大きくなったら
戻らない日常2
第30話「大きくなったら」
安曇野の家で迎えた朝、美佐子が押し入れから持ってきた箱には、杏子の通知表や絵、小学校で使っていたノートが入っていた。乃亜と貴教が座卓の両側からのぞき込むと、美佐子は色の薄くなった画用紙の間から、数枚の原稿用紙を取り出した。
「これ、残っていたのね。杏子が小学生のときに書いた作文」
上の端には「大きくなったら」とあり、その下に、今の乃亜より幼い字で「宮原杏子」と書かれていた。
「お母さん、字が丸い」
乃亜は原稿用紙に顔を近づけ、最初の一行からゆっくり読んだ。
『大きくなったら、いろいろなところへ行って、いろいろな人と話す仕事がしたいです。知らない町にも行って、おいしいものを食べたいです。』
「おいしいもの、入ってる」
貴教が笑うと、美佐子も目元を緩めた。
「この頃から食べることが好きだったのよ。出掛けると、帰ってから食べたものの話ばかりしていたわ」
勝は乃亜の隣に座り、一緒に続きを見た。知らない人と話すのが好きで、遠くへ出掛けることを楽しみにしていた杏子の姿は、仕事の話をする妻とよく似ていた。
作文の後半には、違う願いが書かれていた。
『もしお母さんになったら、子どもの話をたくさん聞きたいです。うまくできなかったことも、話せるお母さんになりたいです。私も失敗すると、言うのがいやになるからです。』
乃亜の読む声が、そこで少し小さくなった。
『好きなものがちがっても、教えてもらいたいです。一緒に遊んだり、応援に行ったりしたいです。家でみんなが笑っていたら、うれしいと思います。』
貴教は原稿用紙を見つめたまま、尋ねた。
「これ、俺らが生まれる、ずっと前?」
「そうよ。お父さんに会うより、ずっと前」
美佐子の返事を聞き、乃亜は作文の最後まで目を通してから、もう一度、同じところを読んだ。
「……私たちが生まれる前から、私たちのこと、考えてくれてたみたいやな」
杏子は、このときには二人の名前も顔も知らなかった。それでも、失敗した子供の話を聞きたいと願い、好きなものを一緒に知りたいと思っていた。その子供になったのが自分たちなのだと、乃亜は原稿用紙を見ながら感じていた。
「俺、フライ落としたとき、帰ってから話したことある」
貴教が言った。
「監督に怒られたん?」
乃亜が尋ねると、貴教は首を振った。
「怒られてへんけど、悔しかった。お母さん、最後まで聞いてくれて、次に捕れたら教えてって言うた」
「私は、シュート全然入らんかったとき。お母さんにまで、できへんと思われたくなくて、最初、言わんかった」
乃亜は膝の上で指を重ねた。
「でも、晩ごはん食べてたら聞いてくれた。今日、疲れたんって。それで話したら、練習見てないから何が難しかったか教えてって……」
美佐子は黙って聞いていた。幼い娘の作文と、その娘が母親になってからの話が、座卓の上でつながっていた。
勝が原稿用紙の端を押さえた。
「ちゃんと、なってたんだな。杏子がなりたかったお母さんに」
乃亜はうなずき、袖で目元を拭いた。貴教は美佐子に断ってから、作文をもう少し自分のほうへ引き寄せた。
*
その日の午後、勝の電話に遠山佳奈から連絡が入った。裁判に向けて、家族が伝えたいことを少しずつ整理していきたいという話だった。
勝は縁側に腰を下ろし、庭を見ながら説明を聞いた。子供たちについては、話せることと負担になることを確かめながら、どのように思いを伝えるか相談していく。今すぐ全部をまとめる必要はないと聞いても、勝には、どこから言葉にすればよいのか分からなかった。
「犯人を許せないという気持ちは、あります。でも、それだけでは……杏子のことを、何も話せていない気がするんです」
遠山は勝の言葉を待ってから答えた。
「杏子さんがどんな方で、ご家族にとってどんな存在だったのか。まずは、そこから聞かせてください。途中で止めても構いません」
電話を終えた勝が戻ると、乃亜は家族写真を見ていた。二十枚目にようやく撮れた、四人の写真だった。
「裁判の話?」
「ああ。お母さんのこと、どんなふうに伝えたいか、考えていこうって」
乃亜は写真を座卓の中央へ置いた。
「お母さんのこと、ちゃんと知ってもらいたい。事件に遭った人っていうだけやなくて、どんなお母さんやったか」
勝はノートを開き、乃亜と貴教が話す言葉を、そのまま書き留めることにした。
*
「お母さん、笑うのが大好きやった」
乃亜は写真の杏子を見ながら話し始めた。
「私が変なこと言うたら、すぐ笑ってくれた。自分でも、しょうもないこと言うて、先に笑ってた」
「カレーのときも」
貴教が続けた。
「俺らがけんかして作ったのに、めっちゃおいしいって言うてくれた。お父さん、一番大変やったけど」
「そうだったな」
勝はペンを止め、あの台所を思い出した。甘口と辛口を巡る姉弟げんかに巻き込まれ、鍋を気にしながらじゃんけんの判定までした夜だった。杏子が帰ってきて一口食べた途端、二人はそれまでの言い争いを忘れて、母の顔を見ていた。
「でも、笑わせなあかんわけやなかった」
乃亜は少し考えてから言った。
