笑っても、忘れない
戻らない日常2
第28話「笑っても、忘れない」
栄商事の受付で名前を告げると、勝を迎えに来た宮本は、両手で小さな段ボール箱を抱えていた。
「斉藤さんの机にあったものです。ご家族に確認していただいてからと思って、そのままにしていました」
案内された会議室で、勝は箱の中を見た。
マグカップ。予備のカーディガン。使いかけのハンドクリーム。
どれも、杏子が明日また出勤すれば、そのまま使うはずだったものだった。
「このカップ、家でも気に入っていたんです」
勝が言うと、宮本はうなずいた。
「お子さんたちに選んでもらったって、話していました」
カップの底には、貴教が油性ペンで書いた、小さな星があった。
勝は指でその星をなぞった。
箱の隅に、杏子の手帳が入っていた。
開くと、一枚の写真が滑り出した。
乃亜はバスケットボールのユニフォーム姿で、得意げにポーズを取っている。貴教は野球のユニフォームを着て、架空のバットを構えている。その後ろで、勝と杏子が笑っていた。
二十枚目で、ようやく撮れた家族写真だった。
「あんなに撮り直したのに……」
勝の声が途切れた。
宮本は、しばらく待ってから言った。
「昼休みに見せてもらいました。『うちは普通に並ぶだけでも大仕事なんです』って」
写真の杏子は、少し肩をすくめながら笑っていた。
勝はそれを手帳に戻せなかった。
帰りの車でも、助手席の箱の上に、写真を置いたままにした。
*
数日後、捜査のために保管されていた杏子の持ち物のうち、返還できるものが家族へ戻された。
カバン。財布。鍵。そして社員証。
勝は、受け取りの説明を聞いていたときには、どうにか平静でいられた。
けれど自宅で社員証のケースを開いた途端、手が止まった。
会社名と杏子の名前。その下に社員番号が印字され、証明写真が添えられていた。
少し真面目な顔の杏子だった。
「お母さん、これやと仕事の顔やな」
隣からのぞいた乃亜が言った。
「家では、こんな顔せえへんもん」
貴教も近づいてきた。
「このひも、朝いつも首に掛けてた」
勝はうなずいた。
「帰ってきたら、外してカバンに入れてたな」
貴教が社員証に触れようとして、一度、手を引っ込めた。
「触ってええ?」
「ああ。お母さんのものだから」
小さな指が、透明なケースをそっと押さえた。
その日の説明では、会社を出た時刻や、駅までの移動についても伝えられていた。
社員証だけで杏子の行動が分かるわけではない。職場の記録、防犯カメラの映像、定期券の利用履歴などを合わせ、仕事を終えた杏子が駅へ向かい、改札を通った足取りが確認されていた。
「まっすぐ、帰ってきてたんやね」
乃亜が言った。
勝は「そうだ」と答えた。
「俺たちのところへ帰ってきてた」
テーブルの上には、返ってきた家の鍵があった。
乃亜はその鍵を見つめた。
玄関の前でカバンを探りながら、「あれ、鍵どこやったっけ」と言う母の声を、何度も聞いていた。
もう一度だけでいいから、聞きたかった。
*
一方、黒田慎吾の犯行前の生活について、捜査では確認が続いていた。
黒田は、フライデー爆笑ラジオカフェを聴いたことがあると話した。
家族の失敗談。子供の言い間違い。夫婦の小さな行き違い。
投稿が読まれ、光子と優子が笑い、リスナーも一緒に笑う。その声に、黒田は苛立ちを覚えていたという。
「くだらない。バカじゃねえのか」
取調べで、黒田はそう吐き捨てた。
「そんなことで笑ってる連中も、気に入らなかった」
刑事の石黒は、供述を確認しながら尋ねた。
「笑っていた人たちが、あなたに何をしたんですか」
黒田は質問に答えず、自分への不満を並べ続けた。
その後、黒田が番組の投稿者にも反感を抱いていたという供述が、捜査関係者への取材として報じられた。
ただし、杏子が番組のリスナーだと知って襲ったことを示すものは、確認されていなかった。
それでも報道を受け、全国から怒りや抗議の声が上がった。
〈家族の話をして笑うことまで、責められるのか〉
〈楽しそうだったから傷つけたという理屈は通らない〉
番組にも、多くのメッセージが届いた。
光子は、その一通一通に目を通していた。
優子は隣で、台本の端を押さえたまま言った。
「投稿するの、怖くなった人もおるよね」
「うん」
「今日、いつもみたいに始められるかな」
光子は、遺族と負傷者から届いた連名の投稿を、もう一度読んだ。
明るい笑い声を、また聞かせてください。
その言葉を頼りにしていいのか。頼り過ぎてはいけないのか。
本番が近づいても、二人の迷いが消えることはなかった。
*
金曜日の夕方。
斉藤家では、乃亜がラジオをつけたり、消したりしていた。
「壊れるぞ」
勝が言うと、乃亜は指を止めた。
「……分かってる」
貴教は、母の席を見ていた。
「笑ったら、お母さんがいないことを忘れたみたいにならん?」
