三人分の朝
戻らない日常2
第25話「三人分の朝」
杏子の葬儀を終えた翌朝、勝はまだ外が薄暗いうちに目を覚ました。
隣には誰もいなかった。杏子が使っていた枕だけが、前の日と同じ位置に残っている。勝はしばらく天井を見つめたあと、体を起こして台所へ向かった。
冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、食パンをトースターへ入れる。家事をほとんど杏子に任せていたわけではない。休日には勝も料理をしていたし、子供たちの朝食を作った経験もある。
それでも、何を何人分用意すればいいのかを考えないまま、手だけがこれまでの習慣に従って動いた。
卵を四つ割り、食パンを四枚並べ、四人分の皿を食卓へ置く。
最後に杏子の席へコーヒーカップを置いたところで、勝の手が止まった。
「……三人だった」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
一枚余ったトースト。手をつける人のいない目玉焼き。湯気を立てるコーヒー。
勝は杏子の席から皿を下げようとしたが、できなかった。
やがて、乃亜と貴教が起きてきた。
乃亜は食卓を見ると、杏子の席に用意された朝食へ視線を落とした。何も言わず自分の席へ座ったものの、箸を持ったまま動かなくなった。
貴教は杏子の席を見つめ、尋ねた。
「お母さんの分?」
「……間違えて作ったんだ」
「間違えたんじゃないよ」
貴教は椅子を引いた。
「お母さんが帰ってきたときの分やろ?」
勝は返事ができなかった。
三人は黙ったまま朝食を食べ始めた。トースターの作動音も、食器が触れ合う音も、以前と変わらない。しかし、杏子の笑い声も、子供たちを急かす声も聞こえなかった。
乃亜は一口だけ食べると、箸を置いた。
「もういらない」
「少しでも食べたほうがいい」
「食べたくない」
「学校へ行くなら、何か食べないと」
勝がそう言うと、乃亜は杏子の席を見ながら答えた。
「お母さんがおらんのに、学校へ行って、普通に授業を受けて、給食を食べて、友達と話すの?」
「無理なら、今日も休んでいい」
「でも、ずっと休んでたら、お母さんが心配するやろ」
「そうだな」
「でも、行くのも怖い」
乃亜自身、どうしたいのか分からなかった。学校へ行けば、杏子が亡くなったことを皆が知っている。優しくされても苦しくなるかもしれない。何も触れられなくても、自分だけが別の世界へ取り残されたように感じるかもしれない。
貴教はランドセルを背負い、帽子をかぶった。学校へ行こうと決めていたが、玄関まで来たところで足が止まった。
靴箱の下には杏子の通勤用の靴があり、その隣には休日に履いていたスニーカーが並んでいた。
貴教は母の靴を見つめたまま、動かなくなった。
「貴教?」
「行ってきますって言っても、お母さんの返事がない」
勝がそばへ行くと、貴教はランドセルを背負ったまま座り込んだ。
「今までは、行ってきますって言ったら、お母さんが『行ってらっしゃい。車に気をつけてね』って言ってくれた。今日は誰も言ってくれん」
「俺が言うよ」
「お父さんの声じゃない」
その言葉に勝は傷ついた。しかし、貴教を叱る気にはなれなかった。
父親がどれだけ優しく声を掛けても、母親の代わりにはなれない。杏子と同じ言葉を使ったところで、杏子の声が戻ってくるわけではなかった。
乃亜が玄関へ来ると、杏子の靴の前へしゃがんだ。
「お母さん、私たち学校へ行ってくるね」
返事はない。
乃亜は涙を拭い、弟の手を取った。
「貴教、一緒に行こう。途中で帰りたくなったら、先生に言えばええから」
「お姉ちゃんは帰らん?」
「分からん。私も途中で無理になるかもしれん」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「うん。一緒に帰ろう」
二人が立ち上がったとき、家の外から複数の話し声が聞こえた。
勝がカーテンの隙間から外を見ると、自宅前に報道関係者が集まっていた。カメラを持つ者、マイクを手にする者、近所の住民へ話を聞こうとする者もいる。
葬儀が終わり、遺族が自宅へ戻ったという情報を得たのだろう。
勝が玄関を開けると、記者たちが一斉に近づいてきた。
「斉藤さん、奥様を亡くされた現在のお気持ちを聞かせてください」
「容疑者に対して、どのような処罰を望みますか」
「お子さんたちは事件について、どこまで理解されていますか」
「黒田容疑者が反省の言葉を述べていないことについて、どう思われますか」
フラッシュが光った。
玄関の奥にいた乃亜と貴教が身をすくめた。
「子供を撮らないでください」
勝は二人を背中に隠した。
「今は何も話せません。帰ってください」
「一言だけでもお願いします」
「帰ってください!」
勝の怒鳴り声に、記者たちは一瞬静まった。
