姉弟キッチン大騒動
『戻らない日常2 「ただいま」の消えたホーム』
第4話「姉弟キッチン大騒動」
その日の夕方、斉藤杏子は川崎の営業先で、取引先へ届ける資料に数字の食い違いが見つかり、担当者と確認を続けていた。原因を突き止めて修正を終えるころには、いつも乗る電車に間に合わない時間になっていた。
〈ごめん、今日は帰るのが遅くなる。夕飯は先に食べててね〉
杏子からのメッセージを読んだ乃亜は、隣で野球のグラブを手入れしていた貴教に画面を見せた。
「お母さん、疲れて帰ってくるよね」
「うん。お父さんに何か買ってきてもらう?」
「今日は私たちで作ろうよ。カレーならできると思う」
貴教の目が輝いた。
「カレー! 俺、野菜切る!」
二人は台所へ向かい、冷蔵庫の中を確認した。玉ねぎ、にんじん、さつまいもがあり、棚には買い置きのカレールーが二箱ある。乃亜は片方の箱を取り上げて、満足そうにうなずいた。
「よし、辛口」
「待って。俺、辛いの食べたくない」
貴教はすぐにもう一箱を持ち上げた。甘口だった。
「お母さん、甘口のほうが疲れ取れると思う」
「それ、貴教が食べたいだけでしょう。私は辛口がいいの」
「譲歩しても中辛まで!」
「中辛のルー、ないじゃん」
二人は同時に棚を見た。辛口と甘口の二箱だけが、並んでこちらを向いている。
「じゃあ半分ずつ入れよう」と乃亜が提案すると、貴教は首を横に振った。
「辛口が半分も入ったら辛いって。さつまいもと玉ねぎとにんじん、いっぱい入れてよ。煮込んだら甘くなるから」
「さつまいもまで入れるの?」
「入れる。大きめに切って」
「カレーというより、貴教の好きな野菜発表会になりそう」
「お姉ちゃんこそ、辛口を入れたいだけじゃん!」
乃亜が言い返そうとしたところで、玄関の鍵が開いた。帰ってきた勝は、台所に立つ二人を見て足を止める。
「お、夕飯を作ってるのか。助かるな」
「お父さん、辛口と甘口、どっちがいい?」
乃亜が尋ねると、勝はネクタイを緩めながら答えた。
「お母さんが食べやすいほうでいいんじゃないか」
「その答えは選択肢にありません」
「えっ、俺も参加するのか?」
貴教は甘口の箱を勝に渡し、乃亜は辛口の箱を渡した。両手にルーを持たされた勝は、交互に箱を見つめる。どちらを選んでも、片方から文句が出るのは明らかだった。
「中辛にできないのか?」
「お父さん、中辛のルーを持って帰ってきた?」
「……ない」
「じゃあ審判になって」
結局、二人はじゃんけんで決めることにした。一回勝負では納得できないと乃亜が言い、貴教は「七回勝負で、先に四勝したほう」と条件を出す。勝は台所の時計を見た。
「それより先に、鍋を――」
「最初はグー!」
父の声は姉弟の掛け声にかき消された。
一回目は貴教、二回目は乃亜。三回目と四回目を乃亜が連勝し、貴教は腕を組んで「出す手を読まれてる」と唸った。五回目に貴教が勝つと、今度は乃亜が「いまのグー、後から出した?」と抗議する。
「お父さん、判定!」
「普通のグーだったぞ。それより玉ねぎが鍋底に――」
「六回目、いくよ!」
「話を聞いてくれ!」
六回目は貴教が勝ち、三勝三敗。最後の一回を前に、二人は向かい合って真剣な顔になった。その後ろで、勝は鍋の火を弱め、木べらで底をこすった。玉ねぎには少し焼き色がついていたが、幸い焦げてはいない。
「最初はグー、じゃんけん――ぽん!」
乃亜はチョキ、貴教はグー。
「やった! 甘口!」
貴教は勝の周りを一周して喜んだ。乃亜は悔しそうに辛口の箱を棚へ戻す。
「約束だから甘口ね。でも、さつまいもは入れ過ぎないでよ」
「大きいの三つ!」
「多い!」
「二つ」
「一つ半」
「どうやって半分にするの?」
勝がまな板の上のさつまいもを包丁で切りながら、「こうやって」と答えた。二人がじゃんけんに夢中になっている間、肉を炒め、鍋を見て、包丁まで握っていたのは勝だった。
「お父さん、ずるい。もう切ってる」
「切らないと夕飯にならないからな」
「じゃあ、あとは私たちがやる!」
乃亜はにんじんを切り、貴教は勝に見守られながら玉ねぎを鍋へ運んだ。さつまいもも加えて煮込み始めると、台所には甘い香りが立ち始めた。
野菜が柔らかくなったところで、貴教がルーの箱を開けた。乃亜は鍋の火を止め、振り向く。
「貴教、お姉ちゃん、ルーを入れるから――」
「えっ。俺、もう入れた」
「お姉ちゃん、ルーを全部入れたの?」
先に貴教の声が飛んだ。乃亜の手には、開封した辛口の箱があった。
「全部じゃないよ。一かけだけ。味を見てからにしようと思って」
「じゃんけんで負けたじゃん!」
