最上級生、転びます
『戻らない日常2 「ただいま」の消えたホーム』
第2話「最上級生、転びます」
四月の港南小学校には、まだ新しい教科書と真新しいランドセルの匂いが残っていた。入学したばかりの一年生たちは、教室から特別教室へ移動するだけでも不安そうに辺りを見回しており、廊下のあちこちでは六年生が優しく声をかけていた。
六年生になった斉藤乃亜も、委員会活動の一環として一年生へ校内を案内する役目を任されていた。
「一年生の皆さん、ちゃんと前のお友達についてきてください。廊下は走ったら駄目ですよ」
先頭を歩く乃亜は、胸を張って呼びかけた。その隣には、同じクラスで同じ委員会の中村莉子がいる。莉子は真面目で面倒見がよく、浮かれて話し続ける乃亜をときどき横目で確認していた。
「乃亜、今日はずいぶんお姉さんらしいね」
「今日からじゃないよ。私は六年生になった瞬間から、頼れる最上級生に生まれ変わったの」
「始業式の日、上履きを左右逆に履いていた人が?」
「あれは床との接地感覚を確認していたの」
「どんな確認よ」
二人のやり取りを聞いていた一年生たちが、くすくすと笑った。
乃亜のすぐ後ろを歩いていた佐々木ひよりは、少し緊張が解けたらしく、小さく手を挙げた。
「お姉ちゃん、保健室はどこ?」
「保健室ね。ちょうどこれから案内するところだよ」
乃亜は一年生たちのほうへ体を向けると、後ろ向きに歩き始めた。
「この廊下をずっとまっすぐ進んで、突き当たりを右へ曲がると――」
莉子が前方を見て、顔色を変えた。
「乃亜、前!」
「え?」
振り返るより先に、乃亜の額が廊下の掲示板の角へぶつかった。
ゴンッ。
「いったーい!」
乃亜は両手で額を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
突然の出来事に、一年生たちは目を丸くした。莉子は慌てて駆け寄り、乃亜の肩へ手を置いた。
「大丈夫? かなりいい音がしたよ」
「だ、大丈夫。最上級生は、このくらいでは泣きません」
そう言って顔を上げた乃亜の目には、うっすら涙が浮かんでいた。額の真ん中は赤くなり、早くも小さなたんこぶができ始めている。
一年生の小川晴が、心配そうに乃亜の顔をのぞき込んだ。
「お姉ちゃん、泣いてる?」
「泣いてません。これは目から出た汗です」
「目から汗って出るの?」
「今、出るようになりました」
乃亜は痛みと恥ずかしさをごまかすように、「てへっ」と舌を出した。
その表情を見たひよりが、ぱっと笑顔になった。
「お姉ちゃん、かわいい!」
ほかの一年生たちも安心したように笑い始める。
「かわいいお姉ちゃん!」
「面白い!」
晴は掲示板を指さし、無邪気に言った。
「もう一回ぶつかって!」
「それはお断りします!」
乃亜が即答すると、廊下に大きな笑い声が響いた。
「廊下では静かにしなさい」と注意するはずだった乃亜自身が、その中心にいる。莉子は笑いをこらえながら、乃亜の腕を取った。
「ほら、保健室へ行くよ」
「でも、まだ案内の途中……」
「大丈夫。乃亜が体を張って、保健室の必要性まで教えてくれたから」
「こんな実演教育、するつもりなかったんだけど」
結局、乃亜は一年生を案内するはずだった保健室へ、自分が診てもらうために入ることになった。
養護教諭は乃亜の額へ冷却材を当てながら、何度も口元を緩めていた。
「一年生の校内案内で、自分が最初の利用者になる六年生は珍しいわね」
「先生まで笑わないでください」
「でも、重いけがじゃなくてよかった。小さなたんこぶだけね」
「小さいですか?」
「乃亜さんの元気の大きさに比べれば」
保健室の入口から、ひよりと晴が心配そうに顔をのぞかせていた。乃亜が手を振ると、二人も笑顔で振り返した。
「掲示板お姉ちゃん、またね!」