そこへ、連絡を受けていた石黒刑事と所轄署の警察官、神奈川県の犯罪被害者支援員が到着した。警察官は家の出入りを妨げないよう報道陣へ求め、支援員は学校までの移動について勝と相談した。
結局、乃亜と貴教は警察官が見守るなか、真理子の車で学校へ向かうことになった。
車内で貴教は窓の外を見ながらつぶやいた。
「お母さんが死んだこと、知らない人にまで聞かれなきゃいけないの?」
真理子はハンドルを握ったまま答えた。
「答えたくないことには、答えなくていいんよ。貴教も乃亜も、カメラの前で悲しみを説明する必要なんてない」
「お母さんはニュースの人じゃない」
乃亜が言った。
「私たちのお母さんなのに」
港南小学校では、高橋真理教諭と松本健吾教諭が校門で二人を迎えた。学校側は別室を用意し、つらくなったらいつでも保健室や相談室へ行けるようにしていた。
乃亜の教室では、小川美羽がいつもの席を空けて待っていた。
「おはよう、乃亜」
「……おはよう」
それ以上、美羽は何も聞かなかった。ただ、乃亜が席へ着くまで隣を歩いた。
貴教の教室では、森田蓮とは別の野球仲間や、クラスメイトの藤原美緒たちが静かに迎えた。美緒は小さな紙袋を渡した。
「妹の芽依と一緒に折ったの。返事とか、お礼とかいらないから」
中には、色とりどりの折り鶴が入っていた。
「芽依、お祭りのとき貴教くんに助けてもらったから、今度は貴教くんを元気にしたいって」
貴教は紙袋を胸に抱いた。
「ありがとう」
午前中、黒田慎吾は斉藤杏子を含む三人への殺人容疑などで再逮捕された。
捜査本部は川崎駅の防犯カメラ映像、目撃者の証言、黒田宅から押収された記録を照合し、事件前から駅を繰り返し訪れていた経緯を調べていた。黒田が凶器を準備し、混雑する時間帯を選んで駅へ向かったことから、警察は強い計画性があったとみて捜査を進めた。
しかし、黒田は依然として被害者へ謝罪しようとはしなかった。
午後、石黒刑事が犯罪被害者支援員の西村香織とともに、斉藤家を訪れた。
乃亜と貴教は学校を早退し、すでに帰宅していた。二人とも授業中に気分が悪くなり、別室で過ごしていたという。
石黒は三人を前に、慎重に話し始めた。
「捜査中ですので、供述のすべてをお伝えすることはできません。ただ、ご家族が報道だけを通じて知ることにならないよう、現時点で共有できる範囲を説明します」
勝はうなずいた。
「黒田は事件を起こしたこと自体は認めています。自宅から押収された資料や防犯カメラの映像とも一致しています。一方で、動機については、女性や社会に責任があるという主張を繰り返しています」
「謝ってないんですか」
乃亜が尋ねた。
石黒は少し間を置いて答えた。
「現時点で、被害者やご遺族に対する心からの謝罪や反省は確認できていません」
「お母さんが亡くなったって、知ってるんですよね?」
「知っています」
乃亜は膝の上で拳を握った。
「それでも何とも思ってないの?」
石黒は答えなかった。その沈黙だけで、乃亜には十分だった。
支援員の西村が静かに説明した。
「皆さんが黒田容疑者へ伝えたいことがある場合、それを文書や供述調書として残す方法があります。今すぐ書く必要はありません。今後、検察官へ意見を伝えたり、裁判で被害者として心情を述べたりできる制度もあります」
「本人に届くんですか」
勝が尋ねた。
「捜査や裁判の進み方によりますが、ご家族が何を奪われ、どのような苦しみを受けているかは、刑事手続きの中で記録として残せます」
乃亜が顔を上げた。
「今、言ってもいいですか」
「もちろんです。無理に落ち着いて話す必要はありません」
乃亜は石黒をまっすぐ見つめた。その向こうに黒田がいるかのように、一つひとつ言葉を絞り出した。
「人殺し」
勝が止めることはなかった。
「あなたに、お母さんが何したのよ。お母さんはあなたのことなんか知らなかった。普通に仕事をして、私たちのところへ帰ろうとしてただけ。それなのに、どうして殺されなきゃいけなかったの?」
声が次第に震え始めた。
「お母さんは、私が大人になるところを見るはずだった。貴教が野球をするところも見るはずだった。お父さんと一緒に、もっとずっと生きるはずだった。あなたが勝手に全部終わらせたんだよ!」
貴教も姉の隣へ座った。
「お母さんを返して」
石黒は貴教の言葉を書き留めた。
「僕らの暮らしを元に戻して。四人でご飯を食べて、野球の試合を見てもらって、みんなで笑ってた暮らしを返してよ。お母さん、何も悪くないやろ」
「うん」
西村が涙をこらえながらうなずいた。
「お母さんを返せないなら、最初から傷つけないでほしかった。僕らのお母さんを、知らない人の怒りに使わないでほしかった」
最後に勝が口を開いた。
「私は黒田慎吾を許しません」
静かだが、揺るぎのない声だった。
「妻の命を奪ったことも、子供たちの未来を壊したことも、そのうえ被害者へ責任を押しつけていることも、すべて許せない。妻が何を考え、どれだけ家族を大事にしていたのか、あの男は何も知らない。それでも一方的に命を奪った」
