起訴状に並ぶ名前
戻らない日常2
第27話「起訴状に並ぶ名前」
斉藤家の郵便受けに、横浜地方検察庁からの封書が届いた。
勝は食卓に座り、封を切った。黒田慎吾の起訴について知らせる書面だった。三人に対する殺人と、十三人に対する殺人未遂など。読み進めるほど、紙を持つ指に力が入った。
数日後、被害者支援を担当する弁護士の遠山佳奈から、起訴内容について説明を受ける機会が設けられた。机に並べられた資料には、斉藤杏子、佐野恵美、大川隆志、そして負傷者たちの名前が記されていた。
「起訴されたことで、これから裁判へ向けた準備が進みます。ただ、初公判までには時間が掛かります」
遠山の説明を聞きながら、乃亜は母の名前を見つめていた。
斉藤杏子。
何度も学校の書類に書いてもらった名前だった。連絡帳や参加申込書の保護者欄にあった名前が、今は刑事事件の被害者として紙の上に並んでいる。
「これだけ名前があっても、お母さんは一人なんだよ」
乃亜がつぶやいた。
「恵美さんも、隆志さんも、理央さんたちも、みんな一人ずつなんやろ。まとめて十六人って言われても、その一人がいなくなったら、家族はこんなことになるんよ」
遠山はうなずいた。
「そのことを、裁判でも伝えていきましょう。何をされたかだけでなく、誰が、どんな暮らしを奪われたのかを」
貴教は資料の端に書かれた母の年齢へ指を置いた。
「お母さん、ずっと三十八歳なの?」
勝は息を詰まらせた。
「……そうだな」
「僕が十歳になっても、二十歳になっても?」
勝は答える代わりに、貴教の肩へ手を置いた。杏子だけが年を重ねられない。その現実を、貴教は紙の上の数字から初めて感じ取っていた。
家へ帰ったあと、乃亜は杏子のスマートフォンを開いた。
写真を見ようとしたところで、予定表の通知が表示された。
『乃亜 練習試合。体育館、九時集合』
母が入力した予定だった。
その翌日には、貴教の野球の練習。次の週には学校への提出物、勝の仕事が遅くなる日、杏子の両親を車で送る予定まで入っていた。
乃亜が画面を送ると、少し先の日付に短い書き込みがあった。
『四人でご飯。何を食べたいか聞く』
乃亜はその場から動けなくなった。
「お母さん、先のことまで考えてたんやね」
勝が隣へ座った。
「いつも、俺たちの予定を覚えてくれてたからな」
「私、当たり前やと思ってた。明日は何時に出るんって聞かれたら、分かってるって言ってた」
貴教ものぞき込み、自分の練習の日を見つけた。
「俺の水筒、忘れんようにって書いてある」
画面には、杏子だけが使っていた小さな印や、家族にしか意味の分からない省略が残されていた。母が生きていた頃には、ただ便利な予定表だった。今は、一日ずつ家族を気に掛けていた跡だった。
乃亜は予定を消さず、スマートフォンをそっと伏せた。
一方、黒田の刑事責任能力をめぐって、弁護側は精神鑑定を求めていた。
検察は犯行前後の行動を詳しく検討していた。凶器を準備した経緯、川崎駅を繰り返し訪れた記録、駅員に声を掛けられた際の受け答え、事件後の供述。石黒刑事たちも、証拠と証言の食い違いがないか確認を続けていた。
起訴は、事件の決着ではなかった。
勝たちが知りたいことも、伝えたいことも、まだ数多く残されていた。
その頃、「フライデー爆笑ラジオカフェ」では、曲のリクエストを中心とした放送が続いていた。
事件の前なら、放送が始まって数分で光子と優子の掛け合いが加速し、スタッフまで笑いをこらえきれなくなっていた。しかし今は、落ち着いた声で投稿を紹介し、曲を流し、次のリクエストへ移る。
爆笑ネタの募集は休止され、裏トークと爆笑通信も再開されていなかった。
光子と優子には、答えが出せずにいた。
自分たちの歌を聴き、ライブで笑い、家族で番組を楽しんでいた杏子が、あの事件で命を奪われた。娘の乃亜から届いた投稿も、まだ手元に残っている。
「いつもみたいに笑っていいんかな」
放送前の会議で、優子が言った。
「私たちが大声で笑ってたら、乃亜ちゃんたちは、取り残されたように感じないかなって」
光子も台本へ目を落とした。
「前と同じ番組に戻したい気持ちはある。でも、戻しますって私たちから言っていいのか分からん。杏子さんが亡くなったことを、もう終わった話にしたみたいになるのが怖い」
ディレクターは、休止しているコーナーの台本を閉じた。
「再開を急ぐ必要はありません。ただ、このまま続けることが皆さんの支えになるのかも、考えたいです」
誰も簡単には結論を出せなかった。
そんな中、番組公式サイトへ一通の投稿が届いた。
川崎駅の事件の遺族と負傷者たちによる、連名のメッセージだった。参加した全員が内容を確認し、公開することに同意したうえで送られたものだった。
最初に提案したのは新井理央だった。
「皆さんの前で、笑ってもいいのかって聞きましたよね」
連絡会で、理央はそう切り出した。
「乃亜ちゃんに、生きていることを謝らないでと言ってもらって、ずっと考えていたんです。私はまだ事件を思い出すし、怖い。でも、怖いこと以外の時間も、少しずつ欲しいです」
大川節子もうなずいた。
