外野から飛んできたもの
第3話「外野から飛んできたもの」
土曜日の朝、横浜市港南区にある河川敷の野球場には、乾いた金属バットの音と、少年たちの元気な掛け声が響いていた。
この春から少年野球チーム「横浜リトルファイヤーズ」へ入団した斉藤貴教は、真新しいユニフォームを着て、外野の芝生に立っていた。胸元には赤い炎を模したチームマークが入り、頭にはまだ少し大きな帽子をかぶっている。
「貴教、帽子がずれてるぞ」
同じ四年生で、ショートを守る水野悠真が笑った。
「分かってる。新しいから、まだ俺の頭になじんでないだけ」
「帽子が頭になじむって、どういうこと?」
「そのうち、ぴったりになるんだよ」
貴教が帽子を押さえていると、六年生の主将で捕手を務める神谷大地が、ホームベース付近から声を張り上げた。
「外野、準備できたか!」
「できてます!」
貴教は慌ててグラブを構えた。
横浜リトルファイヤーズを率いる大森健二監督は、ノックバットを片手に、入団したばかりの貴教を見つめていた。隣では西村直人コーチが、選手たちの動きを記録している。
「貴教は外野全部を練習させる。まずはレフトからだ」
大森監督の指示を受け、貴教はレフトの守備位置へ走った。俊足というほどではないが、一歩目の反応が速く、飛んできたボールを怖がらない。入団前の体験練習で見せた強い肩も評価され、外野手として育てる方針が決まっていた。
最初の打球が、左中間へ高く上がった。
「貴教、後ろ!」
センターを守る五年生の渡辺陸が声をかける。
貴教は落下地点へ走り、少しふらつきながらも、胸の前でボールを捕った。
「よし、取った!」
「すぐ返せ!」
大森監督の声に反応し、貴教はボールを右手へ持ち替えた。大きく腕を振り、内野の中継へ向かって力いっぱい投げる。
白球は勢いよく低い軌道を描いた。
ところが、ショートの悠真が構えている場所より大きく右へそれ、ファーストの横を通過して、ベンチ前に置かれていたボール用のバケツへ飛び込んだ。
ガコンッ。
バケツが倒れ、中に入っていたボールが一斉に転がり出す。
グラウンドが静まり返った。
貴教は外野から恐る恐る尋ねた。
「……今の、返球としては強かったですよね?」
悠真が両手を腰へ当てる。
「強かったけど、俺がいた場所と全然違う!」
ベンチ前にいた西村コーチは、足元へ転がってきたボールを拾った。
「貴教、バケツにストライクを投げてどうするんだ」
「狙ってません!」
「狙ってないのに入ったのか。ある意味、すごいな」
仲間たちから笑いが起こった。大森監督も口元を緩めながら、もう一球ノックを打つ。
「次は力を入れ過ぎるな。中継に正確に返せ」
「はい!」
二球目は、貴教の正面へ飛んできた。今度は余裕を持って捕り、悠真の胸元を狙って投げる。
しかし、ボールは貴教の手を離れた瞬間から上へ上へと伸び、悠真の頭上を大きく越えた。
「高い!」
悠真とセカンドの岡田優斗が同時に振り返る。
ボールは内野を越え、大森監督のほうへ向かって飛んでいった。監督は素早く身をかがめたが、白球は帽子のつばをかすめ、そのままバックネットへ当たった。
大森監督の帽子が、くるりと宙を舞って地面へ落ちる。
またしてもグラウンドが静まり返った。
貴教の顔から血の気が引いた。
「か、監督……大丈夫ですか?」
大森監督はゆっくり帽子を拾い、砂を払ってかぶり直した。
「俺の帽子をホームランにする外野手は、初めて見たぞ」
「すみません!」
貴教は外野から深々と頭を下げた。その勢いで帽子が前へ落ち、今度は陸が腹を抱えて笑い始める。
「貴教、帽子まで暴投してるぞ!」
ほかの選手たちも堪え切れず、グラウンドは笑いに包まれた。
大森監督は貴教を呼び寄せると、投球動作を確認した。貴教は肩の強さを見せようとするあまり、上半身だけで思い切り投げ、ボールを離す位置が毎回変わっていた。
「確かに肩は強いんだけどなぁ」
大森監督は腕を組み、貴教の右肩を軽くたたいた。
「でも、まだコントロールが正確じゃない。時々、投げたボールがあっちのほうへ飛んでいく」
監督が指さしたのは、中継の選手がいる方向ではなく、先ほど倒されたバケツだった。
貴教は小さくうなずいた。
「強く投げればいいと思ってました」
「外野手は、ただ遠くへ投げればいいわけじゃない。どれだけ強い肩を持っていても、味方が捕れなければアウトにはできないんだ」
神谷大地も捕手用具を外しながら近づいてきた。