「甘口だけだと、お父さんには甘過ぎるかもって……。貴教こそ、何を追加したの!」
乃亜が鍋をのぞくと、さつまいもの角切りが予想よりずっと多い。
「一つ半だよ」
「一つ半を、こんなに細かく切ったの?」
「たくさん入ってるように見えるから」
勝は二人の間に立ち、鍋の中を確かめた。甘口のルーに辛口を一かけ。玉ねぎとにんじんに、貴教が細かく切ったさつまいも。少し濃くなりそうだったので水を足し、混ぜながら味見をする。
「……うまいぞ」
「本当に?」
乃亜と貴教が同時に顔を寄せた。勝は小皿に少しずつ取り分ける。先に味見した貴教は、慎重に口を動かしてから目を丸くした。
「辛くない。さつまいも、甘い!」
乃亜も続いて食べ、思わず笑った。
「ほんとだ。後からちょっとだけ辛い。これなら私も好き」
「じゃんけん、何のためにしたんだろうな」
勝がつぶやくと、二人は目を合わせて吹き出した。
やがて玄関から「ただいま」と杏子の声がした。仕事用のバッグを肩に掛けたまま台所をのぞいた杏子は、食卓に四人分のカレーが並んでいるのを見て、驚いて立ち止まった。
「これ、みんなで作ったの?」
「私と貴教が作った!」
「お父さんも少し手伝った」
乃亜の言葉に、勝は「少し、か」と小さく笑った。貴教は母の椅子を引きながら、待ち切れない様子で言う。
「お母さん、食べてみて。さつまいも、いっぱい入ってるから」
杏子は手を洗い、上着を脱いで食卓についた。ひと口食べると、すぐにもうひと口すくう。
「めっちゃ美味しいやん!」
乃亜と貴教の顔が、同時に明るくなった。
「玉ねぎもにんじんも甘くて、さつまいもがほくほく。最後に少し辛さが来るのもいいね。疲れて帰ってきた日に、こんなカレーが待ってるなんて幸せ」
「辛口、私が一かけだけ入れたの」
「甘くしたのは俺!」
二人が胸を張ると、杏子はそれぞれの頭を撫でた。
「二人で作ってくれたから、美味しくなったんだね。ありがとう」
その横で、勝はようやく自分のカレーを食べ始めた。杏子は勝の疲れた顔と、流しにきれいに並べられた調理器具を見比べる。
「……勝も、ありがとう。かなり手伝ったでしょ」
「鍋を見て、肉を炒めて、野菜を切って、味を整えたくらいかな」
「ほとんどお父さんじゃん!」
乃亜が笑うと、貴教も「あ、バケツじゃなくて鍋を守ってたんだ」と野球の練習を思い出して声を上げた。勝はスプーンを置き、二人を見回す。
「じゃんけんの審判までしたぞ。今日いちばん巻き込まれたのは俺だ」
「お父さんのおかげで、焦げずに済んだんだね」
杏子がそう言って笑うと、勝もつられて笑った。仕事で疲れていた杏子は、カレーを食べ終わるころにはすっかり表情が柔らかくなっていた。
食後、乃亜と貴教は後片づけを引き受けた。勝がまた立ち上がろうとすると、乃亜が手で制する。
「お父さんは座ってて。今日はもう十分働いたから」
「そうそう。じゃんけんの審判も大変だったし」
「そこを一番に挙げるのか」
勝の返事を聞きながら、杏子は空になった皿を見つめた。帰りの電車では、家に着いてから夕食をどうしようかと考えていた。台所で待っていたのが姉弟の言い争う声と温かいカレーだったことが、うれしかった。
その週の「フライデー爆笑ラジオカフェ」には、杏子から〈七回勝負のカレー〉という投稿が届いた。
光子が「辛口と甘口の決着をつけるため、姉弟で七回じゃんけんをしました」と読み上げると、優子がすぐに声を上げた。
「その間、鍋は誰が見とったん?」
「お父さんです」
「やっぱり!」
光子は続きを読みながら笑った。
「しかもお父さん、鍋の火を弱め、野菜を切り、味まで整えたそうです。お母さんは『めっちゃ美味しい』と大絶賛。お父さんの感想は、『いちばん巻き込まれたのは俺』」
「七回勝負の勝者は貴教くん。でも、カレーを守り切ったのはお父さんやね」
ラジオの前で、乃亜と貴教が笑い、杏子が勝の肩をたたいた。
「改めて、ごちそうさま」
「こちらこそ。次は俺もじゃんけんに参加させてくれ」
「お父さん、何を賭けるの?」
貴教に聞かれた勝は、少し考えてから答えた。
「調理係を決める権利かな」
「それだけは、お父さんが勝ったら駄目!」
乃亜の声に、斉藤家のリビングはまた笑いに包まれた。
次回予告
M&Yの横浜ライブ、先行受付の結果発表が近づく。乃亜は授業中も時計を気にし、学校では美羽に「まだ当落は変わらないよ」とたしなめられる。
帰宅後、午後六時。家族四人が見守るなか、杏子が申し込み結果を開く。
次回、第5話「当選発表は午後六時」。
乃亜、まずは画面を見る前に深呼吸!




