お母さんとのお別れ
戻らない日常2
第24話「お母さんとのお別れ」
司法解剖を終えた杏子が、ようやく家族のもとへ戻ってきた。
葬儀場の安置室で、勝、乃亜、貴教は杏子と再会した。白い布団に横たわる杏子は、眠っているように見えた。顔には穏やかな化粧が施され、事件で負った傷は服の下に隠されている。
「お母さん、帰ってきたよ」
乃亜が呼びかけても、杏子は目を開けなかった。
貴教は母のそばへ駆け寄り、その手を両手で包んだ。病院で握ったときよりも冷たくなっていることに気づき、驚いたように勝を振り返った。
「お父さん、お母さんの手、冷たいよ」
勝は答えられなかった。
貴教は杏子の手を一生懸命こすった。
「こうしたら温かくなるよね。病院にいたときみたいに、また握り返してくれるよね」
「貴教……」
「まだ何も言えてないんよ。お母さんに言わなきゃいけないこと、いっぱいあるんよ」
勝は貴教の肩を抱きながら、杏子の顔を見つめた。
まだ伝えたい言葉があるのは、勝も乃亜も同じだった。
通夜の日、葬儀場には大勢の人が集まった。
祭壇の中央には、杏子が横浜で撮影した笑顔の写真が飾られていた。その周囲を白や淡い桃色の花が囲み、栄商事、イモト、港南小学校、港ブルーサンダース、横浜リトルファイヤーズから届いた供花が並んでいた。
ファイブピーチ★からも、大きな花が届けられていた。札には、美香、光子、優子、奏太、小春の五人の名前が記されている。
親族の最前列には、勝の妹・真理子と弟・健太、杏子の兄である宮原智樹と宮原直哉、そして両家の両親が座った。
栄商事の宮本をはじめとする同僚たちは、遺影の前で何度も涙を拭った。
「斉藤さん、来週の予定まで全部準備してくれていたんです。いつも周りの人のことばかり考えて……」
イモトの開発チームの仲間たちは勝へ頭を下げたが、掛ける言葉を見つけられなかった。勝が杏子へ北海道一周の約束をしていたことを知っていた同僚の一人は、完成間近の新型車の小さな模型を持ってきた。
「斉藤さん。これを奥様のそばへ置いてあげてください」
勝は模型を受け取り、しばらく見つめた。
「杏子には、量産が始まったら、この車で北海道を一周しようって言っていたんです」
「奥様も楽しみにされていたんですね」
「ええ。函館から入って、札幌へ行って、富良野や知床も回ろうって。子供たちがもう少し大きくなったら、長い休みを取るつもりでした」
勝は車の模型を胸元へ引き寄せた。
「そのために開発を頑張っていたはずなのに……何のために作っていたのか、分からなくなりました」
港南小学校からは、高橋真理教諭と松本健吾教諭、小川美羽をはじめとするクラスメイトたちが参列した。
美羽は乃亜の前に立つと、何も言わずに抱き締めた。
「乃亜、一人で我慢せんでええからね」
「美羽……」
「学校へ来られない日は、休んでええよ。でも来たくなったら、私、ずっと待ってるから」
乃亜は美羽の肩に顔を伏せ、声を上げて泣いた。
港ブルーサンダースの横山紗良、石井結衣、田辺心春、小林凛、松永七海も、村瀬監督とともに訪れた。
紗良は遺影の前で手を合わせたあと、乃亜へ伝えた。
「乃亜のお母さん、いつも応援席から一番大きな声を出してくれてたよね」
「私、言ってたんよ」
「何を?」
「いつか女子のプロバスケット選手になって、オリンピックにお母さんを連れて行くって。お母さん、海外へ行ったことがないから、代表に選ばれたら一緒に行こうって」
乃亜は遺影を見上げた。
「まだ小学生やから、これからいっぱい相談したいこともあった。中学生になったらどんな服を着たらいいかとか、好きな人ができたらどうしたらいいかとか、女同士でお母さんに聞きたいことが、これからもっと増えるはずだったのに……」
紗良は乃亜の手を握った。
「全部、お母さんに聞きたかった」
「うん」
「私、まだまだお母さんに甘えたかったよ」
横浜リトルファイヤーズからは、大森監督、森田蓮、河合悠斗たちが訪れた。チームメイトたちは、寄せ書きされた野球ボールを貴教へ渡した。
そこには、「また一緒に野球をしよう」「貴教のことを待っている」「お母さんはずっと応援している」と書かれていた。
大森監督が杏子の遺影へ一礼した。
「貴教から聞いたことがあります。将来、ベイスターズの選手になるんだって」
貴教はうつむいたまま答えた。
「お母さんを、日本一の外野手の母親にするって約束してた」
「そうか」
「ハマスタの一番いい席に招待して、俺が外野からホームへ投げるところを見せるって言った。お母さん、楽しみにしとくって笑ってた」
貴教の声が震えた。
「俺がもっと早く大きくなってたら、見せられたのに」
大森監督は貴教の前へ膝をついた。
