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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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お母さんの手帳

戻らない日常2


第29話「お母さんの手帳」


 杏子の手帳には、仕事の予定に交じって、家族のことが細かく書かれていた。食費や電気代の記録の横に「乃亜、靴がきつくないか聞く」とあり、翌週の余白には「貴教のグローブ、一緒に見に行く」と記されている。


 勝は食卓に手帳を広げ、向かいに座る乃亜の足元を見た。


「バスケの靴、きつくなってるのか?」


「ちょっとだけ。つま先、当たる」


「いつから?」


「……お母さんには、前に言った」


 勝は手帳へ目を戻した。自分が知らない間にも、杏子は二人の話を聞き、次に必要になるものを考えていたのだ。買えば済むことばかりではない。新しい靴を履いて体育館を歩く乃亜を見たり、グローブの革を押して迷う貴教に付き合ったりする時間まで、この短いメモには入っていた。


「今度、お父さんと見に行こう」


 乃亜はうなずいたが、貴教は膝の上で両手を握ったままだった。


「お母さん、俺がちゃんと捕れるようになってから選ぼうって言ってた」


「そうか」


「まだ、ちゃんと捕れへんときもある」


 勝は急いで返事をせず、貴教の隣へ椅子を寄せた。


「それも含めて、見に行こう。どんなのが使いやすいか、お父さんにも教えてくれ」


 貴教はしばらく考えてから、小さく「うん」と答えた。


*


 学校へ行ける日が増えても、乃亜には、自分でも予想できない瞬間に悲しみが押し寄せた。


 その日は授業で配られたプリントをしまおうとして、連絡袋の名前を見た。端に書かれた「斉藤乃亜」は、杏子の字だった。何度も見てきたはずなのに、その丸い文字を指でなぞった途端、涙が落ち、ノートの上に染みを作った。


 隣の小川美羽が気づいて、黙ってティッシュを差し出した。高橋先生も近づいてきたが、みんなの前で理由を尋ねることはせず、乃亜の机のそばで腰をかがめた。


「少し、外で休もうか。美羽さん、一緒に行ける?」


 廊下のベンチに座ると、乃亜はようやく息をつけた。


「朝は、平気やったのに」


 美羽は乃亜の連絡袋を膝に載せ、その文字を見た。


「うん」


「急に、会いたくなってん」


「ここ、おるから。落ち着くまで一緒におる」


 乃亜は何度もうなずきながら、声を抑えて泣いた。


 貴教にも、似たような時間があった。練習で送球がそれてしまい、帰り道、迎えに来た勝の横で口を開いた。


「お母さん、今日さ――」


 言いかけて足が止まった。勝も立ち止まり、貴教が顔を上げるのを待った。


「……間違えた」


「今日、何があった?」


「ライトから投げたら、また変なとこ飛んでった」


 勝が続きを聞くと、貴教は少しずつ話し始めた。母ならここで何と言っただろうと、二人とも考えていたが、その言葉を代わりに決めることはできなかった。


 家に着くまで、勝は貴教の話を聞いた。


*


 宮原博之と美佐子から電話があったのは、その夜だった。


「少し、安曇野へ来ないか」


 博之の声を聞き、勝は窓際に置いた写真を見た。杏子のスマートフォンに残っていた、杏の木と北アルプスの写真である。


「おばあちゃんの家、今も風を通しに行っているの。杏子の昔のアルバムもあるから、乃亜と貴教に見てもらえたらと思って」


 美佐子がそう話すと、勝は二人を呼び、電話をスピーカーに切り替えた。


「お母さんの故郷、行ってみようか」


 乃亜は写真へ目を向けた。


「あの、杏の木がある家?」


「そう。お母さんが、小さい頃によく過ごした家だ」


「俺、行きたい」


 貴教が答え、乃亜も続いてうなずいた。


「お母さんが子供の頃、どんなんやったか聞きたい」


 電話の向こうで美佐子が少し笑った。


「話すこと、たくさんあるよ」


*


 出発前の金曜日、乃亜はフライデー爆笑ラジオカフェへ投稿した。


『今度、お母さんの故郷の安曇野へ行ってきます。お母さんの名前に入っている杏の木がある家です。お母さんの小さい頃の話を、おじいちゃんとおばあちゃんに聞いてきます。』


 番組の終盤、その文章を光子が読んだ。優子はいつもの明るさを少し落ち着かせて、マイクへ話しかけた。


「乃亜ちゃん、貴教くん、お父さん。気をつけて、行ってらっしゃい」


「どんなお母さんだったのか、聞けるといいね」


 光子の言葉に、乃亜はラジオの前で「うん」と答えた。


 そのあとに流れた曲を、三人は荷物の用意をしながら聴いた。貴教が着替えを詰め過ぎてバッグのファスナーを閉められなくなり、乃亜が一枚ずつ取り出していた。


「二泊で、なんで靴下六足あるん」


「念のため」


「足、何本あるん?」


 勝は二人の横へ洗面道具を置きながら、久しぶりに聞く旅行前のやり取りに耳を傾けていた。


*


 港南台駅のホームに立つと、貴教は勝の手を握った。


 駅へ来ることには、まだ怖さがあった。電車が近づく音に肩がこわばり、乃亜も無意識に父のそばへ寄った。勝は「急がなくていい」と言い、列車が止まってから三人で乗り込んだ。


