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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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四月の朝

 第1話「四月の朝」


 四月の柔らかな日差しが、横浜市港南区の住宅街を明るく照らしていた。斉藤家の窓から差し込む朝の光は、新しい学年の始まりにふさわしい穏やかさだったが、家の中まで穏やかかといえば、まったくそんなことはなかった。


「貴教! いつまで寝てるの! 今日から四年生でしょ!」


 台所から響いた杏子の声に、二階の子ども部屋から慌ただしい物音が返ってきた。何かが床へ落ち、椅子が引きずられ、続いて大きな足音が廊下を駆け抜ける。


「起きてる! もう完全に起きてる!」


「いま起きた人ほど、そう言うのよ!」


 階段を駆け下りてきた貴教は、寝癖のついた髪のまま、なぜか左手に野球のグラブをはめていた。


「なんでグラブしてんの?」


 食卓でトーストをかじっていた乃亜が、呆れたように弟を見た。


「昨日、枕元に置いて寝たから」


「入団したばっかなのに、もうグラブと結婚したん?」


「してない!」


「ほんなら婚約?」


「違うって!」


 乃亜が真顔で尋ねると、貴教はますますむきになった。杏子は笑いをこらえながら目玉焼きを皿へ載せ、新聞を読んでいた勝も紙面の向こうで肩を揺らしていた。


「朝から弟で遊ばないの。乃亜も今日から六年生でしょう。最上級生らしくしなさい」


「学校ではちゃんとするもん。家では別人」


「その別人、朝から相当うるさいぞ」


 勝が新聞を畳むと、乃亜は胸を張った。


「今年は委員会活動もクラブ活動も頑張るんだから。最上級生として、下級生のお手本にならないといけないし」


「家でも貴教のお手本になってくれたら助かるんだけどな」


「それは契約に入ってません」


 即答した乃亜に、勝が吹き出した。杏子は「何の契約よ」と言いながら牛乳を並べる。斉藤家の朝は、だいたいいつもこんな調子だった。


 乃亜は港南小学校の六年生になった。クラスメイトとも仲が良く、学校では誰とでも気さくに話せる明るい少女だった。少年バスケットボールチーム「港ブルーサンダース」に所属し、放課後や休日は体育館を走り回っている。ところが本人には、周囲を笑わせようとしなくても、なぜか笑いが起きてしまうという生まれつきのギャグ体質があった。


 先日も練習中、格好よくシュートを決めて振り返ったところ、得意げな顔のままボールかごへ尻から突っ込んだ。チームメイトは床に座り込んで笑い、乃亜だけが「いまのは新しい守備練習!」と言い張っていた。


 そんな乃亜が、バスケットボールと同じくらい夢中になっているのが、人気音楽ユニット「M&Y」だった。部屋にはポスターが貼られ、机の上にはCDやライブグッズがきれいに並べられている。横浜近隣でライブが開かれるときには、勝か杏子、あるいは二人そろって付き添うのが斉藤家の恒例行事になっていた。


「そういえば、M&Yの横浜ライブ、今日から先行受付だよ」


 乃亜が思い出したように言うと、杏子は時計を確認しながら答えた。


「分かってる。お昼休みに申し込んでおくから」


「本当? お母さん大好き!」


「当選したときだけ大好きって言うのは禁止」


「落選しても大好き。たぶん」


「たぶんをつけるな」


 杏子が乃亜の額を指で軽く押すと、食卓にまた笑いが広がった。


 一方、四年生になった貴教は、この春から地元の少年野球チーム「横浜リトルファイヤーズ」に入団した。ベイスターズの大ファンで、将来の夢はもちろんプロ野球選手である。入団直後の練習で遠投を披露したところ、監督から肩の強さを認められ、外野を任されることになった。


「監督がさ、外野は肩が大事だって。センターもライトもレフトも、全部できるようになれって言われた」


 貴教はグラブをはめたまま右腕を振った。その手が牛乳の入ったコップに当たりそうになり、杏子がすばやく取り上げる。


「家の中で送球動作をしない!」


「いまのは肩の確認」


「お母さんはいま、心臓の確認をするところだったわ」


「ちゃんと動いてる?」


「誰のせいで速く動いたと思ってるの!」


 再び食卓が笑いに包まれたところで、勝が腕時計を見た。


「そろそろ出るぞ。今日、新型車の開発会議が朝一番からあるんだ」


 大手自動車メーカー「イモト」で開発責任者を務める勝は、玄関で革靴を履き、車の鍵を手に取った。杏子が曲がっていたネクタイを直す。


「今日は遅くなる?」


「いや、なるべく早く帰る。貴教の入団祝い、まだちゃんとできてないから、みんなで食べに行こう」


「焼き肉!」


 貴教が即座に叫ぶ。


「お寿司!」


 乃亜も負けずに声を上げた。


「どうして入団した本人と関係ない人の希望が混ざってるんだ」


「最上級生への進級祝いも必要です」


「さっきまで契約に入ってないって言ってただろ」


 勝と乃亜のやり取りを聞きながら、杏子は笑っていた。


 やがて勝が車で出勤し、子どもたちもランドセルを背負って玄関へ向かった。六年生になった乃亜の背中には、期待と少しの緊張が同居している。貴教は黄色い帽子をかぶる必要がなくなったことが、四年生になった何よりの証しだと思っているらしい。


「お母さん、M&Yの申し込み、忘れないでね!」


「はいはい。乃亜は委員会の仕事を忘れないように」


「分かってる!」


「貴教は廊下でシャドーピッチングしないこと」


「外野手だからピッチングじゃないよ」


「そういう問題じゃない!」


 二人は笑いながら玄関を飛び出していった。杏子は家の前で、その背中が角を曲がるまで見送った。


 杏子自身も急いで身支度を整え、営業用の資料が入ったバッグを肩に掛けた。大手商社「栄商事」で営業を担当する杏子は、港南台駅から京浜東北・根岸線に乗り、川崎まで通勤している。


 玄関の鍵をかけようとしたところで、家の中から電子音が聞こえた。乃亜が自分の携帯端末を忘れていた。


「もう、最上級生が聞いて呆れるわね」


 杏子は端末を手にして家を飛び出し、通学路の先を歩いていた乃亜と貴教を追いかけた。


「乃亜! 忘れ物!」


 振り返った乃亜は、頭を抱えて大げさにその場へ崩れ落ちた。


「六年生としての威厳が、始業式の前に終わった……」


「最初からなかったんじゃない?」


 貴教が言うと、乃亜は弟のランドセルを追いかけるように走り出した。貴教も笑いながら逃げ、杏子は二人へ「走らない!」と声をかけた。


 四月の朝の住宅街に、姉弟の笑い声が響いていた。


 特別ではない朝だった。家族がそれぞれの一日へ向かい、夕方になれば同じ家へ帰ってくる。昨日までと同じように今日が始まり、今日と同じように明日も続いていくと、四人の誰もが信じていた。


 このときの斉藤家には、笑い声の絶えない日常が確かにあった。

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