「貴教、それはお前のせいじゃない。お前が大きくなるのが遅かったんじゃない。お母さんとの時間を勝手に奪った人間がいるんだ」
貴教は唇をかみ、何度もうなずいた。
通夜の席では、光子と優子から届いた弔電が読み上げられた。
『杏子さんがご家族とともに私たちの音楽を楽しんでくださったことを、決して忘れません。横浜ライブで同じ時間を過ごせたことは、私たちにとっても大切な思い出です。乃亜さん、貴教さん、勝さんが、悲しみを一人で抱え込まないことを願っています。ファイブピーチ★一同』
乃亜は母と一緒に使った横浜ライブの限定タオルを胸に抱き、静かに弔電を聞いていた。
一方、川崎駅の改札付近には、献花台が設けられていた。
三人の犠牲者を悼む花束や飲み物、手書きのメッセージが、途切れることなく手向けられていた。
杉本駅員は勤務を終えたあと、制服のまま献花台の前へ立った。
「どうして、あのとき止められなかったんだ……」
黒田に違和感を覚え、鉄道警察隊への連絡も行っていた。それでも事件を防ぐことはできなかった。
高瀬駅員が隣へ立った。
「杉本さんの責任じゃありません。連絡を受けていたから、鉄道警察隊もすぐホームへ向かえた。もっと遅れていたら、被害はさらに大きくなっていたかもしれません」
「でも、亡くなった人が三人もいる。斉藤さんは、子供を逃がそうとして襲われたんだ。俺は黒田を前にも見ていた。それなのに……」
「俺たちにできるのは、検証から逃げないことです。何を見落としたのか、どうすれば同じことを防げるのか、組織全体で考え続けるしかありません」
杉本は三本の白い花を献花台へ置き、深く頭を下げた。
同じ頃、取調室では石黒刑事が黒田慎吾へ、事件の被害状況を伝えていた。
「死亡した被害者は三人。重軽傷者は十三人に上っている。その中には、今後も長い治療やリハビリが必要な人もいる」
黒田は机の一点を見つめたまま、表情を変えなかった。
やがて、吐き捨てるように言った。
「たった三人、死んだだけですか」
石黒は黙って黒田を見た。
「もっと死ねばよかったのに」
取調室の空気が凍りついた。
同席していた捜査員が思わず黒田をにらんだが、石黒は感情を抑え、静かに尋ねた。
「三人には、それぞれ家族がいた。あなたが傷つけた十三人にも、それぞれの人生がある。それでも同じことを言えるのか」
「俺の人生だってめちゃくちゃにされた」
「あなたの人生をめちゃくちゃにしたのは、交際を断った女性ではない。駅にいた被害者でもない。拒絶を受け入れず、つきまといを続け、最後には人を殺すことを選んだ、あなた自身だ」
黒田は顔を背けた。
謝罪の言葉はなかった。
黒田の両親もまた、警察署へ呼ばれていた。
父・黒田正和は六十八歳、母・黒田文江は六十五歳。二人は憔悴した表情で、慎吾がどのような子供だったのか、学生時代に何があったのか、捜査員から詳しく事情を聞かれた。
「小さい頃は、おとなしい子でした」
文江は震える声で話した。
「成績も普通で、大きな問題を起こしたこともありません。ただ、自分の思いどおりにならないことがあると、いつまでも相手を恨むところがありました」
正和も重い口を開いた。
「高校生のとき、好きだった女子生徒に断られたことがありました。そのときも、相手が見る目のない女だから悪いと言っていました。私たちは、いつまでもそんなことを言うなと叱りましたが……大人になれば分かるだろうと思って、それ以上向き合いませんでした」
「長谷川理沙さんへのつきまといについては、ご存じでしたか」
「警察から警告を受けたあと、本人から聞きました。慎吾は、自分は何もしていない、女性が大げさに騒いでいるだけだと言っていました」
「それを信じたのですか」
正和は両手で顔を覆った。
「信じたかったんだと思います。息子がそんなことをするはずがないと……でも、私たちは事実を確かめようとしなかった」
文江の目から涙が落ちた。
「亡くなった方や、ご家族に何と申し上げればいいのか……謝って済むことではありません」
捜査員は、両親の後悔と、黒田本人の刑事責任は別のものとして慎重に話を聞いた。親がすべての行動を予測できたわけではない。しかし、黒田が以前から他人へ責任を押しつける傾向を持っていたことは、事件の背景を解明するうえで重要な証言となった。
黒田からつきまとい被害を受けた長谷川理沙も、事件の報道を見て苦しんでいた。
理沙は現在、当時から交際していた航平と結婚していた。その夜、ニュースで杏子たち三人の死亡が伝えられると、理沙はテレビを消し、両手で顔を覆った。
「私が断らなければ、この事件は起きなかったのかな」
夫の航平は、理沙の隣へ座った。
「理沙、それは違う」