「その呼び方は今日限りにして!」
乃亜の訴えもむなしく、二人は笑いながら一年生の列へ戻っていった。
昼休みになるころには、「掲示板へぶつかって、てへっと舌を出した面白い六年生」の噂が、一年生の間にすっかり広まっていた。
乃亜が廊下を歩くと、知らない一年生まで手を振ってくる。
「掲示板お姉ちゃんだ!」
「おでこ、大丈夫?」
「かわいいお姉ちゃん!」
乃亜は前髪を下ろして小さなたんこぶを隠しながら、教室へ逃げ込んだ。
教室では、親友の高橋美羽と、クラスのムードメーカーである岡本颯太が待ち構えていた。
「お帰り、掲示板お姉ちゃん」
美羽が笑顔で迎える。
「美羽まで、その名前で呼ばないで」
颯太は乃亜の額を見ながら、真剣な顔を作った。
「掲示板は大丈夫だった?」
「心配する相手が逆!」
「学校の大切な備品だから」
「私も大切にして!」
森川蓮が、額の冷却シートを見て苦笑した。
「でも、乃亜らしいよね。最上級生になった初日から一年生の人気者になるなんて」
「私が欲しかったのは、尊敬されるお姉さんという立場なの。笑われるゆるキャラの立場じゃないの」
莉子が自分の席へ戻りながら言った。
「自分で『てへっ』って舌を出したんでしょう?」
「緊急時の照れ隠しです」
「それで人気が出たんだから、よかったじゃん」
美羽が乃亜の肩をたたく。
「これから港南小学校の人気者だね、掲示板お姉ちゃん」
「だから、その呼び方を定着させないで!」
乃亜の叫びに、教室中から笑いが起きた。
放課後、乃亜は小さな冷却シートを額に貼ったまま、港ブルーサンダースの練習へ向かった。
体育館へ入ると、主将の横山紗良がすぐに額の異変へ気づいた。
「乃亜、そのおでこ、どうしたの?」
乃亜はできるだけ平静を装い、胸を張った。
「一年生へ学校を案内している途中、校内設備の安全性を自分の体で確認しました」
石井結衣が首をかしげる。
「普通に掲示板へぶつかっただけじゃないの?」
「そんな単純な話ではありません」
「たんこぶができるくらい単純な衝突だったんでしょう?」
田辺心春の冷静な指摘に、乃亜は言葉を失った。
五年生の小林凛が額をのぞき込み、四年生の松永七海も背伸びをしながら冷却シートを見上げる。
「乃亜ちゃん、痛かった?」
七海が尋ねると、乃亜は優しく笑った。
「大丈夫。これくらいなら、いつもの私です」
凛がすかさず突っ込む。
「いつも掲示板にぶつかってるの?」
「今日は言葉のあや!」
そこへ村瀬浩司コーチが姿を見せ、笛を鳴らした。
「おしゃべりはそこまで。紗良を中心に準備運動を始めろ。乃亜は本当に練習できるのか?」
「できます。頭以外は絶好調です」
「それは普段と変わらないという意味か?」
「コーチまで何を言ってるんですか!」
体育館に笑いが起きた。
準備運動を終えると、二人一組でのパス練習が始まった。乃亜は結衣と向かい合い、テンポよくチェストパスを繰り返す。
「結衣、もう少し強くていいよ!」
「本当に? おでこで受けないでね」
「今度はちゃんと手で取るから!」
結衣が少し強めのパスを送る。乃亜が両手を構えたとき、体育館の入口から聞き覚えのある声が響いた。
「あ、掲示板お姉ちゃん!」
乃亜が思わず横を向くと、そこには姉の練習を見に来たひよりが立っていた。
「その呼び方、体育館まで持ってこないで――」
ぽこん。
結衣が投げたボールが、乃亜の手をすり抜け、額の小さなたんこぶへ軽く当たった。
「いったーい!」
乃亜は額を押さえ、その場へしゃがみ込んだ。
結衣は慌てて駆け寄る。
「ごめん、乃亜! 大丈夫?」
心春は両手を腰へ当て、呆れたように見下ろした。
「乃亜ちゃん、何やってんの?」
「今日は、私のおでこがいろんなものを引き寄せる日なの!」
「掲示板の次はバスケットボールか」