勝は杏子の遺影を見た。
「今は、死刑にしてほしいという気持ちさえあります。ただ、どんな判決が出ても杏子は帰ってこない。それが一番苦しい。私はこれから、子供たちを守りながら、あの男がしたことを法廷で明らかにしてほしいと訴え続けます」
石黒はノートを閉じた。
「今のお言葉は、責任を持って記録します」
事件で命を奪われたのは、杏子だけではなかった。
二十九歳の保育士・佐野恵美と、五十七歳の会社員・大川隆志も亡くなっていた。十三人の負傷者の中には、退院の見通しが立たない人、体に後遺症が残る可能性を告げられた人、駅へ近づくだけで事件を思い出す人もいた。
それまで遺族や負傷者は、それぞれ別の病院や自宅で、孤立した苦しみを抱えていた。
警察の犯罪被害者支援窓口は、個人情報を勝手に共有することはできない。そのため、双方の同意を確認したうえで、希望する被害者や遺族同士をつなぐことになった。
数日後、勝のスマートフォンへ一通のメッセージが届いた。
送り主は、亡くなった佐野恵美の姉・佐野由佳だった。
『突然のご連絡をお許しください。妹の恵美を川崎駅の事件で亡くしました。警察の支援員の方から、斉藤様もほかの遺族との連絡を希望されていると伺いました。私たちだけでは抱えきれないことを、同じ事件に苦しむ方々と話せればと思っています』
大川隆志の妻・大川節子からも連絡があった。
十三人の負傷者のうち、参加を希望した人たちからも、少しずつメッセージが届き始めた。
二十四歳の会社員・新井理央は、腕と肩に重傷を負い、現在も入院していた。
『自分だけが生き残ったことを申し訳なく感じています。でも、家族から、生き残ったことを謝らないでと言われました』
四十六歳の森川修司は、逃げる乗客を誘導している最中に負傷していた。
『駅の映像を見ると今でも体が動かなくなります。事件を思い出すことは怖いですが、何が起きたのかを一緒に伝えていきたいです』
勝は乃亜と貴教に相談した。
「同じ事件で家族を亡くした人や、けがをした人たちと連絡を取り合おうと思う。二人はどうしたい?」
乃亜はしばらく考えた。
「会ってみたい」
「つらくなるかもしれないぞ」
「私たちと同じように、返してほしい人がいるんやろ? 私、お母さんのことを話したい。その人たちの大切な人のことも聞きたい」
貴教もうなずいた。
「ニュースだと、三人死亡、十三人けがって数字だけやった。でも、みんな名前があって、家族がいるんやろ?」
「ああ」
「だったら、名前で呼びたい」
勝は、子供たちの言葉を聞きながら連絡会への参加を決めた。
新しく作られたグループには、遺族や負傷者本人、その家族が、一人ずつ参加していった。
最初のうちは、誰も何を書けばいいのか分からなかった。
やがて佐野由佳が投稿した。
『恵美は子供が大好きな保育士でした。事件の日も、園児の誕生日会で使う飾りをバッグに入れていました』
大川節子が続けた。
『夫は無口でしたが、孫に会うと何でも買ってしまう人でした。事件の日は、孫の誕生日プレゼントを選んで帰る途中でした』
勝も杏子について書いた。
『妻の杏子は三十八歳でした。仕事をしながら、十一歳の娘と九歳の息子を育てていました。笑うことと音楽が好きで、事件の少し前には家族で横浜ライブへ行きました。あの日は、家でハンバーグを用意して待っていました』
送信して間もなく、いくつもの返信が届いた。
『杏子さんのことを教えてくださり、ありがとうございます』
『恵美と隆志のことも、数字ではなく一人の人間として覚えてください』
『私たちも杏子さんを忘れません』
斉藤家の痛みが消えたわけではない。杏子のいない朝が、つらくなくなったわけでもなかった。
それでも、自分たちだけではないと知った。
同じ事件によって暮らしを壊された人たちが、互いの名前を呼び、奪われた日常を言葉にし始めていた。
その日の夕方、乃亜と貴教は玄関で靴を脱いだ。
「ただいま」
当然、杏子の返事は聞こえない。
しばらくすると、勝が台所から顔を出した。
「おかえり」
母の声ではない。
けれど、二人を待っていた家族の声だった。
「ただいま、お父さん」
三人だけの暮らしは、まだ始まったばかりだった。
次回予告
川崎駅無差別刺傷事件の遺族と負傷者が、初めて顔を合わせることになった。
杏子、佐野恵美、大川隆志。三人の遺族は、それぞれが失った人の思い出を語り、負傷者たちは体の傷と心に残った恐怖を打ち明ける。
「生き残った私が、笑ってもいいのでしょうか」
新井理央の言葉に、乃亜が答える。
「生きてることを謝らないでください。悪いのは、傷つけた人です」
一方、検察は黒田慎吾の起訴へ向け、目撃証言と押収された記録の精査を進める。黒田の弁護人は刑事責任能力について調べるよう求め始める。
次回、第26話「同じ痛みを抱く人たち」。
別々の場所で苦しんできた被害者たちは、裁判へ向けて初めて手を取り合います。