「でも、私が慎吾さんの気持ちを受け入れていたら、警察に相談しなかったら、あの人は孤立しなかったかもしれない。そうしたら、あの三人は――」
「違うよ」
航平は強い口調で遮ったあと、理沙の手を握った。
「誰と付き合うかは、理沙が決めていい。断られたあとにつきまとったのも、何の関係もない人たちを襲ったのも、全部黒田本人が選んだことだ。理沙が交際を断ったことと、黒田が人を殺したことを、同じ線で結んではいけない」
「でも、亡くなった人の家族は……」
「理沙も被害を受けた一人だ。黒田の責任まで背負ったら、今度は黒田に心まで傷つけられることになる」
理沙は航平の胸元で泣いた。
理屈では分かっていても、罪悪感は簡単には消えなかった。それでも航平は、何度でも「あなたの責任ではない」と伝え続けるつもりだった。
翌日の葬儀。
最後の別れの時間が訪れた。
参列者たちは、一人ずつ花を手に取り、杏子の棺へ納めていった。勝は開発中の新型車の模型と、小さく折り畳んだ北海道の地図を杏子のそばへ置いた。
「一緒に行くって約束したのにな」
勝は杏子の頬へ触れた。
「函館も、富良野も、知床も、お前と一緒に見たかった。運転を交代しながら、四人で一周するはずだった。俺が作った車に、お前を一番最初に乗せたかった」
涙が杏子の顔のそばへ落ちた。
「何十年先まで、一緒にいるつもりだった。こんなところで約束が終わるなんて、思ってなかったよ」
乃亜は、横浜ライブの限定タオルを広げた。事件のあと、家中を捜して見つけた大切なタオルだった。
「お母さん、これ、入れるね」
杏子の胸元へ、そっとタオルを掛ける。
「お母さんと一緒に行ったライブ、絶対に忘れんよ。私、いつかプロの選手になる。オリンピックにも行く。お母さんを会場へ連れて行けないのは悔しいけど、試合の前には必ず心の中で話しかけるから」
乃亜は母の顔を見つめた。
「女同士で、もっといろんな話をしたかった。恋の話も、将来の話も、失敗したときの話も聞いてほしかった。私、まだ十一歳やで。まだまだ、お母さんが必要やったんよ」
声が続かなくなり、乃亜は棺へ顔を伏せた。
最後に、貴教の番が来た。
貴教は杏子の手を握ったまま、動こうとしなかった。
「貴教、お母さんに言葉を伝えよう」
勝が促しても、貴教は首を横に振った。
「言ったら、本当にお別れになる」
葬儀社の担当者が、もうすぐ棺の蓋を閉じなければならないことを静かに告げた。
「閉めないで」
貴教が杏子の手へしがみついた。
「お母さんが暗いところに一人になるやん。暗いの怖いやろ。俺も一緒に行く。お母さんだけにせんから」
「貴教」
「嫌や! 閉めんといて! お母さん、まだ俺の試合を見てない! 俺、まだベイスターズの選手になってない!」
智樹と直哉も顔を伏せ、真理子は声を上げて泣いた。
勝は貴教を後ろから抱き締めた。
「お母さんは一人じゃない。俺たちが忘れない限り、ずっと一緒にいる」
「そんなの分からん!」
「分からなくてもいい。今は納得できなくてもいい。でも、お母さんは、貴教が自分まで一緒に行くことを望んでいない。野球を続けて、友達と笑って、大きくなってほしいと思ってる」
貴教はしばらく泣き続けた。
やがて杏子の手をもう一度両手で包み、震える声で話し始めた。
「お母さん。僕、ベイスターズの選手になるから。日本一の外野手になるから」
涙で言葉が途切れた。
「そのとき、お母さんは日本一の外野手のお母さんやからね。ハマスタで見てもらえんくても、空から絶対見ててね。俺、諦めんから」
貴教は杏子の手へ頬を寄せ、最後に小さく言った。
「お母さん……いってらっしゃい」
乃亜と勝も杏子のそばへ寄った。
「お母さん、いってらっしゃい」
「杏子、いってらっしゃい」
棺の蓋が、ゆっくりと閉じられた。
三人にとって、それは「さようなら」ではなかった。いつかまた会えると信じるための、最後の「いってらっしゃい」だった。
しかし、杏子が玄関を開けて「ただいま」と帰ってくることは、もう二度となかった。
次回予告
杏子の葬儀を終え、斉藤家に三人だけの生活が始まる。
勝は無意識に四人分の朝食を用意し、乃亜は母の席を見るたびに箸を止める。学校へ戻ろうとする貴教も、玄関で杏子の靴を見た瞬間、動けなくなってしまう。
「行ってきますって言っても、お母さんの返事がない」
一方、黒田慎吾は杏子を含む三人への殺人容疑で再逮捕される。警察は防犯カメラや目撃証言をもとに、事件の全容解明を進めていた。
事件について報じようとする記者たちが斉藤家の周辺へ集まり、家族は新たな苦しみにさらされる。
次回、第25話「三人分の朝」。
杏子を失った斉藤家は、それでも始まってしまう一日を、どう生きるのでしょうか。