「学校で嫌なことあったり、バスケでうまくいかへんかったりして、黙ってても、そばにおってくれた。私が話せるまで待ってくれた」
勝はその言葉をノートへ書いた。
貴教は座り直し、両手を膝に置いた。
「試合、いっぱい来てくれた。俺が打つとき、お母さんの声、聞こえた。貴教、頑張れって」
「私の試合も。見つけようと思わんでも、お母さんがどこにおるか分かった」
乃亜は笑いかけたが、途中で唇を結んだ。
「シュート決めたら、私より喜んでるときあった。試合終わってから、あのとき何を考えてたんって、いっぱい聞いてくれた」
「俺、またヒット打ったら、見てもらいたかった」
貴教が言い、勝はしばらくノートに目を落とした。書いた文字がにじんで見え、ペン先を紙から離した。
*
音楽の話になると、二人の言葉は少しずつ増えていった。
「M&Yも、ファイブピーチ★も、最初はお母さんが好きやったんよな」
乃亜が言うと、貴教がうなずいた。
「小さいときから、車で流れてた。俺、題名知らんでも歌えた曲ある」
「お母さんが聴いてたから、私らも聴いて、大ファンになった。新しい曲が出たら一緒に聴いて、光子さんのベースとか、優子さんのドラムとか、ここすごいって話してた」
杏子は近くでライブがあると、日程を確かめ、家族の予定と合わせて申し込んでいた。当選すれば乃亜と一緒に喜び、貴教にも曲を聴かせ、勝には帰りの時間や持ち物を相談した。
「横浜ライブ、楽しかったな」
勝が言うと、貴教はすぐに答えた。
「お母さん、笑い過ぎてお腹押さえてた」
「帰ってからも、あのコント思い出して笑ってたやん」
乃亜はそう言って、一度、息をついた。
「まだ、いっぱい話したかった。次のライブ、何歌うやろって。新しい曲、どっちが好きって」
座卓の横には、杏子の幼い頃のアルバムが開いていた。その隣に、四人の家族写真がある。乃亜は二つを見比べながら、涙を落とした。
「今も、お母さんが大好き。もう六年生やけど、まだ甘えたかった。大きくなったら、自分でできること増えると思うけど、それでも、お母さんには話を聞いてほしかった」
貴教も顔を伏せた。
「俺、九歳やで。まだ、お母さんと一緒に行きたいとこ、いっぱいあった。野球のことも、学校のことも、全部話したかった」
勝はペンを置き、二人のそばへ移った。乃亜が肩へ寄りかかり、貴教は勝の腕をつかんだ。美佐子と博之は席を外さず、三人が落ち着くまで一緒にいた。
*
夕食のあと、子供たちが風呂へ入っている間に、勝はノートを開き直した。
乃亜と貴教の言葉の下に、自分の思いを書こうとしたが、何度かペンが止まった。怒りも、悔しさも、伝えたいことは尽きない。それでも今夜は、杏子のことを書くと決めていた。
「どんなことを書いているの?」
美佐子が尋ねると、勝はノートを見たまま答えた。
「今も、杏子を愛しているということです」
美佐子は勝の向かいに座った。
「一緒にいるのが当たり前になって、言わなくても分かっていると思っていました。忙しい日もあったし、くだらないことで言い合いもしました。でも、帰ってきて杏子の声を聞くと、ほっとしたんです」
勝は顔を上げ、台所のほうを見た。
「北海道を一周しようって話していました。子供たちが大きくなったら、二人で出掛ける時間もできると思っていた。杏子と、年を取っていくつもりだったんです」
美佐子は両手を重ね、静かに聞いていた。
「妻を亡くしたと説明することはできます。でも、それで気持ちが過去になるわけではなくて……今も、杏子に会いたいし、話したい。今も変わらず、愛しています」
勝はその言葉を、ノートへ書いた。
*
寝る前、乃亜が作文をもう一度読みたいと言った。三人は座卓に並び、美佐子が傷まないように敷いてくれた紙の上へ、原稿用紙を置いた。
『うまくできなかったことも、話せるお母さんになりたいです。』
乃亜はその一文を読み、貴教と顔を見合わせた。
「お母さん、できてたな」
「うん」
貴教は作文の横にあるノートを見た。自分たちが今日話したことを、勝が一つずつ書いてくれている。
「これ、ちゃんと伝えたい」
勝はうなずいた。
「一緒に考えていこう。お母さんのことを、俺たちの言葉で」
乃亜は家族写真を手元へ引き寄せた。写真の杏子は、ユニフォーム姿ではしゃぐ二人の後ろで笑っていた。あの日、母が何と言っていたか、まだ声まで思い出せた。
三人はしばらく写真を見てから、作文とノートを片づけた。乃亜が「おやすみ、お母さん」と小さく言い、貴教も同じ言葉を続けた。
次回予告
安曇野から港南台へ戻った斉藤家。
乃亜は新しいバスケットシューズを、貴教はグローブを選ぶため、勝とスポーツ用品店へ向かう。
「お母さんやったら、何て言うかな」
売り場で足を止める二人に、勝もまた、どう答えればよいのか迷っていた。
一方、遠山との面談で、三人は杏子の思い出を語り始める。楽しかった出来事ほど、話す途中で言葉が詰まる。それでも乃亜は、ノートを閉じようとしなかった。
次回、第31話「伝えたいのは、お母さんのこと」。
三人は、杏子が生きた毎日を、一つずつ言葉にしていきます。