「中継に投げるときは、相手の胸を見るんだ。どこかへ飛んでいけと思って投げるんじゃなくて、悠真に渡すつもりで投げろ」
「分かりました」
「それから、監督の帽子は狙うなよ」
「狙ってません!」
貴教の返事に、再び笑いが起きた。
その後、西村コーチは外野から少し離れた位置へ大きなネットを置き、中央に四角い目印をつけた。
「今日は、この枠へ十球投げろ。強さは半分でいい。足を止めず、体を中継方向へ向けて投げるんだ」
貴教はボールを握り、目印を見つめた。
一球目は左へそれ、二球目は枠の上へ当たった。三球目は地面を転がり、見守っていた悠真から「今度はモグラをアウトにするのか」と笑われた。
それでも貴教は、教えられたとおりに足を運び、肩の向きを確かめながら繰り返した。
七球目で、初めてボールが枠の中へ入った。
「入った!」
「今の感覚を忘れるな!」
大森監督の声を受け、貴教は続けて投げた。八球目はわずかに右、九球目は枠の下。そして十球目は、中央の目印へ真っすぐ飛んだ。
バシンッ。
ネットが気持ちのよい音を立てる。
貴教は右手を握り締めた。
「よし!」
悠真が駆け寄り、貴教の背中をたたいた。
「やればできるじゃん」
「最初からできる予定だった」
「監督の帽子を飛ばした人が言う?」
「それはもう忘れて」
練習の最後に行われた守備連係で、貴教はセンター前へ抜けた打球を素早く処理した。今度は力任せに投げず、体を内野へ向けて、悠真の胸元へ返す。
ボールは少しだけ右へずれたものの、悠真が一歩動くだけで捕れる場所へ届いた。
「ナイスボール!」
その声を聞いた貴教の顔に、ようやく笑みが広がった。
練習後、グラウンドの外では、勝、杏子、乃亜が待っていた。貴教は家族の姿を見つけると、誇らしげに駆け寄った。
「俺、監督に肩が強いって褒められた!」
乃亜が目を細める。
「それだけ?」
「それだけだよ」
後ろから歩いてきた悠真が、笑いながら口を挟んだ。
「監督の帽子も吹き飛ばしました!」
「悠真、言うな!」
乃亜は一瞬黙ったあと、額の冷却シートを指さした。
「私は掲示板に頭をぶつけて、貴教は監督の帽子にボールをぶつけた。今週の斉藤家、狙ったところに何も当たってないね」
杏子が吹き出し、勝も声を上げて笑った。
「貴教、肩が強いのは立派だけど、次からは味方が捕れるところへ投げないとな」
「分かってる。今日、ちゃんと練習したもん」
「じゃあ帰ったら、お父さんとキャッチボールするか」
「する!」
「私は離れたところで見てる」
乃亜が言うと、貴教はむっとした顔を向けた。
「もう変なところには飛ばさないよ!」
「一応、ヘルメットをかぶっておこうかな」
「お姉ちゃんには投げない!」
その夜、杏子は「フライデー爆笑ラジオカフェ」へ一通のメールを送った。
ラジオネームは、〈港南台の外野席から〉。
うちの小学四年生の息子が少年野球チームへ入りました。肩が強いと褒められたのですが、最初の返球はボール用のバケツへ入り、次の返球は監督の帽子を吹き飛ばしました。本人は「肩の強さは証明できた」と胸を張っています。外野から投げるたび、家族はボールの行き先より、周囲の安全を確認しています。
光子がメールを読み終える前に吹き出し、優子も机をたたいて笑った。
「肩の強さは、確かに証明できとる!」
「でも監督さん、毎回命がけやん!」
ラジオの前で、勝と杏子と乃亜が大笑いする。貴教だけは頬を膨らませていた。
「お母さん、なんで送ったの!」
「だって、面白かったんだもの」
「来週、絶対に真っすぐ投げるから!」
「その報告も番組に送ろうね」
「送らなくていい!」
貴教の叫びと家族の笑い声が、斉藤家のリビングに響いていた。
同じ放送は、離れた町の暗い部屋にも流れていた。
三上達也は、机の前でラジオを聞いていた。スピーカーから聞こえる光子と優子の笑い声、その向こう側にいる家族の楽しそうな様子を想像し、無言で電源を切る。
部屋から音が消えた。
三上は閉じたカーテンへ目を向け、低くつぶやいた。
「くだらない」
その表情には、笑いの欠片もなかった。
次回予告
仕事先で起きたトラブルにより、杏子の帰宅が遅くなる。
そこで乃亜と貴教は、疲れて帰ってくる母のために夕食を作ることを決意する。
ところが、甘口と辛口を巡って姉弟げんかが勃発。勝まで巻き込まれ、斉藤家の台所は大混乱へ。
「お姉ちゃん、ルーを全部入れたの?」
「貴教こそ、何を追加したの!」
次回、第4話。
「姉弟キッチン大騒動」
果たして、そのカレーは食べられるのでしょうか。