 横浜で湘南新宿ラインへ乗り換え、新宿へ向かう。杏子も普段の通勤で見ていた街並みが、窓の外を過ぎていった。


 新宿からは特急あずさに乗った。指定席に腰を下ろすと、貴教がようやくバッグを足元へ置き、窓に顔を近づけた。


「お母さんも、これ乗ったんかな」


「乗ったことはあると思う。小さい頃は、今とは違う車両だっただろうけどな」


 勝の返事を聞き、乃亜は杏子の手帳を取り出した。持ってきたのは、旅先でも母の字を見たかったからだった。


 車窓の建物が少なくなり、山が近づいてくる。三人は買ってきた弁当を開いたが、勝が箸を配るときに一膳余分に出してしまい、しばらく手元を見つめた。


「それ、予備にしとこう」


 乃亜が言った。勝はうなずいて、袋へ戻した。


 松本で大糸線へ乗り換えると、窓の外に広がる景色がいっそう大きく見えた。田畑の向こうに山々が連なり、貴教はスマートフォンの写真と見比べながら、何度も窓を見た。


「お母さんの写真の山、あれかな」


「着いたら、おじいちゃんに聞こう」


 乃亜も窓へ身を寄せた。写真の中だけにあった景色が、今、自分たちの目の前に続いていた。


*


 安曇野で博之と美佐子に迎えられ、車で家へ向かった。


 庭先に着くと、乃亜はすぐに杏の木を見つけた。枝にはもう実がなかったが、幹は写真で見たとおり太く、そのそばに立つと、見上げてもてっぺんがよく見えなかった。


「ここや」


 貴教が言った。


「お母さんと、前に写真撮ったとこ」


 美佐子は二人の背中を見ながら、静かにうなずいた。


 家の中には畳の匂いがあり、窓を開けると庭から風が通った。博之が座卓へ古いアルバムを運び、美佐子がお茶を置くと、乃亜と貴教は隣り合って座った。


 最初に見せてもらったのは、麦わら帽子をかぶった幼い杏子の写真だった。頬が丸く、片手には杏を持っている。


「貴教に似てへん?」


 乃亜が顔を近づけると、貴教は自分の頬を触った。


「俺、こんな丸い?」


「笑ったら、そっくりだよ」


 美佐子が言い、ページをめくった。


 次の写真には、木の枝に座る杏子が写っていた。


「えっ、これ、お母さん?」


 乃亜の声が大きくなった。


「そう。かなりのお転婆だったからね」


 博之は庭を指さした。


「杏がなっていると、じっとしていられなくてな。手の届く実を取ったあと、もっと上においしそうなのがあるって登ってしまうんだ」


「お母さん、俺には危ないから登るなって言うてたのに!」


「自分で登って、困ったことがあったからだろうな」


 勝がそう言うと、美佐子が笑った。


「そうなの。登ったはいいけど、下を見ると怖くなって、降りられなくなったことがあるのよ」


「どうしたん?」


「おじいちゃんが、はしごを持ってきた」


 博之は両手を広げてみせた。


「ところが杏子は、先に実を受け取れって言うんだ。片手にいっぱい抱えていてな」


「自分より杏が先なん?」


 乃亜が笑うと、貴教もアルバムを指さして笑った。


「お母さん、めっちゃ欲張りやん!」


「家のみんなにも食べさせるつもりだったらしいよ」


 美佐子の声を聞き、乃亜は写真をもう一度見た。枝に座った杏子は、カメラに向かって得意そうに杏を掲げていた。


 その顔に、ライブへ出掛ける前の母や、カレーを一口食べて大げさに親指を立てた母が重なった。


「お母さん、昔からお母さんやな」


 そう言ってから、乃亜は少し考えた。


「でも、この頃は、まだお母さんちゃうねんな」


 美佐子は娘の写真を見つめた。


「私たちの、子供だったのよ」


 その言葉で、乃亜は初めて、美佐子も母を失った自分と同じように、毎日誰かに会いたくて過ごしているのだと思った。


 乃亜が隣へ寄ると、美佐子はその肩を抱いた。


「もっと聞かせて」


「うん。いっぱい話そうね」


*


 夕方、三人は庭へ出た。


 貴教は杏の幹に手を当て、上を見上げた。


「ここに、お母さん登ってたんや」


「貴教は登らんでよ。お父さんにはしご持ってこさせることになるから」


「分かってるって」


 乃亜が笑い、勝も枝を見上げた。


 杏子とここへ来たとき、なぜもっと幼い頃の話を聞かなかったのだろうと思った。いつでも聞けると、どこかで思っていたのかもしれない。


 家の中から、美佐子がお茶の時間だと呼んだ。


「次は、杏子が台所でやらかした話にしようかね」


「それ、聞きたい!」


 貴教が真っ先に振り向いた。


「お母さんにも、カレー失敗したことある?」


「カレーじゃないけどね」


 乃亜は勝の袖を引いた。


「お父さん、早く。お母さんの話、まだあるって」


 勝は「そうだな」と答え、二人と一緒に家へ戻った。


 座卓には、開いたままのアルバムが待っていた。


次回予告


安曇野の家で、杏子が小学生の頃に書いた作文が見つかる。


題名は「大きくなったら」。


乃亜と貴教は、母にも自分たちと同じように、夢を考えていた時間があったことを知る。


一方、勝のもとには裁判に向けた連絡が届き、遺族として伝えたい言葉を整理するための準備が始まる。


「お母さんのこと、ちゃんと知ってもらいたい」


乃亜は家族写真を手に取り、そう話した。


次回、第30話「大きくなったら」。


幼い杏子が残した言葉を、家族は今、読み返します。

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