紗良は心配しながらも、笑いをこらえ切れない。凛と七海は顔を見合わせ、声を上げて笑っていた。
「もう大丈夫! 次は格好いいところを見せるから!」
乃亜は立ち上がると、転がったボールを拾った。
「見てて。これが六年生のドリブルです!」
すばやく右手から左手へボールを持ち替え、心春をかわしてゴールへ切り込む。最後は軽やかに踏み切り、右手でレイアップシュートを放った。
ボールはバックボードへ当たり、きれいにリングを通過した。
「よし!」
乃亜は得意げに振り返った。しかし、その足元には、練習で使った別のボールが転がっていた。
「あっ」
ボールを踏みかけた乃亜は、両手を広げて必死に体勢を立て直そうとした。一歩、二歩、三歩と後ろへよろめき、そのまま体育館の隅に置かれていたボールかごへ尻からすっぽりとはまり込んだ。
ガラガラと大きな音を立て、かごの中のボールが一斉に床へ転がっていく。
体育館が静まり返った。
乃亜はボールかごにはまったまま、何事もなかったような顔で天井を見上げている。
心春が代表するように尋ねた。
「乃亜ちゃん、何やってんの?」
「新しい守備練習」
「どこを守ってるの?」
「ボールかご」
「試合では守らなくていい場所だよ!」
その瞬間、紗良も結衣も凛も七海も、一斉に吹き出した。村瀬コーチまで背中を向け、肩を震わせている。
乃亜はボールかごにはまったまま、また「てへっ」と舌を出した。
体育館の入口で見ていたひよりが、うれしそうに手をたたいた。
「やっぱり、あのお姉ちゃんかわいい!」
「ひよりちゃん、お願いだから学校で広めないでね!」
しかし翌日には、「掲示板お姉ちゃんが、バスケットボールのかごにもはまった」という新しい噂が、港南小学校の一年生たちへ広がることになる。
その夜、杏子は乃亜の額に冷たいタオルを当てながら、何度も笑いをこらえていた。
「一日で二回も同じところに物をぶつける人、お母さん初めて見たわ」
「お母さん、笑ってるでしょう」
「笑ってないわよ。心配してるの」
「口元が完全に笑ってる」
向かい側では、貴教が自分の額の右側を指さしていた。
「お姉ちゃん、明日はこっちにぶつけたら? 左右のバランスがよくなるよ」
「じゃあ、貴教の頭で試してあげる」
「なんで俺が試されるんだよ!」
貴教が逃げ出し、乃亜が冷たいタオルを額へ当てたまま追いかける。
「二人とも、家の中を走るな!」
勝が声を上げたものの、杏子の笑い声が重なり、説得力はほとんどなかった。
いつもの斉藤家の夜だった。
笑い声が響き、誰かが転びそうになれば、別の誰かが手を伸ばす。そんな当たり前の毎日が、これからも続いていくはずだった。
同じころ、離れた町の古い集合住宅では、一人の男が照明もつけず、暗い部屋に座っていた。
机の上の端末には、夕方の川崎駅を撮影した映像が映っている。仕事を終えて家路を急ぐ会社員、手をつないで歩く親子、笑い合う学生たちが、次々と画面を横切っていく。
男は、楽しそうに話す家族の姿で映像を止めた。
無表情だった男の顔が、わずかにゆがむ。
「何が、そんなに楽しいんだよ」
低い声だけが、暗い部屋に響いた。
男の名前を、斉藤家はまだ知らない。
男もまた、斉藤杏子という女性の存在を、まだ知らなかった。
次回予告
新しいユニフォームに袖を通し、横浜リトルファイヤーズで本格的な練習を始める貴教。
監督から肩の強さを褒められ、外野手として張り切る貴教だったが、力いっぱい投げ返したボールは、とんでもない方向へ飛んでいく。
「貴教! どこへ投げてるんだ!」
一方、乃亜の「掲示板お姉ちゃん」という呼び名は、一年生だけでなく、ブルーサンダースの仲間にまで定着し始める。
次回、第3話。
「外野から飛んできたもの」
その強肩、まずは狙ったところへ投げましょう。