乃亜も同じことを考えていた。
楽しみにしていたはずなのに、放送時間が近づくほど、落ち着かなくなる。
勝は、栄商事から持ち帰った写真をテーブルに置いた。
「これ、見てみようか」
「二十枚目や」
乃亜の口元が、少し動いた。
貴教が写真をのぞき込む。
「俺、めっちゃかっこええ」
「その前の十九枚目、バット構えすぎて、お父さんの顔隠してたけどな」
「お姉ちゃんも、三回まばたきしてたやん」
「三回ちゃう。四回」
勝は写真を見たまま言った。
「お母さん、最後に何て言ったか覚えてる?」
乃亜がうなずいた。
「『もう、笑ってるやつを採用!』」
三人の間に、小さな笑いが落ちた。
その直後、乃亜は唇を結んだ。
勝は急いで励まそうとはしなかった。
「今、少し笑ったけど」
しばらくして、そう言った。
「お父さんは、お母さんのことを考えてたよ」
乃亜は写真に目を戻した。
杏子も、笑っていた。
*
放送が始まった。
「こんばんは。光子です」
「こんばんは、優子です」
聞き慣れた二人の声に、貴教が顔を上げた。
冒頭で光子は、事件についての報道に触れた。
「番組への投稿を、ためらっている方もいらっしゃると思います。今日、投稿を送れなくても、途中でラジオを消しても、どうか気にしないでください」
優子が続けた。
「私たちも、まだ迷いながらの放送です。でも、また聞きたいと届けてくださった言葉を受け取って、今夜からいつものコーナーを再開します」
最初の爆笑通信は、ある父親の投稿だった。
『娘の水筒を忘れないよう、前の晩から玄関に置きました。翌朝、娘は水筒を持って出発。私は安心して出勤しました。会社でカバンを開くと、娘の上履きが入っていました』
優子が、一拍置いて尋ねた。
「そのお父さん、会社で履き替えたん?」
「サイズが合わんやろ!」
乃亜の肩が揺れた。
貴教が勝を見た。
「お父さんも、この前、俺の帽子持って会社行ったやん」
「あれは車に置いてあっただけだ」
「会社まで送迎したんやろ。帽子を」
乃亜が吹き出した。
久しぶりの、声の出る笑いだった。
ところが、いつもなら隣から聞こえるはずの杏子の笑い声がなかった。
乃亜の目から、涙がこぼれた。
勝はティッシュの箱を近くへ寄せた。貴教は何も言わず、姉のそばに座り直した。
ラジオは、そのまま流れていた。
裏トークでは、優子が本番前に緊張して、自分の名前を書いたメモを用意した話をした。
「そしたら光子が、私の台本に『優子です』って挟んでくれて」
「最初の挨拶を間違えんようにね」
「優しいなあと思ったら、光子のほうにも『優子です』って入ってた」
「二人とも優子になるところやった」
乃亜は、涙を拭きながら、また少し笑った。
*
放送後、勝の電話に、弁護士の遠山から連絡が入った。
今後の裁判では、黒田の犯行当時の精神状態や刑事責任能力についても検討される見通しだという。
勝は、窓際へ移動して話を聞いた。
「本人が何か抱えていたとしても……杏子たちが殺されたことは、変わりませんよね」
「はい。そこは変わりません」
遠山は、今の段階で結論が出ているわけではないこと、鑑定などを含めた資料を踏まえて判断されることを説明した。
勝は、聞きたいことをメモに残した。
感情が先に立って、説明が頭に入らなくなる瞬間がある。それでも、杏子に何が起きたのかを、きちんと知りたかった。
電話を終えて戻ると、乃亜が杏子のスマートフォンを持っていた。
予定表には、母が書いたバスケットボールと野球の日程が残っている。
その下に、乃亜が新しい予定を入力していた。
『金曜日。三人でラジオ』
貴教が横から言った。
「写真も置いとこうや」
「うん」
勝は、二十枚目の写真を小さな写真立てに入れた。
テーブルの端に置くと、乃亜が少し角度を直した。
「お母さん、今日の水筒の話、絶対好きやったよな」
「たぶん、お父さんに言ってただろうな。『あんたも気をつけて』って」
貴教が笑った。
乃亜も笑い、また目を拭いた。
勝はしばらく、写真を見ていた。
社員証の杏子は、仕事の顔をしていた。
この写真の杏子は、家族と笑っていた。
どちらも、勝がよく知っている杏子だった。
次回予告
杏子の勤務先から戻った手帳には、家計の記録と、子供たちへの小さなメモが残されていた。
「乃亜、靴がきつくないか聞く」
「貴教のグローブ、一緒に見に行く」
勝は、子供たちが成長するたびに杏子が気づいていたことを、今になって知る。
一方、学校へ通う日が増えた乃亜は、授業中に突然涙が止まらなくなる。貴教も、練習でうまくいかなかった帰り道、母に話しかけそうになって足を止めた。
そんな三人のもとへ、宮原博之と美佐子から、安曇野の家へ来ないかという誘いが届く。
次回、第29話「お母さんの手帳」。
残された短い言葉が、三人の暮らしを少しずつ支えます。