「主人を忘れたいわけではないんです。ただ、孫が笑ったとき、一緒に笑えるようになりたい。笑ったあとで泣いても、それでいいと思いたいです」
佐野幸也は、隣で玩具を動かしている恵一を見た。
「息子は、今でも遊んでいると笑うんです。その顔を見ると、私も少し笑えます。でも、そのあとに妻がいないことを思い出す。そんな毎日です」
勝は子供たちへ尋ねた。
「乃亜と貴教は、どう思う?」
貴教は少し考えてから答えた。
「お母さん、あの番組を聴いて、よう笑ってたやろ。俺、またあの声を聴きたい」
乃亜も、母と聴いていた金曜日の夜を思い出した。
「まだ笑えないかもしれん。でも、笑い声を聴きたい。私たちがおるから、ずっと笑えない番組になったら、それも悲しい」
皆の言葉をまとめ、投稿文は何度も書き直された。
そして金曜日の放送前、光子と優子のもとへ届けられた。
二人は並んで読み、読み終えたあとも、しばらく席を立てなかった。
「私たち、悲しんでいる人は笑いを望んでいないって、決めつけてたのかもしれんね」
光子が言った。
優子は首をゆっくり横に振った。
「望む日も、聴けない日もあるんやろうね。それを私たちが一つに決めることはできんのやと思う」
スタッフを交え、もう一度話し合いが行われた。
通常の番組へ戻すこと。裏トークと爆笑通信も再開すること。その一方で、事件を忘れず、被害者や遺族を笑いの題材にしないこと。悲しみの報告に、無理な明るさで返さないこと。
光子と優子は、来週から再開するという結論を出した。
その夜の放送も、いつものように曲のリクエストから始まった。
斉藤家では、勝、乃亜、貴教が居間で聴いていた。杏子の遺影の前には、小さな花が飾られている。
番組が終わりに近づいた頃、光子が静かに告げた。
「今日は最後に、川崎駅の事件でご家族を亡くされた方々、けがをされた方々から届いた、連名のメッセージをご紹介します」
乃亜は背筋を伸ばした。
優子が読み始めた。
「『光子さん、優子さん、番組スタッフの皆さん。私たちの悲しみに寄り添い、音楽を届け続けてくださって、ありがとうございます』」
続いて光子が読んだ。
「『フライデー爆笑ラジオカフェは、私たちの笑顔の源の一つでした。事件前、家族で笑い合った金曜日の夜を、今も大切に覚えています』」
優子の声が、わずかに揺れた。
「『私たちも、いつか笑って過ごせるようになりたいと思います。また皆さんの爆笑ネタを聴いて、いつかお腹の底から笑い合えるようになりたいです』」
光子は最後の一文を、ゆっくり読んだ。
「『また、光子さん、優子さんの明るい笑い声を聴かせてください』」
スタジオに沈黙が落ちた。
やがて光子が、マイクへ顔を上げた。
「ありがとうございます。私たちも、ずっと悩んでいました。大切なリスナーさんの命が奪われたあと、以前のように笑いを届けていいのか、答えを出せずにいました」
優子が続けた。
「でも、今日いただいた言葉を、スタッフのみんなと何度も読みました。笑えるようになりたいという願いを、私たちも大切にしたいと思います」
光子は一度、息を整えた。
「来週から、『フライデー爆笑ラジオカフェ』は通常の内容へ戻します。皆さんの爆笑ネタも、また募集します」
「そして、裏トークと爆笑通信も再開します」
優子が告知すると、スタッフが小さくうなずいた。
「聴いて笑える夜も、まだ聴けない夜もあると思います。途中でラジオを止めてもいいし、曲だけ楽しんでもいい。皆さんの時間で、またここへ来てください」
光子は手元の投稿を見つめた。
「杏子さん、恵美さん、隆志さんのことを忘れて再開するのではありません。覚えている私たちが、また番組を続けます」
居間で、乃亜がラジオへ近づいた。
「お母さん、来週から戻るって」
貴教は母の遺影を見た。
「裏トークもやるって。お母さん、途中で寝たふりして、結局最後まで聴いてたよね」
勝の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「そうだったな。明日早いからって言いながら、一番笑ってた」
三人の間に、久しぶりに杏子の楽しい思い出が行き交った。
乃亜は涙を拭いた。笑えたとは、まだ言えなかった。それでも来週の金曜日を、少しだけ待ちたいと思った。
食卓には検察からの書面が置かれ、杏子のスマートフォンには、もう実現しない予定が残っている。
その隣で乃亜は、自分の予定表を開いた。
翌週の金曜日に、一つだけ書き込む。
『三人でラジオ』
画面を閉じる前に、乃亜は母の遺影へ振り返った。
「お母さんも、一緒に聴こうね」
次回予告
通常放送へ戻る「フライデー爆笑ラジオカフェ」。
乃亜と貴教は楽しみに待つ一方、母と笑った時間を思い出すことに戸惑っていた。
「笑ったら、お母さんがいないことを忘れたみたいにならん?」
その頃、勝は杏子の勤務先を訪れ、机に残された私物を受け取る。手帳の間から出てきたのは、家族四人で撮った、あの二十枚目の写真だった。
一方、裁判へ向けた準備では、黒田の犯行当時の精神状態が争点として浮かび上がる。
次回、第28話「笑っても、忘れない」。
久しぶりに聞こえる二人の笑い声は、斉藤家の金曜日に何を運ぶのでしょうか。




