければならなかったのか、答えられない。でも、お母さんは何も悪くない」


 貴教が顔を伏せた。


「大好きやのに。会いたいのに」


 勝は二人を抱き寄せた。眠り直すまでには、まだ時間がかかった。


*


 佐野幸也の家では、恵一が玄関に小さな椅子を運んでいた。


「ここで、なにするの?」


 幸也が尋ねると、恵一は当然のように答えた。


「お母さん、待つ」


 靴を履こうとしている息子の前に、幸也はしゃがんだ。これまでにも同じ話をしていた。けれど三歳の恵一には、昨日の説明と今日の寂しさが、うまく結びつかない。


「お母さん、いつ帰るの?」


 幸也は息子の手を包んだ。


「お母さんは亡くなって、体が動かなくなったんだ。もう、おうちには帰ってこられないんだよ」


「お迎えも?」


 幸也は一度息を整えた。


「お迎えにも、来られない。お父さんが行くよ」


 恵一は困った顔をして、玄関の扉を見た。


「でも、お母さんがいい」


「うん。会いたいよな。お父さんも、会いたい」


 恵一が泣き出すと、幸也は抱き上げた。小さな背中をさすりながら、今日も同じ問いに答えたことを思った。明日また聞かれたら、そのときも答えようと思ったが、喉の奥が痛くて、しばらく声が出なかった。


*


 遺族と負傷者、その家族が集まる場には、勝も参加した。乃亜と貴教は、自分たちも話したいと言って一緒に来ていたが、途中で別室へ移ってもよいよう、支援員の西村香織が付き添っていた。


 大川節子は、鞄から数通の手紙を取り出した。


「孫たちが、おじいちゃんに書いたんです」


 折り紙で飾られた封筒も、絵だけの紙もあった。節子が一枚を広げると、野球帽をかぶった隆志と、子供が並んで描かれていた。


「公園で遊んでもらったときの絵だそうです。こちらには、また一緒に行こうって……」


 節子は続きを読めず、紙を膝へ下ろした。


「隆志は、孫が来る前の日から準備をしていました。お菓子を買って、天気を調べて、誰が何を好きだったか私に確認して。五人ともかわいくて、仕方がなかったんです」


 節子の隣に座る娘の麻衣が、母の手に触れた。


「子供たちには、祖父と過ごせる時間が、まだあるはずでした。成長を見てほしかったです」


 幸也も、恵一が描いた絵を持ってきていた。


「妻は、幼稚園でも家でも、子供の話を聞くのが好きでした。息子がまだうまく言えないことも、急がせずに聞いていました」


 幸也は絵の中の、三人の顔を見た。


「息子は今も、帰ってくると思う日があります。そのたびに説明します。でも、説明しながら、私も帰ってきてほしいと思っているんです」


 勝は黙ってうなずいた。


*


 新井理央は、負傷した腕を支えながら、話す順番を待っていた。


「私には、帰ってきた家があります。家族もいます。でも、事件の前と同じようには暮らせていません」


 リハビリのこと、駅へ近づくと足が止まること、背後から聞こえる大きな声に体がこわばることを、一つずつ話した。


「生きているから、もう大丈夫ということにはならないんです。仕事へ戻りたい気持ちと、外へ出るのが怖い気持ちが、毎日一緒にあります」


 そばに座っていた理央の母が、娘へ視線を向けた。


「病院から連絡を受けたとき、娘がどんな状態なのか分かりませんでした。今も帰りが少し遅くなるだけで、電話をかけたくなります。本人を急かしたくないのに、怖くて」


 森川修司も口を開いた。


「私は、事件のときに何ができたか、何ができなかったかを何度も考えます。家族と食事をしている途中でも、急に駅のことを思い出す。私を心配している家族も、ずっと休めないままです」


 その場にいた人たちは、同じ言葉で悲しみを語ったわけではなかった。失った人、負った傷、怖くなる瞬間もそれぞれ違う。それでも、一人が話し終わるまで、誰も先を急がなかった。


*


 弁護側の主張について話が及ぶと、会議室の空気が張り詰めた。


「夫は、何も知らずに駅にいたんです」


 節子が言った。


「相手が何を考えていたかなんて、知りようがありません。どうして、隆志がその怒りを向けられなければならなかったんでしょう」


 幸也は机に置いた絵を押さえた。


「恵美が亡くなったことを、息子に説明し続けるのは私です。息子が大きくなるたびに、いない母親について話さなければならない。裁判が終わっても、私たちの生活では続いていくんです」


 乃亜は勝を見てから、遠山へ顔を向けた。


「私も、話していいですか」


 遠山がうなずくと、乃亜はノートを開いた。


「お母さん、私が失敗しても、話を聞いてくれました。でも、誰かに嫌なことしたら、それはちゃんと考えなあかんって教えてくれた」


 声が震え、乃亜は一度止まった。貴教が隣から姉の袖をつかんだ。


「犯人が苦しかったって言われても、お母さんに何をしてもええ理由にはならへんと思います。お母さんがどんな人やったか、私らがどんなふうに暮らしてたかも、ちゃんと聞いてほしいです」


 貴教も、机の端を見ながら言った。


「俺、夢でお母さんに会いました。野球の話してた。でも、起きたらおらへんかった」


 貴教は袖で顔を拭いた。


「何回も、帰ってきてって思います。お母さんのこと、大好きです。今も、ずっと」


 勝は二人の背中に手を添えた。


「私たちは、杏子を失いました。恵美さんも、隆志さんも、それぞれの家族にとって、代わりのいない人でした。負傷された方と、その家族の暮らしも変えられました。その事実を、裁判で十分に受け止めてほしいです」


 遠山は、話された言葉を確かめながら記録した。誰も、その場で怒りを収めるようには言わなかった。


*


 金曜日の夜、斉藤家のラジオから、光子と優子の声が流れていた。


 爆笑通信で紹介されたのは、洗濯物を取り込む途中、自分の靴下だけ片方ずつ見失うという投稿だった。乃亜は少し笑ったが、そのあと杏子の席へ目を向けた。


「お母さんも、貴教の靴下、よう探してたな」


「俺だけちゃうやろ。お父さんのも」


「そうだな」


 勝が答えると、貴教は母の写真へ向かって言った。


「今度から、ちゃんとそろえて出すから」


 番組が次の曲へ移るまで、三人は黙っていた。勝は子供たちのそばに座り、曲を聴いた。


 会いたいという気持ちも、裁判への怒りも、その夜のうちに小さくなることはなかった。


次回予告


黒田の犯行前の行動と、犯行当時の精神状態を巡る検討が進む。


駅へ繰り返し足を運んだ記録、押収された文章、目撃者の証言。それぞれの資料を、検察と弁護側が異なる立場から検討していく。


一方、勝は初めて、事件当日の杏子の足取りについて、詳しい説明を受けることを決める。


「家へ帰ろうとしていた杏子に、何が起きたのか。知りたいんです」


次回、第33話「最後の足取り」。


家族を待っていた食卓へ、杏子はどこまで近づいていたのでしょうか。

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